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衛星カリスマからの電信





■















 目次


 第一部


  一 出雲日御碕
  二 集まった理由
  三 相貌失認
  四 ナカノセ
  五 メザシの掟
  六 広島の風鈴
  七 ビッグハムスタア
  八 カリスマの朝
  九 フロリダの夜
 一〇 ヒマワリの花束
 一一 ゲッツ氏義橋
 一二 暗射試験
 一三 ハニートラップ
 一四 模擬戦


 第二部


 一五 指輪計画
 一六 星の世界へ
 一七 空の贈物
 一八 反省会
 一九 暴動
 二〇 騒動
 二一 山手の洋館
 二二 主観的イワン
 二三 かわいい冷戦
 二四 サージカルストライク
 二五 一人の終戦
 二六 三十三億人の開戦
 二七 ニオベ
 二八 現存艦隊主義
 二九 沖ノ島小学校
 二丸 灯台局原則


 第三部


 三〇 菓子薬
 三一 水源の男たち
 三二 点滅
 三三 跳躍
 三四 炊き出し
 三五 ダイニング
 三六 赤いポピー
 三七 ネズミへ
 三八 血を分けた兄弟
 三九 エシックス
 四〇 ハンス・ブリンカー作戦
 四一 決河


 第四部


 四二 入れ子
 四三 歴史的背景
 四四 幸運の兵士
 四五 衛星カリスマからの電信
 四六 二つの世界
 四七 帰還兵
 四八 祝砲


  ∇ 資料

















§ 第一部
















§  出雲日御碕

 窓の外は晴れているが海風は強い。人影もなく、ただ白亜の塔が聳えている。その塔は日本最大の灯台、出雲日御碕(いずもひのみさき)。海原の青を背に佇む姿は一際凛々しい。戦時の名残で所々暗緑色の塗装が残るのが玉に瑕であった。水色の空の中に磁石で浮ばせたかのように翼を広げて停止しているウミネコの群れは、空を蔽う全ての飛行機がこの世から消滅し、置き換わってしまったかのような印象を与える。その中央に座する巨塔はやはり時間を無視しているような気配を漂わせている。偉容と均整の極みは不可思議である。

 海から内陸の方へ目をやると、小さな甲虫のような黒光りする車が一台向かってくるのが見えた。トヨダのAA型乗用車。灯台を目印に白く乾いた土道を走ってくる。この時世に車である。羽振りのいい大手商社。当時財閥企業の社員ともなれば羨望の的であった。お近づきになれれば、きっと良いことがあるに違いない。同僚最年少だった経ヶ岬はまだまだ子供で、勤務中にもかかわらず、先生の許可もとらずに本能で迎えに行く。ネクタイを締め直す彼の手に土産がちゃんと用意されていることを確認すると、あの子は飛び跳ねて喜んでいた。その経ヶ岬よりはマシとはいえ、やはりまだ子供であった私は仕事の手を休めて、オフィスの窓際に近付き、その様子を呆れた素振りをして眺めていた。

 彼の手土産はお米と、あとは何だったのだろうか。今となっては推測でしかないが、青年は確か清水がどうのこうのと、京都を回ってきたようなことを言っていたから、八つ橋か何かだったのではないかと思う。しかし、私たちはこれを泣く泣く食べ損ねることとなる。
 曰く、我々は金品の贈与を受けることは出来ないので。
 それは先生の生き様であり、吏道に則っている故というのはむしろ言い訳に過ぎなかったように思う。
 規則でそうなっているのであるからと先生は、食管法や公務員規則を根拠に、贈与を受け取れない旨の説明を淡々と繰り返していた。
  当時この啖呵を切れる者はそうそういない。闇市が必要であった時代である。他人に法を強要すれば逆に罵られるぐらいには皆切迫していた頃の話である。我々の俸給は保証されてはいたものの、それでもまだ満ち足りた生活があったわけではなかった。
 青年は言う。「ほんの気持ちです。状況が状況ですし、持ちつ持たれつですよ」と。
 青年は愛想笑いとも苦笑いともつかない奇妙な笑みを浮かべたが、出雲先生は相変わらずの調子であり、それにつられて笑うようなところはなかった。
 自分は身分を国より保証されており、一個人に助けてもらう必用はないのだと出雲先生は言うのである。
 ついには「どうしても寄付がしたいというのならば、共同募金にでも寄付すればよいではないですか?」と、出雲先生は昨年開始された赤い羽根募金のチラシをズイと差し出す。差し出された方はまるで、麻酔を打たれたかのように、微動だにしない。
 最後のほうに到っては青年がもはや可哀想な状況になっていた。それでも彼は往生悪く、あるいは勇敢にも上から謝礼を受け取っていると確認してきた旨、灯台守は生活が苦しいと聞き及ぶ云々、何とか弁解じみたことを口にしていたが、不意に低い声が、黄泉から来るようにして響き、話を中止させた。
「前任者のことは知りませんが、私は賄賂は一切受け取れないのですよ」
 それと我々は灯台守ではなかった。
 出雲先生の瞳がガラスのように微動だにせず堅く光り、男の目が寒天のようにキョロン、キョロンと動くのを見比べて、こりゃ駄目だと、皆早々に各々の机へと捌ける。経ヶ岬だけはしぶとく机に戻ろうとせず、お米を受け取るべく枡を手に、うろうろしていた。
 私は自分の席に戻ると、暫しそこから、最大限の関心でもって、先生の言に聞き耳を立てていた。
 青年はこの期に及んで、ひそひそとこんなことを言う。
「おなご先生、このぐらいはどこも普通ですよ」
「おなごと言いましたね?」
 先生は、ようやくして、そんなところで心外とばかり問い返すが、まあ、五〇で若手のこの世界では、間違いなくおなごの部類である。出雲先生は若干二十九歳。小さな研究機関だったとは言え、局長と呼ぶにはまだまだ若過ぎるぐらいであった。
「未熟は承知しておりますが、私はここの責任者となって既に二年になります。他所がどうなっていようと我々は違います」
 出雲先生は普段はここまで無愛想なわけでもないのだが、プレゼントが駄目なようで、ちょっとしたお土産程度でもこのありさまだった。
 昔まだ日御碕周辺に民家があった頃、近所の小学生が見学すると言って、お土産に山のようなネコジャラシを束にして持ってきたことがあった。出雲先生は丁寧語と標準語を崩さない人なので、子供達の方は随分と緊張していたと思うが、先生は、彼らを突っ返すようなこともなく、大事にしている茶菓子の封を切って彼女なりにもてなしていた。
 出雲先生にお土産を持って行くのならそのくらい屈託のない粗品の方が良いと思われる。どのみち、暫くすると、灯台局の周囲には外壁が張り巡らされて民間の人間が出入りすることは出来なくなってしまったのではあるが――。

 出雲先生は二代目の局長であり、実は初代の局長に沖ノ島という人があった。ただ、この人は、私が灯台局に来るのと入れ替わるようにして出て行ってしまったので、この人をちゃんと知ったのは、それよりも随分後になってからのことである。彼女は冷戦期においては、福岡の沖ノ島という自身と同じ名の無人島に左遷され、実質上の監禁下にあったので、素性を知ろうにもたまに送られて来る手紙ぐらいでしかその人となりを知る事は出来なかったのである。

 彼女は僅かな間の局長だったが、終戦直後の物不足の時代に村民の差し入ればかりか、進駐軍の将校まで手玉にとってプレゼントの山を築いたという。もっともこの人は子供の頃からの伝手で長崎の養育館に出入りしており、そのための寄付を募っていたのではあるが、公私混同、灯台局長という立場を存分に使っていた。
 闇市肯定派でもあって、彼女が大ママと呼んで慕っていたポッタリさん直伝のやり取りであの時代に随分値切ってみせたという。庶民の図々しさと小罪の数々は不問、壮大な平和主義の信条を謳うような手合いであった。その当時は根っからのおしゃべりであり、演説や説教のみならず、漫才も講談もやってのける程の口達者で、話にはこと欠かない人だったという。第一に秘守義務を課せられている灯台局という職場で働くには色々と不都合の多い性格だったろうと思われる。同じ灯台局長であり、世離れの程度は似たり寄ったりではあったが、そういう点では出雲先生とは対照的な人物であった。
 一方、出雲先生が灯台となる前のことは、先生がほとんど口にしなかったこともあって、よく判らないことの方が多い。ただ、病気持ちの父との二人暮しであったとの話である。その父という人は徴兵検査で弾かれて以後、村で巡査をやっていたが、満州で内戦が始まると、職務上、村の若者に召集令状を渡す手前「兵役を落っこちたくせに徴兵に精を出す輩」と陰口を叩かれるようになり、出雲先生が小学校を卒業するのを待って養女に出した後、自刃した。亡くなった時の体重は僅か十貫(三十七・五キロ)しかなかったと聞く。
 自刃とは言え、ほぼ衰死に近い。片田舎であったにせよ陛下の警察官たる者が内地にて衰死というのは本来ならば不可能であるが、昭和一桁第の生活の苦しさは戦後の闇市の時代に劣らない厳しいもので、昭和飢饉においては欠食児童二〇万、飢餓人口四十五万を超える状況であったのは事実である。
 出雲巡査の骸の脇には僅かな救恤金と、村の惨状を訴え、天皇陛下に助けを乞う嘆願書が残された。その後の紆余曲折は、時間が経ちすぎており調べる術もないが、一つ確かなことは、残されたその子は壮絶な刻苦勉励の末に旧制の専門学校を卒業したということである。
 そういった過去もあり、出雲先生の背後には村――国家に忠誠を誓う父の影が色濃く反映されていた。

 当時の憲法において臣民の三大義務とは一に兵役、二に納税、三に教育であり、日本帝国なき後も、その義務を果たせようもなかった貧しい出雲親子を忠誠や勤勉のとりこにし続けていたのである。

 出雲先生は時折、自分のことを劣等生であったと口にした。ともすれば、どこどこで首席であったの、学区賞を総なめにしていただのとなる私たちの高慢ちきを嗜めるべく、謙遜しているものと思われたが、半世紀を経たある時、島根の廃村で思いがけないものが見つかった。先生の小学校の頃の通信簿である。小学生の頃の彼女の成績というのは、まあ、惨憺たるもので、我々の知る出雲先生とは一切結びつかず、暫し皆で唖然とした。
 加減乗除を覚えて以後、小学校卒業後の三年間で理数の学問は地道に進んでいったが、先生は国語が苦手だったようで、先生のノートは長らくカタカナだけでベタ打ちしたものが多かった。それも、五十音にないカタカナや漢字の編や冠を勝手に組替えた奇妙な文字が散見されるというとんでもない代物である。更には句読点に独特の拘りがあり、文語で句読点が使われ始めて間もない時代にあった白点を、第三の句読点として使う。これは欧文のセミコロンに近い。テンとマルの中間的な状況に使い分けるという、ある種原始的な言語感覚を持っていた。幼少の彼女は何らかの理由でもって、ほぼ独学であったのだろう。到底正規の義務教育を受けてきた者の書く文字ではありえなかった。途中、そういう勝手な記述を咎められて、楷書で勉強するように指導を受けたらしく、良くも悪くも、標準表記に克服されていく過程が見て取れる。
 先生の学生時代のノートというのは見るのが恐い。
 その量は人間一人分の嵩をゆうに超えており、私が幼少期を送った天井の低い四畳半であれば簡単に屋根を突き抜けてしまうことだろう。ノートを開くと、どこを開いても字間に隙間が見当たらない。昭和十五年前後は特にきつい。目が痛むぐらいに、字を詰めてある。数列和の演習問題に突き当たった時など、それを解くためだけに実に十冊近いノートを割いている。己の不理解を呪うかのようにして制約の中での怒りが鉛筆の先で鋭く突いた跡になって残っていた。先生の使う鉛筆は色がなく、二硬(2H)ばかりである。硬い鉛筆は減りが少なくて済む。そういう工夫だった。
 師範学校に進んだ後、彼女の母校であった小学校に訓導として戻り、そこで奉職を経て学資を工面し、東京女子医専に進学している。「ノートが私の背を超えた」との記述以後、更に一メートルを超えるノートを積み重ね、先生は席次百十八人中、百七番の成績で、長く厳しい学生時代を終了した。
 私の出会った出雲先生はその後の姿である。

 出雲先生は毎週二・五ミリだけ、硝子を伸ばしたような艶のある栗毛の髪を切り落とす習慣があった。その素早さと正確な髪切りの儀式は初めて見た人は必ず驚嘆する。切り落とされた髪先は一切床に落ちることはない。出雲先生のすらりと伸びた腕から暖炉に渡り、パチパチと火花になって消えてしまう。まったくもって美しい奇術である。灯台局の最年少――経ヶ岬など、日曜日の朝には、自分も二・八ミリだけ髪を切ってもらおうとハサミを持ってチョキチョキしながら待ち構えていたほどだった。

 出雲先生を前にして私の出る幕でもないが、私はといえば戦中から髪を好きなだけ巻いていた。
 戦時の倹約のために巷には「パアマネントハヤメマセウ」などとヘッポコなことが張り紙してあったが、私には関係のないことであった。爪も出来る限り伸ばして、暇さえあれば終始研磨しているような存在だった。誰に何と罵られようとその立場を固持し、周囲のもんぺ女とは別種の何かになってみせた。何やっても出来たし、老若男女、鬼畜米英問わず敵ナシである。当然のように天狗だった。戦争が終って自由になった時、私は腐った日本を世直ししてやるぐらいの気持ちで故郷を飛び出したのだが、国許を出て県境を跨いだ直後、出雲先生と出会ってしまい、己の研磨も学問も全て児戯であることを思い知る羽目になった次第である。恥じるにせよ、尊ぶにせよ、私が何かを思い知るということを味わったのはその時が初めてである。私の保護者がいわゆる華族様であった上に、商事の頭取だったこともあって生活は罪なほどに優遇されており、少年期に見舞われた戦禍は、幾ら悲しむフリをしても私にとっては絵空ごとでしかなかったということを正直に告白しておく。
 私のことはまあいいだろう。私の人生における主人公は出雲先生であって、己ではなくなってしまったのだから。





§  集まった理由

 私が灯台局に来た時の人員は出雲先生を含めて、二十人余り。人員は流動的であり、当初は男性職員の方が若干多いぐらいであったが、GHQもといG2機関の命令で、公職追放に準じた人選が行なわれると、篩にかけられたかのように見る間に女ばかりの職場に変貌していった。
 気がつけば薬剤師ばかりで、さながら女子薬専OB会の状態。戦時の都合で、私を含めちゃんちゃらの医師免状を持っている者も多かったが、室戸と出雲先生を除けば、大した手術経験はない。薬専時代に自決用の毒薬開発に携わったとか、副作用の解っていない、いいや、解りきっているような薬剤を調剤するような密命を受けていたという話は、何かしらあって、後ろめたいことをやってきたという思いを、皆持っていたと思う。なのに、自分は選良であったという意識も強かった。そういった諸々の感情がごちゃ混ぜになっており、昼日中にありながら、ふっと、誰かが、暗闇に落ちて消えてしまいそうな、むしろ自分から望んで暗闇の中へ消えてしまいたくなるような危うい気配が漂っている職場であった。
「国にはもう帰れない」と、鸚鵡のように言っていたあの青年は、いつの間にか灯台局から消えた。今になっては、その人が本当は何という名で、どういった経緯で、灯台局にあったのかは、杳として知れない。
 灯台局は別に薬臭い女を特定して集めたかったわけでもないので、灯台局の目付役であったブラウン少佐には、訝しい顔をされた。つまり、純粋に結果として、そういうのが残った。

 ある一面では、戦後の医師不足から、公職追放があろうとも、多くの医師は民間病院へ回され、看護婦は看護婦で手術には必須人員であったので行く手数多。研究者を除けば薬剤師は余っていたという事情がある。戦直後の逼迫した状況で、そもそも薬が手に入らない。それ以前に当時の日本は食糧事情の方が深刻で、切って張って治らない患者は、調剤の出る幕もなくそこまでだったのである。
 そんな時代にあって、女子薬専は花嫁学校はもとより、職業婦人養成学校かどうかも怪しくなっていたのは順当なことであった。
 私の地元は文明の浸透せぬ不明の地であり、洋服を着ている人間を見ると犬がショックを起こすと文豪は危ぶむ。
 女学校で渋々。師範学校に行きたいと言うと生意気呼ばわり。医専に行きたいと言えば「非国民」と散々――考えあぐねて「薬専は女学も多いのだから、花嫁学校の一種かもしれません」と食い下がったら「頭の薬をもらって来い」と言われたのであった。
 一月ほどごねていると最終的には「勝手にせよ」とのお達しを賜ったので、私はお父様の言いつけを守り、汽車に乗ってはるばる大阪くんだりまで冒険に行った次第である。どんな薬か知らないが、頭の薬をもらえるのならば一石二鳥である。あの頃の私はなんと素直であったのだろう。
 今でも忘れない。兄が私のためにと国民学校に教職の口を見つけてきた時、「師範卒が大きい顔をしているから嫌」と断ると、兄は私の身を案じてではあるが珍しく怒り、「一生そうしていろ」と罵ってピシャリと襖を閉めた。いよいよ実家のあの天井の低い四畳半に幽閉されてしまうのではあるまいかと私は冷や汗をかいた。
 私は古来人一倍プライドが高く、色々と袋小路に嵌りやすい性分だったが、それは一村落の中での話であって、全国津々浦々を見渡してみれば、なにも私が特段というわけではないと思う。仕事の口があるとの噂を聞きつけて、そういうのが憂鬱な顔を下げて島根の灯台局にぞろぞろと集まってきていたのだから。
 我々ではなく占領軍が結局何を作りたかったのかと言えば、大凡のところ、来る共産勢力との戦いのために軍事研究機関の支部を日本に発足させたかったのである。灯台局以外にも、この手のアメリカの息のかかった研究施設は終戦後いくつも雨後の筍のように次々と発足したが、意外にも組織の中で一番最後まで残り、確固たる地位を築いたのは我らが灯台局であった。
 日本には、いわゆる機密都市は存在しなかったが、それでも、国家戦略のために集められた非公開の人員というものは国力相応に存在していた。
 後年、灯台局の薬臭さは薄まっていったが、それと入れ替わるようにして今度は火薬――きな臭い奴らが増えた。しまいには意味が転じて、灯台と言えば工作員の女全般を指すことさえあった。学生運動上がりで武闘派だったナカノセグループやイースター・エッグスが派手にやり過ぎたために勘違いされることが多いが、それでもその大半は工作員などではない。本分は地味な研究職の者がほとんどであった。






§  相貌失認

 戦後、出雲日御碕(いずもひのみさき)の灯台が米軍に接収された後、その退息所で灯台局は発足した。そして、その灯台局の局長の名もまたイズモヒノミサキと言う。しばしば実務内でも混同されて、施設や地名の方はイズモ‐1で呼ばれているという奇妙な状況である。我々は皆日本各地にある灯台の符牒で呼ばれており、もちろんそれは実際の名前ではなかった。本籍地もまた日本各地の灯台に割り当てられており、私の本籍地は長門国――山口は夢ヶ岬、角島灯台であった。角島ミサキ。それが私の新しい姓名であり、私の仲間たちもまた、ほとんどの場合、灯台の姓にミサキの名を持っていた。
 戦前から戦後にかけて、私は興味本位、幾つかの胡散臭い短波を兄と一緒に作ったへっぽこラジオで受信してノートにとっており、乱数放送や暗号めいたやり取りの解読において、当たらずと雖も遠からずのなかなか良い線を突いていた。ヒノミサキという人名とも地名ともつかぬ、判然としない存在を、終戦直後から何度か耳にすることになり、その時は何とも思ってはいなかったのだが、後に米軍が非公開で日本人科学者を集めているという噂を兄から聞きつけてピンと来た。何でも、島根で秘密研究所が出来たとの話。
 そうこうしているうちに、ある晩、ラジオで幾つかの問題が出題されて、解答を求むという。
 内容は確率漸化式の賽の目の問題や円運動とかのEOM。他にも理専の数学や理科の基礎を試すようなものが幾つか読み上げられた。問題自体は大して難しくはないが、英語を聞き取るのが辛い。最後になって突然声色が変り、ただのナゾナゾが始まる。
「MKNTGHKMTH NMSKAEFAKI FYGAOSOSIT NIKSOCSTFY KYNTW。必要な文字を足してね」
 幼い女の子みたいな声をしていた。
「このナゾ解けたら百円あげる」
 何やら忍び笑い。悔しい事に一番悩んだ。
 あとは提出場所を示唆すると思われる三角測量の問題が男の不躾な声で響き、それで放送は終わった。賞金はたったの百円。赤玉ワインが一杯飲めるのかしら? と思ったが、当時の相場など当てにならない。私の経済感覚は元から狂っていたし、市井の物価も滅茶苦茶だった。敗戦で国は財政破綻し、巷では専らインフレの嵐。新円切り替えが決定され、物価が毎月一割以上の速さで高騰している時代である。出題者が何を考えているかさえ知れなかった。もしもこんなものを解答しに行けば、モルモツトにされるだとか、米兵に拉致されて死ぬまで拷問を受けることになるだのと、兄は震撼していたが、私は興味を持った。まさか本当に解答を提出しに行くことになろうとは思わなかったが――。
 柿の木に藁葺き屋根という何の変哲もない田舎の旧家を覗き見ると、その場には到底似つかわしくない米軍のジープが一台止まっており私は確信した。少なくとも最後の測量問題は正解である。戸を潜るとそこには元特高と思しき、険しい目つきの男たちが詰めており、彼等の禍禍しさには閉口させられた。女中とその家の当主と思しき男性は完全に萎縮しており連中の下僕である。私は自分の解答を特高には手渡したくなかったので、家の主人に手渡すと、暫くして、ブラウン少佐と名乗るアメリカ人が沢庵漬けをパリパリと噛みながら出てきた。奴は日本語がペラペラで、その上態度は横柄で、常時ふんぞり返った姿勢をしていた。私が黙って睨み返していると「ああ、カネか」などと、下卑たことを呟いて、ズボンのポケットから、くちゃくちゃの湿ったお札を取り出して、私の目の前でヒラヒラとさせる。
 それを跳ね除け、私の実家は華族様であり、生活に困ってのこのこやって来たわけではないのだと言うと、ブラウン少佐は、嫌味な笑いをして、そしてすぐに笑うのをやめた。嘘笑い。次に、値踏みするような顔をして「英語は喋れるか?」と問う。
「あいきゃんすぴーくいんぐりっしゅ。くわいとふりゅーえんとりー。きゃんとゆーすぴーくいんぐりっしゅ?」
 私が咄嗟にそれらしく言うと、彼は鼻をふんと鳴らして「合格にしてやる」と言った。私の英語力は米国の対日国営放送である「アメリカの声」が何とか聞き取れるぐらいでしかなかったのだが。
 ジープに乗って向かう先には日本一と目される巨大な灯台が見えた。

「あれが、イズモヒノミサキなの?」
「でなきゃ、なんだ? でっかい逸物が無意味に聳え立っているように見えるのか?」
 ブラウン三等兵の口をついて出る言葉は一々無意味に下卑ており、出会ってしまったことを後悔した。風貌は完全にガイジンなのに、どういうわけか、あの男は時に場末の居酒屋並の日本語を使った。彫は深く、瞳は薄く灰色がかっており青い。ともすれば猛禽類を思わせる光を放っている。巷に分け入ってスパイ的に情報を漁るにせよ、日本政府の高官と交渉するにせよ、そんなチグハグな逸材をどう使うのか疑問だった。次に出会うことになる人が出雲先生でなければ、私はいずれかの時点で、あの男に平手打ちを見舞って立ち去っていたと思う。
 灯台を見ながら私は漠と思ったものである。まずもって、何故、彼女、あるいはその研究施設が灯台だったのか。占領政策上の理由はさておき、灯台局というものが、何を意味していたかと言えば、それは無意識の裏に名誉白人を意味していた。灯台は必ずしも白い訳ではないが、象徴的には白い塔である。なるほど、当時の灯台はオフリミット(日本人立ち入り禁止)にされた白い塔と言えた。
 しかし、誰も問題にしなかった。気味の悪いことに、私を除けば、灯台局の女達は皆承知していたようなのである。ファロスとファルスが同語源であり、男性原理を志向しているのではないかという、深刻な指摘に到っても、ある者などは「おちんちんなのぉ」と驚いたふりをしたきり、黙笑するという可愛げのなさであった。
 私は、泥に塗れたジープから飛び降りて、灯台の領内に降り立つ。
 場違いに巨大な塔を擁する緑に埋もれた小さな村を振り返り、世界を見たような、素晴らしい人生を大団円で終えたような、清清しい気分になった。その直観は嘘ではない。私は、それより先の人生を出雲日御碕という、この世の者とは思えぬ存在を追うことに費やすことになる。

 出雲先生は人と話をしている時、時折不思議な態度を見せる人で、ちょっと気にしはじめると、懸命に人の顔を正面からとらえようとした。まだ私が灯台局に来て日の浅い頃にはそれが一体何のためなのかわからなかったのだが、何日かすると、その理由が解った。
 彼女は、同僚であった経ヶと室戸を一瞬の間とはいえ、本気で見間違えたのである。

 私より先に灯台局にありながら、一際子供っぽかった経ヶ岬が、執拗に目頭を揉んで、肩を叩くという一連の休憩動作を「ムロちゃんの真似ぇ~」などと称して茶化して遊んでいる所を見かけた出雲先生は、そこにいるのを本当に室戸であると勘違いしたのである。
 経ヶの児戯にしてやられた出雲先生はまるで騙し絵に酔ったかのようにして、目を白黒させていた。まあ、経ヶ岬は物真似の名手ではあったが、本気で見間違えるなどということは普通ならば、考えられないことである。私より先に灯台局に入っていた経ヶ岬と室戸岬は背格好こそ似て、いつまでも童女じみていたが、区別がつかないというようなものではない。経ヶと室戸は一瞥して別人と気付くぐらいには似ていなかった。
 経ヶは仕事はとにかく速いのだが、長時間机に向かっていることの出来ない奴で、何かと理由を作っては席を立ってウロチョロし、人の仕事を邪魔しにくる。いい加減に叱咤してやれば、しゅんとして机に戻るが、その目は相変わらず暇つぶしを探して動き回っており落ち着きがない。「仕事中ハ私語厳禁」とか言って自戒し、口元を真面目ぶってきつく一文字に結んだりもしたが、いざ休み時間がやってくれば、いの一番、全身全霊の勝ち鬨を上げた。こんな性格であるからブラウン少佐からは、しばしば「HDC」(多動性障害児)と罵られていた。
 一方で室戸は、まるでお公家様のような子である。特段お嬢様育ちというわけではないのだが、自然とお嬢様に育ったくちで、私などよりはよほど柔和。川原で洗われた石のように、よく角が取れていた。額が広くつるんとしており、アザラシじみた眼差しは黙考するたびにゆっくりと瞑る。おちょぼ口からついて出る言葉は軽快で至極平凡のことばかり言うような態度だが、よく聞いていると、しばしば見かけに似合わないファッショな意見を口にした。このためブラウン少佐のお気に入りでもあった。何せ日本の全てを蔑むために派遣されたようであったあの男から「テレーズ・デ・リジュ」とかいう聖女の称号を貰っていたほどである。
 出雲先生には若干の相貌失認があったのである。相貌失認――つまり、人の顔をはっきりと区別することが出来ないのである。視力が悪いのではない。私たちが無数のヒマワリの花を一つずつ識別するのが難しいように、無数の人の顔を識別するのが出雲先生は苦手であった。出雲先生が人の相貌を見てから話し出すまでに幾らか不自然に差し向かいとなるのはそのためである。出雲先生は初対面だったり、まだ会って日が浅かったりすると、相手の顔を正面から捉えてよく確かめようとするので、自分のことを見つめていると勘違いする男の多いことと言ったらなかった。奴らときたら出雲先生に見つめられると恥ずかしそうに尻込みしつつも、そのうちには嬉しそうに照れ笑いなどするのである。見つめられているのは事実なのだが、意味が違う。そこのところを連中はまるで解っていない。連中の思い込みときたら本当に呆れてしまうほどだった。出雲先生に脈ありと勘違いしたり、自分が出雲先生に見合う男かどうかと思い詰めたりして、恋に病むのは滑稽千番であった。「壁にタマゴを投げつけるようなものだからおよし!」と親切にも忠告してやっているというのに、タマゴたちは、この私をお節介な尼か何かのような目で見て一蹴するのである。玉砕覚悟と称して、何人玉砕したことか。時は既に戦後、誰も玉砕など命じていないというのに――。
 自分で言うのもなんではあるが、私は地元では知らぬ者のいない美人で通っていた。不思議なもので、美人というのは一つの空間に一人しか存在しえないらしい。出雲先生が一とう美人であるということになれば、灯台局は作為と疑われるほど稀にみる美人揃いの部署であったというのに、そこにいる限り、残りは全て埴輪か円空仏のような扱いを受けた。通常ならばあんな屈辱的な状況にあの私が耐えられようはずもなかった。しかしながら出雲先生が、これがまた男が不憫にも思われるほどに、色恋沙汰に無関心であったので、奇妙な均衡に納まってしまい、灯台局の他の者たちも何故か落ち着いてしまったのである。出雲先生が行く手数多にもかかわらず嫁に行かないのだから、嫁っていうのは、端から目指すべきものではないのだろうと皆思っているのだった。
 出雲先生はまあ、そのぐらい人の目を引いた。だがしかし――。そう、まず、その話をしなければならないのだ。まず出雲先生を振ったとかいう言語道断な男が存在したことについての話を。
 出雲先生が一世一代で人を好きになったというのに、上手くいかなかったというのは残念である。しかし、それは出雲先生が好きになるほどの存在であった以上は必然の成り行きであったとも言えた。出雲先生に惚れている男の人は幾らでもいたが、出雲先生が真に好いていた人というのは恐らくは、その人物だけであり、私が灯台局に入った時にはすでに語り草となっていた。その後その人はアメリカで宇宙飛行士となり、名目上の殉職を遂げ、カリスマという符牒を持つこととなった。「私はカモメ」の類である。
 私は出雲先生を尊敬している。その上で言わせて貰えば、あのような落飾様のカリカチュアみたいな出雲先生が出来上がるまでに、極々短い間だったとはいえ、普通の乙女のように初々しい時代があったとは驚嘆を禁じえない。あの頃世界は完膚なきまでに荒廃していた一方、終戦後の虚無のために牧歌的なところもまたあった。カリスマがどんな男性だったのかを巡って私は空想し、勝手に憧れを抱いたり、嫌悪を感じたりして、その議題をお茶菓子代わりに、当時の同僚たちとよくお喋りをした。私はカリスマと呼ばれたその人のことを漠然と、ニミッツ元帥のような人だったのかしら? などと思っていた。当時、灯台局ではガキ大将じみたマ元帥よりも紳士然としたニミッツの方が人気があった。しかし、ひょんなところで見ることとなった彼の写真はカリスマの名には似つかわしくないほど若輩で、頼りなさげな表情を浮かべているばかりだった。その姿はマッカーサーでもなければニミッツでもない。まだまだ生硬な印象を受ける。大人はおろか、青年とも呼べまい。あれは少年であっただろう。哀れにも、そういう年齢だった。よく見ると、彼の額から右頬にかけては大きな青い痣があった。それを写真に写すまいとしてか、顔は若干斜めを向いており、その様子は遠くを寂しそうに眺めているようにも見えた。彼はあまりにも若く、また孤独であった。当然、出雲先生よりも年下であった。
 写真を翳した蝋燭一本の薄暗い地下壕の中でジョージ・ブラウンは言った。
「このうらなり瓢箪ったら――顔の痣のことを言うと殴りかかってきやがった」
 そりゃあ、誰もジョージ・ブラウンなんかにからかわれる筋合いはない。だが、私はその話を聞いて気が休まった。
 我々とてまだまだ若く、時世もあり、孤独な境遇を抱えている者も少なくはなかった。灯台という無機質な名のせいか、中性的な独特の性格を持った者が多かったが、一時期言われたれたように、機械の類ではないし、新しい種類の生き物でもなかった。カリスマもまた、その意味では普通の人間であった。
 先生とカリスマが生身の人間の姿で一緒にいた時間は非常に短い。戦直後の一年足らずである。私とそれ以後の者たちに到ってはカリスマとは直接会ったことすらなかった。







§  ナカノセ


 二千年頃 横浜。

 古いフイルムがある。新人の研修用に作られたもので、それはC‐system outlineと書かれたクリーム色のテープコンテナの中から発掘された。最初に見たとき、コンテナの形から古漬けが出てきたのかと思った。フイルムは弾力を失って、指で触るだけで、パラパラと崩れ落ちてしまう。あれこれ試行錯誤して複写を取り、骨董品の映写機にかけるとTCR(タイムコードリーダー)と表示され直後にストロボマークやクラシックなノイズを掻き分け、往年のニュース映画特有のしゃっちょこばったカイゼル髭のような墨字のタイトルが競り上がってくる。

Charisma System‐the Bringer of Peace.
かりすま しすてむ ざ ぶりんがー おぶ ぴーす。


 まるで砂漠から出土した遺物である。五十年が経とうとしている。
 当時まだ灯台は少数しか集まっておらず、出雲先生、前局長の沖ノ島、テレーズこと室戸岬、お子ちゃまの経ヶ岬、そして高飛車だった私――角島のたった五人であった。灯台局きっての天才であった犬吠埼もまだ揃ってはおらず、灯台として登録された者の中では私が一番新米であった。

 カリスマシステム――平和をもたらす者。視聴覚室のスクリーンに映し出された題字はそう読めた。平和をもたらす者とはホルストの組曲「惑星」から。「金星」の副題だ。何でそんな拝借をしたのか知らないが、カリスマの行く末を考えれば皮肉もいいとこである。日本においては、カリスマをはじめとして、その種の人工衛星を安保衛星と呼んでいたが、その実体は軍事衛星に他ならない。そしてカリスマは開発当初から世界最強の戦闘衛星を目指していた。昔の戦力指標でたとえるならば間違いなく七大戦艦の一隻であり、衛星カリスマは、ビッグセブンだとか、ビッグトゥェルブなどと数えられる巨大衛星の一角を常に埋めていたのである。
 七大戦艦は一九二二年当時、それだけで世界の海を分割してしまうほどの影響力を持ち、その扱いは同条約の主たる議題だったが、一九四八年当時のカリスマプロジェクトは僅か三つの人工衛星で地球を軍事的に掌握してしまう計画であった。
  今、横浜は更地である。綺麗な臨海高層ビル群は容赦なく叩き潰され、波止場には弾道弾の殻が浮かび、錆付いた原潜が無言で揺れている。かつては青々としていた森林や公園は乾いた土を剥き出しにし、人口は文明開化前の横浜村以下の規模にまで収縮している。
 そんな馬鹿なことがあろうか――。そう思って、驚いて窓の外を確かめてみるも、そこは無残にも廃墟。犬吠埼とナカノセが漂流物を探して、弓を描く海岸線に沿って歩いてゆくのが見える他は、人影は見えない。
 その海岸線をずっと行った断崖の突先には花崗岩で出来た何やらヒラメらしき生き物が波打つ姿をした奇妙な石碑が存在している。
 その碑文にはこうある。
「われわれは永久に 平ぐことを ここにちかう」
 これは犬吠埼が提案した一文である。何だか舌足らずなものだが、一応これでも議論の末に決まったのである。これだけを見ても、何のことだかさっぱり意味がわからないのは困ったものだが、私たちの他にあの碑文を読む者が今後存在するかどうかの方が危ぶまれていた。

 戦争することは出来ても、平和するというのは、まずもって言葉がおかしいのであるが、何故平和するという言葉がおかしいのかといえば、まともに平和をしたことがないからである。文化的に蓄積されたものであれば、直接の動作性を持った言葉として存在していたであろうが、平和という言葉が喉につかえてしまったように、いつまでも動作性を持てなかったというのは、それだけ実践、運用された形跡がないことの証となる。
 戦争状態にないというのは、戦争の空白であって、平和をしているという意味ではないし、戦争の終結による平和の碑は無数にあっても、平和の達成による平和の碑はついぞ見たことがないのである。それは、横浜に立つ最後の平和記念碑であろうとも例外ではなかった。

 横浜中華街の脇に港未来地区などが出来てきた頃には、この戦争が終ったら、溜め込んだ給与と恩給を当てにそこで暮らそうなどとも思った。
 何故こうなった? フイルムは膨大な数が残されているし、映写機は映る。しかしそれらを何度見返し歴史を紐解いても「何故?」という私の内なる問いかけは消えそうにもない。
 画面の中の衛星カリスマは、遥か未来から見ている私に気付くべくもなく、宇宙空間で太陽光線を全身に浴びながら、六枚の太陽電池パドル翼を広げ風車のように回転している。縦長の瞳が素早く瞬きし我に帰ったような表情をすると、背後で流れる「星条旗よ永遠なれ」に聴き入っているかのように目を細める。
 カリスマには、専用のカリカチュアが存在していた。映像の中で飛び回ってみせるのは、多くの場合、実物ではなくそのカリカチュアの方で、奇妙なことに、その存在感は実物を上回っていた。灯台の一人であったアメデが描いたのが最初で、その図案は作戦図やプロパガンダに組み込まれ、NATO軍全体で採用されていた。自衛隊の衛星はもとより、船や車、実験用ハムスタアの果てまでその種のアイコンは作られた。興味深いのは、それらが東側勢力でも使われたことである。敵であるソ連軍の衛星は通常のプロパガンダならば悪役としての図柄を要求されるとこだが、アメデはそういう描き方をしなかったためだと言われる。

 アメデはあの戦争に随分と関ったくせにしがないお絵かきを本分とする人間で、森羅万象を全く同様に単純化し、政府の要望にはほとんど応じようとはしなかった。アメデのソ連亡命、あるいは拉致を機にそれらのアイソタイプは一時採用を取り消しにされたものの、結局のところ前線では描かれ続けた。そして、その絵は戦時下の常で虚偽報道を行なわねばならぬ時などに、市民を騙すのに成果を上げた。嘘だと解っていても記憶は肯定されるのである。漫画が嘘を担い、報道映像が真実を担うとして議論を定型化すれば、情報操作はより巧妙な形となって、情報発信側の内部にまで浸透し、常識的な観念となってゆく。
 望遠鏡で人工衛星を観察することは禁止されていたが、当時は天文ブーム真っ盛りであり、皆その本当の姿を捉えようとしていた。もっとも、戦争が激化するにつれ曇りの日が増えていったし、仮に空が晴れ渡っていたとしても民間の望遠鏡の倍率やフィルタには厳しい規制があったので、ほとんどの場合、望遠鏡で空を仰いでみても六枚の翼を持った星の標識と目が合うだけであった。
 戦況が激化すればするほどその活躍の場は増え、衛星カリスマの本当の姿はアイソタイプによるソフトキル(電子的欺瞞装置)で肉眼ですら捉えることが出来なくなっていったのである。

 まだ人工物のほとんどないまっ白な宇宙でマーチがフェードアウトし流れ終わると、太陽が地球の影に入り周囲は闇黒に包まれる。大きなホールで鉄を轢き切るかのような不協和音が響き、衛星カリスマの背後で何かが光る。その正体はグレープ軍の軍事衛星スプト。スプトから放たれる一条の赤い光は指向性エネルギー兵器・レーザービームである。奴らはカリスマを捉えて、徐徐に出力を上げてくる。レーザービームは太陽光発電で補充出来る新鋭の秘密兵器であり、初期のものは敵機をジワジワと焼き殺すものであった。カリスマは自分の羽根が焦げ出して、ようやく攻撃されていることに気付く。物語の始まりはそんな調子である。時代が時代なので、野暮ったさは否めない。ここらへんで、ゴジラだとか地球最后の日のような派手なSFを見慣れた戦後生まれの者からは「古くさい」とか「へたくそ」だとか野次が飛ぶのが常であった。
 我々の仮想敵は当初、グレープと呼ばれていた。米軍の対ソ、中央アジア戦争シミュレーションのパープルプランに由来する名であり、紫からの連想でグレープである。グレーププランはその宇宙版として研究されていた。仮想敵をシミュレーションする上で、実際の国名を使っていることを公の場でうっかり口を滑らせると一触即発の事態に発展しかねない。言い訳程度の処置であった。
 WWⅡ後、枢軸先進国が科学技術で影を顰め、真っ先に宇宙に戦力を浮上させることが出来る国は、ソ連、次いでアメリカであり、両者はWWⅡの最中から軍事的な対立を予見していた。ソ連が宇宙の開発競争で先手を打ったのは、地上支配に一歩遅れたからでもある。それは米国の主催するNATOとソ連が主催するWTOの加盟国の数を見比べれば一目瞭然だろう。冷戦初期においてNATO加盟国数は二十。WTO加盟国数は九つである。海外拠点の乏しいソ連は、対蹠の敵地を地球の裏側から爆撃出来る長距離弾道ミサイル――ICBMの研究に熱心だった。制空権の更に上層に存在する宇宙空間で覇権を握る事が重要視されてゆくのは時代の流れだったのである。

 グレープ軍のスプトが群れをなし衛星カリスマに襲い掛かる。敵機スプトは球体に四本のレーザー発振装置のついた姿で描かれ、アイソタイプ的には初登場時から三機あった。  スプトは世界最初の人工衛星スプトニクのことであり、ソ連が研究を進めていた。スプトニクという単語はロシア語の「従者」が転じて「衛星」を意味する。つまり、衛星スプトニクは、言うなれば自動車カーのような命名であり、一種の重言であった。このような、カテゴリーそのものと重複する命名が出来るのは何においても一番乗りの特権である。スプトニクは、正真正銘の人工衛星第一号であった。
 しかるに衛星カリスマが、宇宙の先住者であるかのような演出で始まる映像はその名前からして欺瞞が露呈していた。実際に起きていたことはスプトニクに先を越されたことに焦ったアメリカ軍が衛星を武装して浮上させたのである。あえて衛星カリスマに金字塔のお題目をつけるのならば、それは「世界で最初の戦闘衛星」である。誰が攻撃してきたかの考察はあっても、何故攻撃してくるのかの考察はない。初期のハリウッド製の西部劇でカウボーイが何の疑いもなくインディアンを撃ち殺すことに血道を上げていたのと全く同じ構図なのは皮肉である。
 ナカノセが犬吠埼を手伝うために研修に来た時にもこの映画を見せられていたが、彼女はポップコーンを頬張りながら、衛星カリスマのことを「ひがいもうそう野郎」と罵る。「こんな奴と仲間で戦うの?」とも嘆いた。それに対し出雲先生は「嫌なら辞退してくれも構わない」と返す。ナカノセは学生公務員の給与と学費免除を当てにしており、背に腹はかえられないようで、出雲先生に対し反抗的な表情で睨む以上のことは出来ない。ナカノセは、戦前の大学や専門学校の出身者が大半を占める灯台局の中では少数派。新生の海上保安学校の生徒で、必然、他の灯台たちと毛色が違った。激情家である。気性がとにかく激しい。酒が入ると場を弁えずに大はしゃぎし、安保の話題になると簡単に拳が飛び出す。ブラウン大佐からは「がさつな娘」と目されていた。

 実際本当に粗野で困った奴ではあったが、それでも私が嗜めるのは筋違いやもしれない。彼女は、出雲先生の境遇に張り合うようにして、エリザベス・サンダースホームの出であることを誇らしげに語った。サンダースは神奈川県にかつてあった有名な児童養護施設である。ナカノセは何もないところから相当の野心を持って成り上がってきた人間であり、苦労も多かったのだろう。梶原一騎が一世を風靡するようになると、年甲斐もなく、あしたのジョーやタイガーマスクを読み耽り、涙と鼻水で漫画と己の顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽するのだった。





§  メザシの掟

 ――少し、戦後日本の置かれた状況について説明しておく。
 当時の日本は北海道をソ連、沖縄県を米国に分割されており、ちょうど、オカシラとシッポを毟ったメザシのような形になっていた。

 私は出雲先生やナカノセとは違って、齢六つ以後はあらゆる贅沢を許されて育ってきたのだが、敗戦後一つだけやってはならない贅沢が出来た。お父様が唐突に質素倹約令を発布し、角島家では魚の頭と尾びれを残してはならないという鉄の掟が出来たのである。小骨や臓物が散ばって皿が汚れるので、私は小魚がそもそも好きではない。戦後角島の家では、朝食にはメザシが頻出するようになり大変な思いをした。子弟に毎月お札で小遣いをやるだけの余裕がありながら、何故メザシを食べさせるのかと言うと、それは敗戦のため家計が圧迫されてきたからではない。世間に対する単なる言い訳である。毎晩吟醸を呷ってフグ刺しを食べているのが外に洩れると流石にまずいので、世間の常識を一応は知っておくために皆で嫌々メザシを食べるのである。もちろんWWⅡ直後のメザシといえば庶民にとっては闇市でようやく手に入れられる貴重な蛋白である。
 かくして敗戦後、私がいつものように魚のオカシラとシッポをコダマ(私の飼っていた猫)にやっていると、それに気付いたお父様はカンカンにお怒りになった。

 私は、お父様が何を怒っているのかは解ったものの、納得は出来ず、ムスっとして黙る。世間体を気にした所で私は魚の頭と尾びれを猫にやっても即座困窮するような生活をおくってはいない。だったら魚の頭と尾びれは猫にでもやるのが良いではないか。北海道と沖縄県を失ったのは、断じて私が魚のオカシラとシッポをコダマにやっていたからではない。そのようなものは理屈が通らぬ。お父様は躾と称して無益な苦痛を強いる偉い人の悪しき性根が全く治っていなかったのである。こういう改悪で一番損をするのは何時だって下層民である。我が家で言うならばそれはコダマであった。何故敗戦のツケをコダマが払わねばならないのか。猫からなけなしのメザシの頭と尾びれを取り上げて不当に懲らしめ、お父様が貧乏ごっこをする必用が一体どこにあるというのか。
 私はいつ頃から始めたのか模糊として覚えていないが、「足らぬ足らぬはクフーが足らぬ!」とか言って、愛国婦人会と金切り声を合わせながらも、紙を石に変えるのを週一の課題としていた。それを学問と同等に考えている節があり、特段の気負いも、後ろめたさもなしに淡々とやっていた。お蔭さまで敗戦時には自分の財産は全部金無垢とダイヤモンドになっており、価格は空まで跳ね上がった。大した戦争成金である。
 ああでもない、こうでもないと、商工会議所で無数のしがらみを元に細かな分析をしていた父たちよりも、四畳半でコダマの機嫌を元に閃く、私のちゃんちゃら経済学の方が先進的だったのである。そうとでもするほかない。
 日本政府自体が、一年三六五日の道理を無視して、好きな日数で決済するようなマギッシャな会計を明治時代からずっとやってきたつけであった。
 誤解なきよう言っておくが、私が日本の勝利を信じていたのは嘘ではない。少なくとも私は日本の勝利を望んでいた。私が奇妙に「非国民的」な行動をとっていた理屈というのは、こうである。
「日本は勝ちますが、恐慌は避けられません」

 私の兄とその学友たちもまた、「シンクタンク」とやらを形成しており、日本の行く末をよく論じていたが、お茶汲みに参上した私が不意に口にしたこの一言が気に入ったようで、「女にしてはよく考えている」「一理ある」などと褒めた。勝っても、恐慌は避けられないというのは、節約の苦手なボンボンたちにとっては詭弁として都合がいい。このご時世に金払いが良すぎるのは、日本経済を憂いてのことであるのだ。我々は阿呆なのではなく、皆より一歩思慮が深いのであるとか云々。「戦争の勝利は国益を保証するとは限らない!」という論旨を官憲の逆鱗に触れぬよう上手にオブラートに包めば、最高学府の卒論でも通用した。通用してしまったと言うべきか。
 我が兄は私のこの一言を本当に二百枚に膨らまして卒論に仕上げたのである。兄は小説家希望であった。幾分情緒的過ぎる、大和心に訴えかけるような論文が出来上がった。
「だけどお兄様、論文は短い方がよいと思うわ」
 私がそう言うと兄は、「教授連中はそれでは単位をくれぬのだよ!」と嘆いて、眉をハの字にして困ってみせる。
 文武両道何につけても私の方が出来たが、兄はそれを僻むようなところはなかった。
「オマエは女ゆえ博士にはなれん。タイピストか教師にでもなれ」などと諭す。紳士道を弁えた好人物で、私とは対照的に人には好かれた。
 私と兄の合作論文は、成績では優をとったものの、知っての通り、歴史結果としては不正解に終わる。
 日本が劣勢にもかかわらず戦争に勝ってしまうというのは、過去の歴史が悉く証明しており、論より証拠である。当時の日本は困ったことに神国だったのである。教育の成果もあり、当時の段階で、日本勝利の前提に疑いの余地などなかった。日本の敗北は考えてはならないことだったのである。
 そして、たとえば、最初の大戦や日露戦争後の日本は戦勝国とは思えぬ荒廃ぶりであり、戦争に勝ったからといって、国民生活が楽になるとは限らないということは、時代を目に焼き付けてきた年寄りや、懐疑を信条とする学問の徒であれば、勘付いていた。
 しかし、そこまでが当時の限界である。
 その後、日本が第二次世界大戦で大敗を喫しながらも、驚異の経済成長を遂げるなどという、意味不明な展開を誰が予想したことであろう。
 こんな出鱈目は日本人の努力の賜物でも、進駐軍の慈悲の賜物でもない。
 ただそうなった。
 万感込めてただ単に、結果は結果だったのである。どれだけ真剣に論じ、祈り、願おうとも、結果は結果であっただけである。生き残った全てのものは結果に切り捨てられて次へ行った。

 敗北に打ちひしがれた町を抜けて、屋敷に戻る。私を捕縛せんとする女中を撒いて、薄暗い自分の部屋に飛び込むと、そこには心外甚だしい地金の山が出来ており、その頂点には、降りれなくなって困り果てているコダマがいるのだった。

 たぶん、これは予想はしていた。しかし、やはり心外だった。
 私はたぶん、戦中から蓄えていたお小遣いを元手に戦後の上京計画を練っていたのであり、いかに算盤が得意でも、使い道についての考えなどその程度のものだった。浮世離れしたお嬢様は、空襲で爆弾が落ちてくるようになっても、気持ちは疎開とは別の方を向いて都会を夢見ていたのである。
「将来のために積み立てておきなさい」と言われ毎月貰っていたお小遣いが桁違いの複利を生み出した後に、没収になったのはいい。どうせ最初からそうなると見込んでいたのだから。そういうものであると、薄々解っていたことだろう。都会でちょっくら気取った生活が出来るのならば、これしきの金などは些細な問題でもあった。
 しかし――お父様がコダマを殺したのは予想外だった。あの男はコダマを殺したのである。曰く、「児玉は許さん」である。児玉とは児玉誉士夫のことである。WWⅡでは上海において日本軍の汚れ仕事を請け負い、戦後はヤクザでCIA対日工作員。WWⅢでは日本政府と中国政府との間で暗躍した人物である。当然敵も多く、お父様は児玉の生き様そのものを心底毛嫌いし、目の仇にしていた。
 私の愛猫は小玉であって、児玉ではないというのに、あの子はただ猫の道をわきまえて質素に生きていただけなのに、何故、天誅を受けねばならなかったのか――。

 お父様は、地域随一の名士である。私は色々不満に思うところがあろうにも、その肩書きを信じてはいた。拾ってくれた恩もあった。しかしそれはきっと私が少々賢かったから拾っただけのことなのだろう。私が少し足りんということであったならば、お父様は通りすがりにステッキで私の脳天を叩きつけていたに違いない。彼はそういうところがあった。当時の「分別ある大人」というのは、修身と教養を高らかに謳う一方で、どっかこっかそういうイヤらしい部分を持っていたと思う。
 そういえば、彼は私が差し出した財をハシタガネとも言った。確かに、彼の築き上げた財閥を救うにはハシタガネである。しかし、私の気持ちはどうなる? カネなんてどうでもいい。よくもコダマを――。恩はあったが、あの一連の醜態と悪辣な仕打ちは興醒めを超えた。全部帳消しである。その後父上は「オレが失敗したら、あいつらは感謝の一つもなしに逃げて行きやがった」と周囲に宣伝して回ったようである。
 私はもう嫌になって、コダマを供養したその足で餞別もせずに出奔した。最低でも京阪。出来る事ならば東京へ向かう予定であったが、世間を知らずに、一握りの金銭を気前よく放出して、旅費は島根で途絶えてしまった。

 メザシ、もとい日本の話に戻る。戦直後、北海道ではソ連軍が占領しており、マッカーサーが主導するGHQとは別の占領政策が敷かれていた。日本政府の頭越しに米ソ間で幾たびもの交渉がなされ、ソ連側の主張としてはアメリカの沖縄返還を北海道返還の条件としていた。逆もまたしかりの状況ではあったが、互いに腹の探り合いで話は進展しなかった。ソ連は反共パルチザンと化した道民の激しい抵抗のために、これ以上北海道を統治し続けることは困難。本音の所は早期撤退を望んでいたものの、アメリカとしてみれば、未だ戦火の沈静化するところを見せぬ中国に加え、朝鮮半島が暴発せんとする極東情勢の中で、ソ連軍に便宜して沖縄からの撤退に応じるなどということはありえない話だった。
 一九五〇年の夏、朝鮮半島で戦争が勃発すると、北海道の主要都市でも抵抗運動は一層過激になり、米軍の支援を受けて、道南義勇軍が札幌を奪還する。ソ連軍は、退路にある拠点都市に放射性物質を散布しながら撤退し、これ以上道南義勇軍が進撃を続けて、停戦に応じない場合は、札幌以北を核で焦土と化すと警告した。ソ連軍劣勢から出たデマであったが、道南義勇軍は道央の滝川で放射能汚染を確認し大いに震撼する。奪還すべき郷土が広島や長崎の二の舞いになるのではないかと恐れをなしたのである。検知された放射性量は毎時〇・二マイクログレイ以下の少量(あるいは自然放射線の検出)だったが、米軍の指示もあって道南義勇軍は進軍を停止。マッカーサーは朝鮮半島での放射性物質の散布を画策していたので、しめたとでも思ったのだろう。ソ連軍が放射性物質を北海道戦線で使用したことを事実として扱い、報復という名目で北韓の補給ルートとなる満州方面での放射性物質の散布を行なった。アメリカ本国の意向は停戦交渉であった上、マッカーサーは元よりトルーマン大統領との確執もあったためこれにて失脚。本国へ送還されることとなる。
 軍隊が毒を外国にぶちまける戦法はその後のベトナム戦争でも活かされ、深刻な催奇毒性を持った枯葉剤を蒔いた。







§  広島の風鈴

 私が灯台局に来た時はカリスマは既に日本を去った後である。彼は開頭後、アメリカのケープ・カナベラル‐3という研究所に連れてゆかれた。その間のカリスマに関する情報というのはなきに等しい。カリスマは一応生きてはいるらしかったが、意識は依然戻らない状態であり、皆、内心、カリスマが今後意識を取り戻すことはないと思っていたと思う。 ただし、出雲先生だけはカリスマが目を覚ますことをずっと信じていた。そう言うと、何かとても前向きな希望に満ち溢れた談のように聞こえてしまうが、もう少し正確に言えば、先生はカリスマが出征する日のことを思って、不安に思っていた。
 死んでしまえば、それ以上苦しむことはないが、もしも生きていたとなれば、カリスマは死ぬまで苦しんで戦わねばならないことになる。そういう、進むも地獄退くも地獄というような運命に決着をつけねばならない。

 先生は、出征出来なかった父上の苦い最期をカリスマに重ね見ていた。先生は心が座りきっているので、くよくよしたり、うろたえるようなことはなかったが、きっと、あの五年間というのは手術室に入った家族を無期限で何日も待つ心境であっただろうと思う。生死が定まらぬカリスマが眠り続けている間、世界はまた硝煙に曇り始めており、己が戦争に巻き込まれる可能性というのを誰しも薄々感じているのだった。
 この時期北海道では内戦が激化。警察予備隊が道南義勇軍の軍事顧問として北海道に派遣されていた。中国でも毛沢東率いる共産勢力が蒋介石率いる親米政権を大陸から追い出し、それを受けて、政府非公認の旧日本軍将校団である白団が、台湾まで派遣されていた。朝鮮半島でも同様の事態で、非軍事組織であると公言したはずの海上保安隊が米軍の露払いとして出向き、北朝鮮の機雷を掃海して回っていたのである。
 私たちは、雑然とした全貌の見えない研究を回されていたが、そういうきな臭い情勢に巻き込まれる形で、徐々に軍事的な関連を推測し得る研究を割り振られるようになってきていた。
 ブラウン少佐は、任務を告げずにコザ(後に沖縄県那覇市)‐4へ長期の出張。その間の代理でBCOF(イギリス連邦占領軍)のキットマン大尉という、いつ見てもシャツをきっちりしまい損ねているような、軍人らしからぬ青年が灯台局に来る。

 室戸岬も海上保安庁の嘱託扱いで朝鮮は景武台への長期の出張。これまた任務の詳細は明かされない。

 私は米国の医師団に伴い、経ヶと組になって、広島市内の被爆者や、放射能汚染の実態調査に外回りをすることになった。
 実際にやらされた仕事は通訳と資料の複写作業である。灯台局はG2麾下の秘密研究機関という性質上、外部の通訳を雇えないためであったが、慣れない仕事を任された私は、だったら元から通訳要員の灯台を徴集すればよかったのにと、己の不要を自ら告げるような愚痴を零した。
 当時私は広島の放射能汚染をかなり警戒しており、七〇年間は不毛の地であるという説を信じており、出奔の際には広島経由を避けたほどだった。私が何かにつけて文句を言うものだから、ブラウン少佐が懲罰人事を行なったのだと思っていたが、「チキン」と侮られるのに我慢ならずに広島へゆく腹を決めた。
 経ヶは私とは逆であり、「被災地には率先して出向きたい」と搾り出すような声で、自ら志願した。
 経ヶの認識でも広島は危険であると考えていたに違いない。経ヶが志願しなければ当時の私は広島には絶対に出向かなかったことだろう。何せ第一報は「特殊爆弾で広島市が全滅」であった。……広島市が全滅? そんな変なことが物理的にあり得るのかしら。後遺症を残すピカの噂とともにじわじわと現実のものとして伝播されるにつれ、それは恐怖へと変っていったのである。当時、広島や長崎の出身であることはそれだけで避けられる理由となっていた。正確な情報がなかったのである。

 広島の市街はまだ生々しい傷跡が残っており、色気のない剥き出しの大地には塗炭と廃材で辛うじて箱にしたような粗末なバラックが立ち並んでいた。傷痍者や浮浪児も多く、奇異の目で見る私たちを、彼らもまた不信の目で見返していた。終始専属のSP(海軍憲兵)で運転手のアーサーがついていたので心配はなかったが、まあ穏健な世界ではなかった。放射能汚染よりも治安の方が遥かに問題であった。北海道では日本人同士が殺しあっている。広島は今はまだ、そのような状況にはなっていないが、いつそのような状況になるとも知れなかった。
 私たちはABCC(原爆傷害調査委員会)に連れてゆかれ、資料を複写するのに、携帯式のタイプライターを渡され、全てを任される事になる。私はタイプを三日間打鍵し続けた。コピー機とかそういう便利なものはまだなく、タイプがあるだけでもまだマシであった。タイプライターは二挺あったものの、経ヶ岬はタイプライターの実物を見るのも初めてである。それじゃとても仕事にならないので、彼女には専ら英文を読ませて私が打鍵することにした。いざ私がタイプを打ち始めると、経ヶ岬は、私の打ち込みの速さに驚愕して、「信じられない」とか「凄いね」と何度も言うので、間違えてSの字を幾つも打つ羽目になった。
 私は手を止めてほくそえむ。「こんなの三日で出来るようになるわ」と。
「三日で!」
 経ヶは素直に驚いているようでもあるが、一寸、私をよいしょしている。自分に出来ないことがあるなどと経ヶが本気で思っているかどうかは怪しいものの、彼女はひとまず感動に対してはケチらない主義であった。
「私は特別なのかもしれないけれど……どんなに鈍くさい子も一月叩き続ければ、使い物になるんじゃなくて?」
 私がそんな調子で答えれば、経ヶ岬は調子に乗って私のことを天才だの、感性が違うだのと、えらく誉めちぎるので、私もますます調子付き、すまし顔でタイプの極意らしきものをあれこれと喋った。数年後には笑い種であったのは言うまでもない。私は常に優等生ではあったが、学生時代も研究者時代も天才性とは無縁だった。
 仕事は膨大かつ統一性がなく、苦痛の極みであったが、経ヶ岬は私を畏敬と羨望の目で見ているので、その点は良かった。
 経ヶ岬は私の仕事を邪魔するのを申し訳なさそうにして、うずうずしながら、質問を寄越す。
「どうして、こんな嫌がらせがしてあるんだろう? だって、変じゃん……。タイプライタの文字は何でこんなに滅茶苦茶な並び方をしているの?」
 経ヶ岬の疑問はもっともである。しかしながら、当時の私は上手い説明が思いつかず「じゃああなたは、規則的な並び方をしていれば不思議には思わないわけ?」などと問い返す。
 単なるはぐらかしである。
「わあ、天才の言う事は違うねえ!」と経ヶ岬――。
 それが人間工学的に一番打ちやすいのであるみたいなことを言って私は誤魔化しておいたが、たぶん、そんなものじゃない。まず、覚えてしまうと人間は何でもいいのである。鍵盤の配列の規則性など、英語における綴り頻度から合理性を追求したと言っても、日本語キーボードが完成して以後無意味なものになってしまった。それでも我々はそのまま使った。試行錯誤された割には、さして必用のないことだったのかもしれない。言語の規則性など、鍵盤の配列を気にするのとは比較にならないほど膨大で、ツギハギぎだらけの不合理の塊であるにもかかわらず、誰でも滞りなく操るのであるから、そういう事実のほうが余程驚異的だ。二重子音の綴り頻度を重んじるのであれば、アルファベットの並び順がTの次にHが来ないのは音として不合理ではないか。経ヶ岬は私のタイピングを半ば恍惚とした表情で眺めながら、不意に奇妙なことを呟く。
 「何でAの次はBなのかな?」
 その根本を問わずにQWERTY配列という皮相に固執するようでは、悟性に欠ける――そう言いたいのか? 権威性の強いABC配列と異なる理由に違和感を覚えただけ。実際、そこから先は思考が停止している。そうではないのかね角島君?

 汝はつまらぬ優等生。 頭の中身はくえるてい。 

 私が驚いて振り返ると、経ヶ岬は何のことかと目を見開いて、動揺していた。
 仕事は雑で失敗もちょくちょくやる。それでも彼女は科学者達が渇望してやまない見えざる航路を瞬間で指し示す才能を確かに備えていた。常識の暗闇を突いてくるのだ。閃きが違う。経験が乏しいのに査読に長けていて、自分の才能を見出してくれた恩師の「人生」を絞めてしまった。こんな奴を面白がって査読に混ぜたのが誤りだったのだ。天才は幸せになれない。彼女を幸せにしたかったのならば、役場のお茶組み係にでもしておけばよかったのである。
 私はABCのキラキラ星を聞いた瞬間に覚えて、QWERTYの並びをキーボードを三日で習得したものの、その内容については何も奇妙なことだとは思わなかった。神童だの何だのとチヤホヤされて育ち上がり、大人になって、本物に出会って、今は彼らの天才ぶりに指を咥えているのが私の役目になってしまったのである。

 タイプで疲れきった腕をぐったりさせながら、ABCCでの事務仕事を全て終えた日、私たちは日赤病院に立ち寄った。被災者に会う機会もあったが、患者たちは私たちが来ると、ぴたりとお喋りを止めてしまい、貝の如く静まり返ってしまう。日赤病院への用は調査という名目にはなっていたが、これは出雲先生の要望であり、G2やブラウン少佐の指示ではなかった。
 幾つか聴き出すことは箇条書きにしてきていたが、薬品と屎尿の匂いの立ち込める病室はその臭気よりもまず先に声をかけることさえ憚られる重い空気が漂っており、根掘り葉掘り聞き出そうとすれば、どんな恐ろしい科白が待っているかわからなかった。
 カーテンが丸く風を含み、日差しが矩形に投げかける淡白で雑然とした病室内の一角で、お見舞いの果物を切るためにテーブルに置かれていた小さな包丁が日光を跳ね返して、真白に光っている。張り詰めた空気の中、少々物騒に映った。
 日差しを半身に浴びて、終始辛そうな表情で目を細めている小母さんに「眩しくはありませんか」と問うと「目がないんです」と抑揚のない声が返ってくる。そしてまた静まり返った。
 私の心は既に逃げ出す準備にかかっていた。
 私は光を失った患者に目玉の一つさえ提供出来ない。そればかりか、知りうる痛みを和らげることさえ出来ない。
 経ヶ岬が何とかしようとして、テーブルで寝ころがっている梨の玉をいそいそと切ったものの、誰もそれには手を伸ばさずに、病室内はまた静まり返る。
 彼等は窓の日差しの中で本を読んだり、ぶつぶつとざらついた声で歌うレコードに耳を傾けて静かにしているだけで、誰一人話をしようとはせず、時折、鋭い視線で私たちを盗み見るだけだった。


 資料室で見せてもらった数多の写真を前に、経ヶ岬は、何か色々と考えて感想を言い、涙を零していたが、無理というものがある。彼女は厳格であったり、心境を吐露する科白を流暢に詠うという才には乏しく、どうにも感情を意味にして言ってしまうので、何を言っても思いの丈を吐ききれない。喉に魚の小骨でもつかえている生き物のように、両手で喉元を押さえつけて、「ひどい、ひどい」と同じ科白ばかりを吐いていてもどかしい。
 ブラウン少佐は「オレはソレのナマを見る羽目になったぜ?」と自慢げに下衆の詩を吐いて、腕を組み、写真には近付こうともしなかった。被災した人がすぐそこにいるのに何を言っているのかと私は嗜めたが、所詮私は同じ部類である。ブラウン少佐は肩を竦めて小さく笑うばかりだった。
 暗然として、心の底まで冷え切ってしまった経ヶ岬の手をとって、私は病院を出た。

 この後、ブラウン少佐は私達を引き連れて、国鉄の資材倉庫だった場所へと出向いた。十人ぐらいのガラの悪い男たちが先に集まっており、その鋭い目が薄暗い倉庫の中で滑っていた。その目は病院の被爆者たちの目と同じように思えた。
 ブラウン少佐と彼らは顔見知りのようで、挨拶もなしにヤクザ相手の金臭い話が始まる。そのうちに国会議員の何某と県議の誰それとかいうのが子分を沢山連れてやって来て、私たちを一瞥し、灯台がどうのこうの、あれじゃ女子供で云々――。私と経ヶ岬のことをちらちらと見ながら小声で噂をしていた。

 刻印とシリアルナンバーの殺がれた、見るからに素性の怪しい金の延べ棒がゴロゴロと並び、ああでもない、こうでもないと日本語に英語、中国語と朝鮮語――あちこちの言葉が飛び交っていた。そうこうしているうちにトラックがやってきて、異様な匂いのする大きなボール箱が幾つも降ろされる。覗き見れば大量の軍靴。日本陸軍のお古であり、洗浄されていない様子だった。靴を捨てて帰ってくる兵士はいないことを考えれば、あれは戦死者の靴であったのだろう。死者たちから毟りとられた靴は北海道に送られ、次の者に渡された。
 商談は難航していた。暇を持て余した経ヶ岬は同じように暇を持て余していたヤクザの一番下っ端を見極め、そいつに話しかけに行く。相手は片言の日本語で広島弁を操る。何を言っているのかよく聴こえなかったが、ヤクザは経ヶ岬をジャリンコと見なして、ポケットから銀紙に包まれた飴玉を取り出して寄越す。
 経ヶは私の元にしゅたたと戻ってくると、貰った飴玉を食っても良いかと訊いた。
 経ヶに分けてもらった飴玉を口の中で転がすとサッカリンの味がした。砂糖とは違う攻撃的な甘さの代物である。
 倉庫の脇の大きな換気扇が、低い音を立てて回っており、工場の塩ビの天窓から洩れる、くたびれた茶色の光をかき回して、体に悪そうな粉塵を水中の綺羅のようにして輝かせていた。
 私たちが、くすんだ湖底で音を立てぬよう、サッカリンを舐めている間、ブラウン少佐専属の運転手であったアーサーが時間に間に合わないと告げに何度も来た。ブラウン少佐は苛苛しながらオンマイウェイを繰り返す。物資が思い通り集まっていないらしく、予定を繰り下げる羽目になったのだろう。車に乗り込んだ後もブラウン少佐はしきりに舌打ちして、不機嫌そうに「クソが」とか「死にさらせ」とか言う。運転手のアーサーに悪いとは思わないのだろうか。無駄に威嚇する男はろくなのがいない。そんなことを思っていると、突然車は止まり、ブラウン少佐は私達に向かってかく言う。
「よし、降りろ」
 何故? 
 あまりにも唐突なので、私も経ヶ岬も目玉をパチクリさせて困惑した。
「そこ曲がってすぐで広島駅だ」
「それは見れば解るわ」
「じゃあ降りろ」
「何よそれ。むしろ、あなたが降りたらどうなの?」
「何を言っているんだ? 自分たちだけで帰れるだろう?」
 そりゃ帰れるけれど、こんな吹き曝しの道端でポイ捨てにするとは、思いもよらなかった。メリケンはレディ・ファーストの国じゃなかったのか――。私はこのまま立ち去ってしまいそうな雰囲気のブラウン少佐の腕を掴む。
「ご焼香をあげてゆくので、少佐も来てください」
「何をあげるって?」
 少佐は何を勘違いしたか、ガーリックをやるのか? などと頓珍漢なことを問い返したが、私の言わんとすることを把握すると、形だけ笑ってみせた。
「残念だがオレは真珠湾へお祈りに行かなきゃならないのだ」
「奨励館はすぐそこです」
 ブラウン少佐は急いで煙草を探し、ライターで火をつけると「パール・ハーバーでは次兄が死んだ」と呟いて、この暑い中、ポケットに手を突っ込み、マッカーサーの真似っこのようなポーズをとる。
「だから無理だ」
 何か怒りに任せた正論ぶったものが口元まで出かかっていたが、ブラウン少佐の目付きが明らかに変容しており、私はこれ以上、何も言えなかった。
 ブラウン少佐と別れ、私と経ヶ岬は二人して産業奨励館の廃墟へ焼香に出向いた。線香が手に入らなかったので、煙草で香を焚いた。木曾馬を引いた行商が売っていた法外な値の代物である。まだ平和記念公園も何も出来ていない時分で、どこに向かって祈ればいいのかと一寸迷ったが、私たちは自然とその場所を選んだ。他に目立ったモニュメントがなかったのである。
 広島の産業奨励館は後に原爆ドームと呼ばれるようになった。

 私が踵を返すと、経ヶは強い日差しに目を細めながら、その場に立ち尽くし、ピクリとも動こうとしなかった。
「このまま帰るの?」
 経ヶはそう言って言葉を切り、これだけでは変だとでも言いたげな様子で小首を傾げる。
 私たちは連日知らない場所を放浪して、スライドを見るような単調さで、日本の現況を確認した。その時の広島はまさに日本の縮図だった。淡々と。淡々とただ苦しく、空が晴れている。
 耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び――戦争が終わって、また、耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、我々はいつまでも永久に終われない。
「このまま帰るの?」
 経ヶ岬は挫かれたスライドが回り損ねたようになって、もう一度同じ科白を繰り返していた。
「だって……、帰らないでどうするというのよ?」
 額の汗が玉になって落ちてくるほどに日差しが強く、経ヶの黒髪は鋭く光を跳ね返していた。さっさと帰るのがいいにきまっている。更に黙祷したければ汽車の中でするのでよかろう――。
「どのみち帰るのよ。さあ、行くわよ」
 私がそう言って、また歩き出そうとすると、経ヶ岬はそれを阻止せんとする口調で言い切る。
「おなかへった」
 私も空腹だったが、急に何を言うのかと私は呆れる。追悼したいのではないなら、尚更――。
「水筒は残っているでしょう?」
「水筒はへってないけど、おなかはへった!」
 なにを子供みたいなこと言ってるのか。経ヶがこの暑い中動こうとせず、妙に強情なので口論になりかけると、経ヶは唐突に口ぶりを変更し、こんなふうに言う。
「ねえ、角島。皆、いつまで生きていられるのか解らない。貴方に残された時間はもう、数分もないかもしれないよ。今日の給食が、貴方の大好きなライス・カレーだったとしても、後悔も出来ない。悔し涙も流れない。もう、ずっとずっと、未来永劫、永久に食べることが出来なくなってしまうかもしれない」
 経ヶ岬は黙って、私の様子を窺っていた。
 言いぶりは下らなかったが、冗談にもならない。私も直帰する理由はないような気がしてきて、ついに経ヶの意見に折れた。
 私が「仕方ないわね」と賛同してやると、経ヶは跳ねるようにして、瓦礫の山を囲む灰色の町の中へ駆けてゆく。そうして「洋食を食べよう!」などと声高らかに無茶な事を言い出し、私の手を引っ張っていった。経ヶ岬は事前に目を付けていたらしい中央通りに出ると、水を得た魚の如く、目をキラキラとさせて屋台を見て周った。バラック小屋を見つけると「ここが一番良い」と宣言し、大人達の隙間に滑り込む。それから「もうちょっと詰めて」と見ず知らずの大人たちをあっさり仕切って席を作り、私を招いた。私はこのとき生まれて初めて一銭焼きというものを食べた。経ヶの育った地元では一銭焼きを、一銭洋食などと称していたようで、洋食と言えば、一銭焼きのことを言うのだった。洋食ならば、ビフテキの類だと思っていた私は唖然とする。基本となる味は単純な小麦粉とウースターソースきりで濃い口。具材は時勢の供給不安を反映するかのように、ネギやキャベツ、ゴボウなど、その時手に入るものが雑然と混ざり合ったものにカツオブシがのっているようなものである。その外観は被災地の屋台街のミニチュアのように地味でガタガタした姿だったが、私には新鮮だった。今や本当にあったのか信じ難いほど昔の記憶である。
 店を出ると経ヶは照れくさそうに「ありがとう」と、この暑い中、私と手を繋ごうとしてくる。仕方なく手を貸してやると、奴は手を繋ぐ素振りをしながら、手についたソースを私の手の中で拭き取ろうとしていた。まったく付き合い方が子供じみていて呆れる――。

 逃げ水に囲まれた街のどこかで、チリンと風鈴が鳴って、遅れて大きく風がやってくる。
 そういえば女学校時代、私の組では、学食のカレーなどを喜んで食べるような貧乏人は、暗黙の了解で仲間はずれであった。意地悪く皆で隠れて彼女がカレーを食べる様を「観察」していたのである。






§  ビッグハムスタア


 私たちが広島から出雲に帰ってきた時は既に深夜零時を回る。行きは、進駐軍の専用車両に乗れたから気楽なものであったが、帰りにはボロの三等車を使うことになり、その混雑ぶりに圧倒された。つり革にやっとで手が届く経ヶ岬は、手を伸ばすのも諦めて、簀巻きにされたように首だけを動かし、頻りに目をパチクリさせては、私を見失わないようにしていた。私は、無数の物言わぬ旋毛ばかりを見ているうちに、初めて車酔いというものを経験し、ほとほと疲れた。三等車に乗ったのもこれが初めてであった。
 大社神門駅からは徒歩。バスもハイヤーもなく、灯台局は市街から外れており、周囲は明かりが乏しい。ヒノミサキに限らずたいていの灯台は陸側には光を放たないように灯篭の一部を遮蔽してある。海沿いの道からは烏賊(イカ)釣り漁船の漁火が海にポツポツと見えるが、黒い波頭が唸りをあげており、それが数百メートルの先まで迫っている。風に巻き上げられた波の飛沫が時折やってきて、海の正体を私に知らしめんとする。あまりにも広大な地球の原風景は、どこか生命を拒絶する気配を感じさせた。
 頼りない木製の懐中電灯一本では自分の爪先さえも満足に照らし出す事が出来ず、ずっと同じ歩幅でとぼとぼと歩き続けていると、不意に自分がどこにいるのか解らなくなり、足元を掬われるような感覚を覚えた。視界の端から端まで一直線に張り詰めた黒い海に僅かに浮かぶ白亜の塔と、その上空を埋め尽くす分厚い鉛色の雲。恐ろしいぐらい殺伐とした風景である。
 波の動きに目を奪われて、ひっきりなしの轟音に耳を塞がれていると、目が回るような感じになり、この頃は徐々に話題にも上らなくなっていたカリスマのことが頭蓋骨の奥底、遥か彼方の暗闇に映った。
 経ヶ岬も同じようなことを考えていたらしく、不意に「これからどうするの?」と訊ねてくる。
 解らない。むしろ彼がどう思っているのか、想像がつかなかった。カリスマは人間に戻れない形で宇宙に投擲される予定である。地上に戻る仕組みは今の所ない。
 経ヶ岬が私の腕にしがみ付くようにしてあんまり引っ付いてくるので、互いに足をひっかけて「あっ」と声を上げ二人揃って転倒した。
 経ヶ岬は私が手を差し伸べても、自ら静かに立ち上がり「こんなの痛いうちに入らないよね」と言って洟を啜った。
 灯台局とその周辺は部外者立ち入り禁止ではあったが、門衛はおらず、私たちは門まで回らずに菜園を横切って、灯台付属のオフィス――退息所に入った。
 退息所の中は既に灯を落としていたが廊下の曲がり角のあたりで、何か喧しく金属質の音が響いており、臆病な経ヶ岬は震え上がって私にしがみ付いてくる。
 出雲先生は何もなければきっちり十時には寝てしまうし、他の人員は灯台の名で呼ばれる者以外は、当直することなく帰宅する。なので今は出雲先生以外はいないことになる。
 一体何が暴れているのかと恐る恐る懐中電灯で廊下の先を照らし出すと、そこには、モルモツトのような、マメブチのような、見るからにげっ歯類の一種である輩が、檻の柵をガジガジと齧り付いているのが見えた。モルモツトにしては寸胴。マメブチにしては丸い。シッポはなかった。それが一見して国産のネズミではないのは明らかであった。

 経ヶはネズミの存在を暫しぼうと眺めた後に、不安げな表情で私を見上げて、奇妙なことを訊ねる。
「この人、キットマン大尉じゃないよね?」
 まさか。
 なのに、経ヶは私が明言することを望んでいた。
「まあ、これは何かネズミの一種でしょう?」
 冗談。この時はその程度にしか思わなかったが、思い返すに、彼女の心は何か重要なものを挫かれており、誰かが、コイツはキットマン大尉だと強く言い張れば、自分の目の前にいるのがネズミであるという、至極当然の直感を諦めてしまいかねない危ういものが潜んでいた。
 そんな経ヶの気も知らずにネズ公はダダッと水汲みに顔を突っ込んで、補給すると、引き続き無謀なる大脱走計画に励む。もう随分やっているらしく、柵の周囲には赤さびの破片が沢山散らばっていた。あの様子では、いずれ三ミリの鉄柵を食いちぎり、本当に脱走しかねなかった。
 近付いて観察してみると、このモルモツトみたいな生き物は、毛並はふさふさで、白地に薄茶色のブチ。げっ歯類の常で目玉がくりくりしている。いかにも子供が喜びそうな奴であった。正体がはっきりして慣れてくると、経ヶ岬は、「こらこら」などと言って、この珍奇な新客を心から嬉しそうにしてかまい始める。
「噛まれるから指は出さない方がいいですよ」と不意に奥の部屋から声がして、出雲先生が、モックアップの棚の脇から顔を覗かせた。棚の掃除をしていたようで、塵取りと箒を手にしている。皆が出張して人手が足りない間、出雲先生は担当ではない仕事を全部引き受けて、就寝が遅くなっていた。
 私が出雲先生に礼を言っていると、経ヶはそそくさと鞄を開けて、「出雲先生にお土産がある」と新聞紙の包みを取り出す。
 お土産に買った新聞紙にくるまれた十銭焼きは、元々ぺちゃんこだったが、汽車の混雑で押し潰されて、更にぺっちゃんこにされていた。私は、それが、大切な人へのお土産として、許されるのか許されないのか、見極めかねていたと思う。家が家であった上に、戦直後、これまで聞かされてきたこととは、あまりにもギャップの大きい世の実態を見てしまったせいである。本物の日本は私の知っている世界ではなかったのだ。出雲先生は、賄賂は受け取らないが、ネコジャラシは受け取るから、私にとっては、更に難しく感じられた。
 経ヶは、流石に潰れた十銭焼きを出雲先生に進呈するのは良くないと思ったのか、目の前で脱走を企てている正体不明の生物にやり始めていた。

 出雲先生は冷えた十銭焼きを自らも口にしながら、千切った破片を檻の中に差し出す。檻の中の生き物は、途端に脱走計画を中断して、手が早いか口が早いか、勢いよく十銭焼きの破片を吸い込んでしまう。その鼻先はヒクヒクと更に催促して絆創膏を巻いた先生の指先を追っていた。
 私は懐中電灯を消して、出雲先生から受け取った行灯(あんどん)を壁の打ち釘にかける。
 出雲先生の髪の上を、行灯の光が滑ってゆく。丸っこいネズミの双眸は光が差し込むと鏡のようになって、赤色に反射していた。その色は日御碕の灯質と同じように見えた。
「あの、先生この生き物は?」
「キットマン大尉が置いてゆきました。ハムスタアという生き物だそうです」
 実験動物の一種であることは明らかであり、何に使うのかと私が訊ねると、それを遮るようにして経ヶは「可哀想」だと抗議し始める。
 出雲先生は経ヶ岬を改めて不思議そうに眺めていた。
 死ぬのが可哀想ならば生き物はみんな可哀想なことになってしまう。暗闇の中で出雲先生はそんなことを諭していた。
 私も、不思議というか、その点に関しては経ヶ岬を疎ましく思っていた。この子は一体どんなざまで学校に籍を置いていたのだろう。学部の同僚はさぞ大変だったと思う。むらの大きい成績ながら四修三修と驀進飛び級をしてきた子で、専門学校在籍中から特科学級の準備委員会や理研の研究室に呼び出されていたような存在だ。そして終戦間近の空襲で逃げ遅れたついでに脱走――もとい自主退学してきたという経歴を持つ。
「じゃあ、じゃあ、もったいない。そうだ、だって、このネズミは珍しいのじゃないですか? 腑分けしてしまうよりは、観察を続けるのが妥当と思います!」
 何か言ってやりたい。無論、経ヶ岬も自分が間違っていることぐらい解っているのだろう。それが一層タチを悪くしていた。
 実験動物の処遇に関して一悶着ありそうだったが、出雲先生はあっさりと結論を告げる。
「これは、経ヶ岬に見てもらおうと思います」
 それを聞くやいなや経ヶ岬は「わぁぁ!」と歓声を上げる。
「ただし、ちゃんとノートを取る。いいですか」
 出雲先生は経ヶにきちんとしたノートを付けることを以前から要求していた。
 経ヶはノートの日付をよく書き忘れた。しかもその内容は、一階から跳躍して、二階、三階をすっ飛ばして屋根裏に飛び込むような書きようで、あれでは結論以外は解らない。そういえば、経ヶは数式を書かせると、式自体、証明が極端に短かった。
「でも、出雲先生。これは遊びではないのですから、経ヶにもやるべき仕事は覚えさせた方がいいと思いますよ?」
 私がそう進言すると、出雲先生は暫し思案するようにしてハムスタアを眺めたのち、「考えておきます」と言って寝室へと去って行った。
 最初のうち、このハムスタアというのは、何の意味もなく灯台局に存在していたので、キットマン大尉の気紛れで連れてきた、ただの珍しいお土産かと思っていたが、実際にはそうではなかった。このハムスタアはソ連の宇宙犬であったライカのように、象徴的な意味を背負った実験動物であった。そして、彼の実験は既に終わっていたのである。
 私たちは彼のことをいつからかビッグハムスタアと呼んでいたが、アメリカの研究所ではSIハムスタアと呼んでいた。SIはスーパー・イミュナイズドのことで、超免疫を意味する。
 スーパー・イミュナイズドはあらゆる種類のワクチンを投与されており、いかなる病気にもかからないように加工された生き物である。彼のカルテを見ると二四二項目のうち一五五項目にあたる部分が黒塗りになっており、その箇所は何を接種されたのか不明。
 また、爬虫類のように命ある限り永久的に大きくなる特殊な性質があり、その寿命も極めて長いという話だった。もっとも、漸近成長(二の次ぎは一しか成長しない。一の次ぎは〇・五しか成長しない)であって、超巨大ハムスタアが出来上がることはないのだが、それでも彼はネコより一回り大きい程度まで成長した。最終的には通常のハムスタアの三十倍程度の体重があったと思う。
 経ヶ岬はこれを随分と可愛がるようになり、「狭いケージに閉じ込めておくのはハムスタアの健康を損ねるものと考えられる」との言い訳で、専用の牧場を作ってやったり、そのうちには飼い犬よろしく毎日朝夕には浜辺を一緒に散歩するようになった。回し車を一定回数すと、褒美に乾しシイタケや、ニボシが飛び出すような機械を作ったり、自動車さながらのメーターを回し車に取り付けてみたりと、経ヶ岬はそんなことばかりしているので、普段の仕事がしばしばハムスタアに振り回されたが、出雲先生はそれには目を瞑っていた。


 私と経ヶ岬が広島から帰ってきたあの晩、出雲先生は暗闇の中ずっと目を覚ましていた。私は不審に思って、私たちが留守の間何かあったかと、先生に尋ねた。
 退息所は、岬に砕ける激しい波と風の轟音だけに包まれている。
 灯光の繰り返しが、どこからか反射して、カーテンの隙間の短い距離をゆっくりとなぞってゆく。沿岸警備隊の置いていった灯台船の放つ光だ。そのたびに部屋の中の蚊取り線香の煙りが白く浮き上がる。灯光が去ると、蚊取り線香の端の赤い点が、暗闇の中で灯っているのが見えた。
 
 そうして暫く、たぶん三十分ぐらいの間、出雲先生は返事をしなかったが、私がうとうととして眠りに落ちようとする頃合になって、「カリスマが目を覚ましました」と暗闇の中に声があった。






§  カリスマの朝

 夏が終わる。
 綿菓子のようになってどこまでも好き勝手に膨らんでいた雲が、いつの間にかほつれた生糸のような姿となって靡いていた。蝉の声も、ツクツクホウシが疎らに鳴く程度になり、角島は勤務中に机の上で伸びていることが多くなった。
 私は唐突、出雲先生に呼ばれ、怠惰を叱られるものと恐々として、先生の机まで行くと、そこで出張命令が下りる。
 行き先はアメリカ。フロリダである。もちろん海外は初めてである。角島様の知らぬものは残すとこ海外ぐらいであり、必然気持ちは昂ぶった。これは出雲先生がカリスマに面会に行くお供であり、心躍るものではないにせよ、赤紙の来た家の出征祝いに顔を出すような「高揚感」があった。
 その時既に戦争は賞賛されなくなっていた。だから、その高揚感は感傷、被害者的な立場の否定感情が付き纏うようになっており、私の中で奇妙な対立を起こしていた。そのセンチメントのようなものは、戦時中には実際にはなかった。
 いいや、確証はない。しかし、絶対に悲しかったはずだというのは、必ずや誇り高く、望ましいという、かつての決め付けの裏返しでしかないのではないか。多くの者が田舎者で遠くへ行くことなど滅多になく、そのことが不安だった。海外へ行くのだ。しかもそれは戦場だ。明示的な死への恐怖以上に、この世のものに在らぬものに触れるような、底知れぬ不安があった。森に投げ捨てられたハムスタア。何が起きているか、幾ら聞いても解らない。
 兵役は男子の義務であったので、不当なことを強いられているという感情は少なかったものと思う。理由なく義務を果さない男を女たちは避けた。そこに、我が子を犠牲に生き延びようとする男を想定していたのである。根源的な本能を否定してみせる能力こそが人間の証だった。制度において運命化された死は寿命と同じ感想を得ることになるだろう。反戦映画は物語上運命的に死ぬ。観客は泣く。だけど死ななかったら本心不満に思う。そして映画を見終わったら昼食をとる。避けられなくなると、人の感情は避けられない運命に合った姿に変形する。
 それぞれの日常を送っていた人々が何を考えていたかは解らない。ただ、客観的に見て、その時流れていた旋律はその後の映画音楽ではなく、国民歌謡と軍歌であったことだけは確かである。悲壮美を追求したオーケストラ・サウンドなどではなかった。
 そこにあるのは当時を知る者すら生き証人にはなれないという事実である。でなければ生きてゆけない。過去を回顧しても、同じ過去に戻る事すらできない。その場にいた人間でさえも。小さい頃に見た絵本がこんなものであったのかと、私は常に驚く。きっと次も驚くのだ。いつだって時代の隙間に差し込まれる栞のようで、覚えているという痕跡だけ残して、心の連綿を約束しているはずの大掴みの形態は呆気なく崩壊してしまう。日常生活に支障がないから、言及されないだけで、それは一つの記憶喪失であった。

「来週月曜の朝一に発ちます。それまでに荷物をまとめておいて下さい。あと、一つ持たせる書類もありますので、片手はあけておいて下さい」
 出雲先生は私にそう告げると、特段でもなさそうにして、色褪せた青空に背を向けて、書きかけの論文に戻った。

 タイプに接続されたカリスマは、当初意味不明のローマ字の羅列を延々繰り返しており、米軍の科学者たちの間でその文章は「ヒエログリフ」と呼ばれていた。脳細胞は生きているが、まともな意識はないものと思われていたのである。しかし、カリスマの処分が検討され始めた時、休暇のついでに研究室に顔を出したブラウン少佐によって、そのヒエログリフの中に「NOISA」と「HINO」という文字列の存在が発見され、研究員たちはブラウン少佐に手酷く罵倒されることとなる。
「脳味噌を処分すべきだ。お前たちの脳味噌をな」
 彼はそう言った。
 ちなみに研究所の所長は、ウォーリー・ウェンブラー大佐という。当代きっての脳科学の権威であり、この時のやり取りで、後々にブラウン少佐との間に少なからぬ禍根を残した。
 暗号解読チームが付いていたにもかかわらず「HINOMISAKI」の文字列の発見が遅れたのは、ブラウン少佐が灯台局に纏わる基本的な情報をちゃんと通達していなかったことにも原因がある。ウェンブラー大佐たちはIZUMO‐1研究局の名を知ってはいても、そこの局長であるHINOMISAKIの名を知らなかった。
 また機械的な部分の初期不良も影響していた。タイプライターは、腕、足、瞼を動かそうとする神経伝達に基いた左右の概念を短点と長点に置くモールス信号を自動的に照校してローマ字に打ち出す一種の印刷電信機(テレタイプ)であったが、照校システムの機械側の不備で、一定条件下で幾つかの単語を打鍵しないという欠陥があった。
 カリスマからのモールス信号をこちらで受信出来る状態なのに、更にタイプを介して繋ぐというのは、研究段階においては桂馬飛びのような方針で到底良いものとは言えなかったが、通信兵を機密研究に従事させるわけにいかなかったことや、科学の先端にいることで「単なるテレタイプ」と思ってしまう迂闊によって、尚早な設計をしたものである。
 ブラウン少佐はそれらのいいわけもとい、報告書を易々と握りつぶしてかく言う。
「研究者は寝るな」
 しかし研究員は寝てなどいなかった。昼夜を問わず熱心に研究をしていたのだった。そして、それすらもまた仇となるのだった。

 ケープ・カナベラル研究所のウェンブラー大佐はやきもきして、出雲先生の訪米を待っており、自ら空港まで出向いたほどであった。

 彼は通訳の私を介して、捲くし立てるようにして出雲先生に尋ねる。
「イズモヒノミサキというのはあなたですか? あなたがイズモの所長なのですか?」と。
 出雲先生は一瞬これを、私の発した質問のように思ったのか、不思議そうに私の顔を見た。
「……はい。その通りです。私がイズモヒノミサキで相違ありません。しかし私は所長ではなく局長です。灯台局に所長という役職はなく、私が監督責任者となります」
 これを私は慌てて通訳するのである。ウェンブラー大佐は巨大な熊が呆然と立ちつくすようにしていた。暫くの沈黙の後、場を和ませようと思ったのか不意に、大きな身振りで手をバタバタさせて、ギズモとステーキがどうこうなどと、本題と関係ない話を切り出してくる。
「今なんと?」
「……ギズモとステーキが暴れまわっていると――牛のお母さんが怒って出てきました。そして、そんなに喧嘩が好きならば――、ちょっと解りません。屑カゴに入って下さい」
「すみません、もう一度お願い出来ますか」
「ギズモとステーキが、」
 よく解らなかった。もはや再現出来ない。たぶんジョークか何かだったのだと思う。

 ウェンブラー大佐は恰幅のいい大柄な男で、齢は四十ほど、赤い髭は頭髪以上に茂っているが、頭は皺一つなく輝いている。大佐は見慣れない相手を前にして、随分と緊張していたが、出雲先生の方は灯台局詰めの進駐軍の兵士や役人、何よりカリスマとの関係で、既にアメリカ人というものをよく見知っていた。
 間もなくしてサイドカー付きのぼろっちいオートバイに乗ったブラウン少佐が、軽薄なクラクションとともにやって来る。彼は挨拶もそこそこ、ウェンブラー大佐をほっぽっといて出雲先生と話を進めてしまう。置いてけぼりの形となったウェンブラー大佐は一人機嫌が悪そうであった。
「あの、ちょっと待ってくださいますかあなた? 私にも解るように話してくれますか?」などと、私がどぎまぎして、下手な通訳を続けていると、ブラウン少佐は「おい、そこのタコが今、そんな女学生みたいな口調で喋っているように見えるのか?」とウェンブラー大佐が日本語をわからないのをいい事に失敬な言葉を吐く。それに、そんなこと言われたって、私は通訳じゃない。ついにはウェンブラー大佐まで、お前は通訳じゃないのか? と、声をひっくり返して私を詰ってくる。面白くなかった。
 ケープ・カナベラルの研究所は、森林に囲まれた広大な敷地の中にあって、白い建物が、ぽつぽつと並んでいる。まばらに見えるが、近づいてみてばどれも巨大で、建物の間を繋ぐ道には、検問や信号があった。
 各々の研究室には、最先端の機材と実験器具が充実していた。書庫は三つあり、そのうちの一つは映画館並みの視聴覚室を併設している。広大な庭園にはテニスコートやプールまである。水晶宮さながらのガラス張りの棟は植物園で、これは単なる保養施設だ。日本が戦争に敗れたのも、これではやむないことと思われた。
 案内された建屋につくと、他の研究員達も集めて、会議が始まる。
 会議と言っても、私達は彼らの聴問を受けるために呼び出されただけで、一人前の科学者としての扱いを受けてはいなかった。出雲先生は肩書きはあれど、単にカリスマの生前の関係者という扱いで、その素性に関しては、まだ詳しい説明はされていなかった。私に到っては使いものにならない通訳という扱いである。
 黒板の前に出た一人の教授は「カリスマは電信を寄越していたが、それは一方通行で、こちらからの送信を受け付けない状況が続いている」との説明をした。その原因として考えられていた主な理由は以下の三つである。


 一. カリスマの意識に何らかの障害があり、こちらの打電する内容をまともに理解出来ない。

 二. カリスマと電鍵の接続に問題がある。

 三. カリスマが応答を拒否している。


 カリスマがHINOMISAKIと思われる打電をしてきたことから、程度はともかくとして、モールス信号を理解することは可能な状態であるはずで、また、カリスマとの接続試験は膨大なパターンを試行していることから、ウェンブラー大佐もブラウン少佐も3のカリスマが応答を拒否しているという線をまだ疑っていた。
「ご大層な脳味噌が集まって、策を講じているのにどうにもこうにも出来ちゃいないじゃないか。何か思い当たる節はないのか? お前とカリスマは、ちちくりあっていたはずだ」
 私はブラウン少佐の下卑た言い方に憤懣し、机の下でその足を突いておいたが、出雲先生は難しい表情で「いいえ」と答えるばかりだった。
 ウェンブラー大佐もブラウン少佐もカリスマが研究員との応答を回避しようとしているという可能性を考えて、出雲先生をだしに使おうと呼び寄せたわけだが、出雲先生はそれとは別のことを考えていた。後から聞けば、至極当然のことのように聞こえるかもしれないが、出雲先生はカリスマの方の問題として、意図せず不必要な入力をしてしまったり、考えをモールス符合に組むのに手間取る等の制御技能の習熟度の問題を新たに指摘した。
 出雲先生はかく言う。
「カリスマと電鍵の接続方法をあれこれと変更したことで、カリスマが制御技能を習得することをかえって阻害しているのかもしれません」
 私の通訳が下手だったというのもあるが、出雲先生があまりにも平易に言ってのけたので、この意見はうっかり流されそうになった。一の意識障害の可能性や二の接続問題の可能性との違いを理解されなかったのである。
 そして出雲先生のこの推測は正解であった。当初カリスマは、何百もの方法を怒涛のスケジュールで矢継ぎ早に試されており、脳以外の全てを失った体で、モールス信号を送ることに難儀していたことが後になって判明した。
 子供はかまわれるより、かまいたいのだと出雲先生は言っていた。大人たちは子供が自分の思っている通りの反応をしないと、更に色々して、終いには自ずから手詰まりに陥る。その焦りは、研究分野にも付き纏う陥穽である。
 漠然とではあるが、私はこの頃には既に出雲先生を尊敬していた。
 三重の鉛の扉をくぐり、カリスマを納めた水槽のある部屋に案内された出雲先生は、カリスマに休息を与えているかどうかを、そこにいた研究員たちに訊ねた。カリスマには打電のある時とない時があり、眼球運動に関わる神経系が左右の信号を繰り返すことなどから、寝起きしているらしいことが判っていたにもかかわらず、その扱われ方に関して時間的な配慮はなされていなかった。研究員同士の競争というのもあったが、何よりもカリスマはもう人間と認識されていなかった。
 実験室の天井は高く抜けており、暗闇の中に排気管や水道管が剥き出しになっている。プレハブの足場が内壁を渦巻いているような構造であり、強い光を放つ裸電球が等間隔に灯って、しんとしている。空調のためか、微かに風が吹いているような気もして、まるで、都市の中にいるような錯覚を覚えた。
 室内に窓はなく、壁に沿うようにして水槽が並んでいた。幾つかの水槽にはモックアップが液体の中にワイヤーで係留されている。その中にはどう見ても人間のものである脳が同じようにして液体の中に納められていた。それらは生命維持に必要な装置が一切繋がれていなかった。
 出雲先生は尋ねる。
「この人たちは生きているのですか?」
「そっちはホルマリン漬けだ」
「カリスマは?」
「カリスマは生きているよ」
 そう言って、案内してくれた研究員は部屋の中央付近にある、立方体を指で示す。それは部屋の中にもう一つ部屋があるような、入れ子状の構造物であった。出雲先生は、ずんずんと歩んでゆく。ボックス内にカリスマは鎮座していた。十五インチ四方程度の小さな窓の中は薄暗く、その窓すらシャッターを引き下げて、六面を壁にしてしまうことが可能だった。不穏な気配の漂う小さな電波暗室。壁は内側に向かって、巨大なねじ回しの先のようなスポンジの棘が無数に敷き詰められており、それは幾何学的な迷宮のようにも見えた。そんな小さな世界の中央にカリスマはいた。水槽の中で深海の生物のように浮いて沈黙している。

 出雲先生は息を詰め、立方体の脇に備え付けられた机の上の研究日誌をとって、破きかねない勢いで頁を捲る。日付を見れば、相当な過密スケジュールになっているのは一目瞭然であった。
 出雲先生はすぐに振り向いて叫ぶ。
「カリスマは灯台局にいた時は十時には就寝していました。毎日最低七時間の睡眠を与えてあげてください。カリスマは生きているんでしょう?」
 出雲先生にしては珍しい大声で、その場にいた研究員たちは皆我に帰ったように、はたまた、何か事件が起こったように、注目していた。
 誤解ないよう言っておくが、研究員の彼らは特別洞察力に欠けた人達というわけではない。何もまとっていない脳味噌が水槽の中に沈んでいるのを見て、それを人間だと思えと言われても、これは、なかなか難しいものがあった。少なくとも、こういう状況を前にして、どういう判断をすればいいのかという前例がなかったし、命の価値はずっと低い時代だった。脳味噌だけになった人間を生かすことを目指しているにもかかわらず、心の底では、そんなことが出来るはずがないと思っていた。もしも水槽の中の脳を生きている一人の人間だと認めてしまったら、それは大変なことである。カリスマの脳以外の体は既に墓地に埋葬されている。そもそもカリスマたちは、余命数日の病人や、助かる見込みのないほどの障害を負った傷痍軍人である。彼らは既に死んだも同然であった。
 私とて、もしも赤の他人の生きているか死んでいるか解らぬ、生存率一パーセントを切ると言われる存在を前にして、応答実験をしろと言われたら、せいぜい死んでしまう前に、一言二言でも遺言が取れれば大成功と喜んだことと思う。

 目を覚ましたカリスマはこう言っていた。
 「ずっと、平らな、クリーム色の、等間隔の丸が打ってある壁の上に溶けて絵のようになっていた」と。「出て行きたいのに、壁の外に暴風があって、そっちへ行きたいのに、どうしようも出来なかった」と。
 そのイメージは彼が実際に置かれている状況に近いものがあり、そのことについて、ウェンブラー大佐から二三質問があった。
 カリスマが一体どんな世界で意識を保っていたのかは皆、恐る恐るしながらも欺きようのない興味を持った。夜になるたびに、自分の好奇心が恐ろしいものであると気付くが、朝になれば、またその欲望に誘われた。人の肉と骨を剥いでこんな形にして、そのあり方に懺悔よりも増して、興味を持つ。科学者だから? それは違う。カリスマの話すことは、人間の生死の境にある一つの最も根源的な問いに肉薄していたからだ。
 カリスマは言う。
「僕は、芋虫になったんだと思った。昔学校で、壁の上に緑色の芋虫が這っていたんだけど、そいつになったんだ。それに気付いたら、少し気が楽になったよ。あれは次の年も芋虫のままだった。たぶん蝶にも蜂にもならない種類の芋虫だったんだけど、楽しそうだったから」
 先生はどうしようもなく震える指先でたどたどしく、タイプを打ち返そうとしていた。
 私が先生専属のタイピストになれたのは、科学者として成功することなど、どうでもよくなってしまうほどの光栄であった。
「カリスマ。あなたはどうしてもらいたいですか? 私は全力でやれるべきことをやります」
「毎日会いに来てほしい。ここは絶望的だよ。退屈なのに煩くて――。恐いんだ。たのむから、連絡を切らないでくれ」
「わかります」
「いや、わからないよ。こんなのは」
「私はわかってみせます。必ず毎日会いに来ます。私は今月一杯はアメリカにいますから安心してください」
「僕は今アメリカにいるのか?」
「そうです」
「それで……君は、いつ日本に帰る?」
「今月末まで。二十一日です」
「その後は?」
「それはまだ未定です」
「毎日でも来て欲しいッ! 君には話さねばならないことが沢山あるんだッ!」
 出雲先生は迷っていたが、三週間は必ず毎日会うと約束が出来るように、ウェンブラー大佐に許可を求めた。
 ウェンブラー大佐は言う。
「いや、気持ちは理解するよ。しかし、毎日は難しい。我々にもイズモにも仕事がある。ああ、だが、我々としても出来る限りの便宜を図ろう……」
 出雲先生とウェンブラー大佐が交渉していると、カリスマに接続されたタイプライターが一文を送り出してくる。
「僕は五年近く一人だったんだ」
 ブラウン少佐は私の肩口を掴んで、大声で問う。
「まった。今何故、五年と解った?」
 カリスマは問い返す。
「間違っているか?」
「いいや、まあまあいい勘をしているぞ。よくやった!」
 徐々に打ち解けてきたと思ったところで、唐突にカリスマはこう打電してきた。
「もうだめだ!」
「何がです?」
「何でだめなんだ、この野郎!」
 カリスマ以外に誰か他にいるのだろうか――。ふとそう思った。
「ヒノミサキが次も出てきますように」
 カリスマは最後にそう言った。
 出雲先生はカリスマの意識が消えゆくのを察すると、タイプライターに向かって「必ず」と鋭く言い放つ。
 この日はここで、打ち切りとなった。大した量もないやり取りだったが、これでも二時間はかかっていた。
 カリスマは和文モールスを打ってくる。何故かあまり英語を使わなかった。暗号解読班がつきっきりで翻訳していたが、出雲先生と私、そしてブラウン少佐の三人が、最も解読に貢献し、下手をすればこの三人だけでも、通信可能なのではないかと思わせるような状況になってしまい、ウェンブラー大佐を含め、カリスマ研究チームはその状況を危惧した様子だった。事実、通信をしているうちに、送受信の速度が向上してきているのが、傍目にも解るぐらいであった。
 ブラウン少佐が「おまえたちは五年間何をやっていたんだ?」と煽るので、私はそれを宥めるのに必死であった。研究とは時にそういうものなのである。思わぬ不意打ちや技術革新。はたまた勘違い一つで自分の生涯をかけた研究があっさりと意味のないものになりうる。それに研究の権利はウェンブラー大佐が持っている。決して仲違いしてはならない。
 出雲先生は私の肩を叩き、通訳を頼む。
「この実験はカリスマを生存させることそのものが難しいものです。私はそれを解っているつもりです。明日も私どもを同席させて下さい」
 出雲先生が放っておけば土下座しかねぬほどに深深とお辞儀をするので、私も一緒になって御辞儀をすると、アメリカ人の目にはお辞儀が滑稽に映るらしく、苦笑とともに、顔をを上げるように言われた。
 しかし、大変なことになった。どちらを向いても、その表情は一様に硬直している。まさか、この実験が成功するとは思っていなかったとでも言うように。







§  フロリダの夜


 それから数日間、私たちは米軍施設内の鉄筋コンクリート造の四階建て宿舎の一角を与えられて、米軍上層部、あるいは国防高等研究計画局の決定を待った。ペンキの臭いが残る室内には、特徴のない少々の調度類と生成りのカーテンがあるきり。あんまりぶっきらぼうだから気兼ねしたのか、窓辺の広縁には旅館の部屋のように、「ハイセンス」な一対の椅子と低いテーブルがあって、差し入れで、途中から、トランプのカードと、誰かの私物のようなファッション誌が置かれた。
 出雲先生とは交代で休暇をとっており、私はやることがなかった。
 よくもこんな場所に人を捨て置いていられると、不満に思っていたが、今思い返してみれば、あの建物は多少の興味は持ってもいい程度には不思議な造りをしていた。まず、南向きにはバルコニーがなかった。北側には避難用の滑り台が無数にあって、暗い裏庭へと繋がっていた。エレベーターはスキップ・ストップ。四階と一階を繋ぐだけで、二階と三階は止まらないのである。降りるための扉がそもそもない。そしてその四階には一部の人間しか入れない規則があり、門衛のいる専用改札口の先には地下室も存在すると思われた。男たちの後頭部はエレベーターの乗り口で消えるか、間もなく地中へと沈んでいったからである。
 門の入り口から捉えた建物の外観は小さな噴水や、煉瓦に囲まれた芝桜の小山などもあり、一見したところ、ちょっとしたホテルのようでもあるが、居住空間としては三等。構造だけは異様に手堅いというアンバランスな造りだった。あれは間違いなく核シェルターを想定していた。予算から弾き出しただけの、わざと失敗したようなモダニズム建築と、ミサイル攻撃を想定した耐久性能を兼ね備えた実験住宅である。住居区画自体を防壁として捨て、北側の暗い庭に退却する。そこから走って二十ヤードの先には、平方根の字を描いたような勾配がついていて、あとはガーデニングとは思えぬ荊の茂み。その先はどうなっているのか見えなかった。

 よろい戸のついた小窓から外を覗くと、遠くに暗い海が見えた。眼下には芝生から伸びた棕櫚が、裂けた緑の葉を扇のようにして、周囲の景観を細かく刻んでいた。  じっとしているにも暑苦しく、何よりも虚しかった。
 氷をもらおうと思い立って、寮の廊下の隅にある無人の売店までゆく。
 透明のガラス柱の付いた鍵を無意識のうちに叩きやすいように握り直しながら。
 部屋を出た直後から、何故だか不審に思って警戒していたのではあるが、やはりと言うべきか、見覚えのある曲者が唐突に腕を捕んでくるという事態に出くわした。曰く「ちょっとドライブに付き合え」
 ガラス柱を十手にして逆手に捻ってやると、曲者はうめきながら「オレが好き好んでジャップビッチを誘っているとでも思っているのか」などと仰るので、もう一捻りしておく。
 灯台局の人員を増やさなければならず、その話がしたいとのことをブラウン少佐は喚いていた。だったら普通にそう言えばいいのに。手を離せ馬鹿とか、このデカブツとか、色々と見当違いな暴言を続けるので、捕り物に力が入る。
 もう一捻りで悪い手がもげるところだったが、背後からSPのアーサーに肩を叩かれてしまい、そこまでとなった。
 カリスマが目を覚ましてからすぐにブラウン少佐は朝鮮の景武台に戻ると告げて一度はケープ・カナベラル研究所を去ったが、私たちの滞在期間が終りに近付いた頃、研究所の外れに用意されたこの棟の中に彼は突然現れた。廊下の柱の影で息を潜めていたが、脇にあるグリーンの灯火で影が伸びているのが間抜けだった。恐らくはカリスマを巡って部内を欺く必要あってのことなのであろう。それと彼は生来の気性荒く大味な性格にもかかわらず、下手の横好きというかスパイ的なノリや策謀的な匂いを好むところがあった。ようするに好みが幼稚で安っぽいのである。
 更には車が大好きで、座席に乗り込むと喧しかった。今回の車は自家用のようで「オレのドライビングテクニックを見せてやる」などとハンドルに手をかけ息をまく。普段は運転を兼ねているSPのアーサーが気を利かせて背後に回った。私も後部座席に乗ろうとすると、「なんで後へ行くんだ!」と怒り出してしまう。
 彼は本当に私とドライブがしたかったらしい。
「先に言っておくけど、車の話はしないで」と私は一つ釘を刺しておく。
「なにぃ」
「灯台局の話があるからと言ったでしょ。それ以外なら帰るわ」
 そう言って、腕を組んで前方を凝視したまま返事を待っていると、彼はこんなことを言い出す。
「家まで送ってやろうか?」
 意味がわからず、私はうっかりポーズを解いてしまう。彼は酔っ払っているのかと思った。私を連れ出したのはブラウン少佐自身ではないか。これには流石のアーサーも苦笑していた。私は男がする車自慢が世界で一番滑稽だと思う。アーサーは、タカアシグモのような長身の若い男で、余計な事は一切口にしない男である。アラスカはアンカレッジの出である。日本語はたどたどしかったが、喋るとなれば出雲先生に引けを取らないほどの丁寧語で喋る。まだ若かったが、ブラウン少佐より余程紳士であった。
 海に向かって走ると、椰子の木の並木が左右交互に目の端を過ぎ去ってゆく。眼下には小粒ながら素晴らしい夜景が広がり、海面にはその姿が細切れになってゆらゆらと映りこんでいた。自然と街並みの調和という点においては完璧であり、昼であれば一年中広い海と高い空が見渡せた。激しい雨が降る点や、大きな軍事拠点であるところは沖縄に近いが、戦禍に塗れていない分華やいでいる。バタ臭さは夢と希望だった。フロリダの夜は蒸し暑く、戦争なんて一度もなかったかのような輝きを放っていた。
 海景を眺めていると、否応なく日御碕の海岸のことを思い出す。朝鮮戦争が始まると日本は景気に沸いていた。出雲日御碕の海岸も、何十年か先にはこういう世界になるのかしらと思うと、それはそれで寂しい気がした。自然への橋頭堡としての人工物は、磨耗に耐えるべくどれもこれも無愛想で、冗長な姿をしていない。灯台建築というのは特殊なものだ。強いて波風の強い所を選ばねばならないため、時代の潮流よりも、立地の現実と向き合った姿となり、それは灯台になるべくして灯台となる。
 私は無意識のうちに海岸に灯台を探していた。
「アメリカに灯台局はないの?」
 ブラウン少佐は片手でハンドルを捌き、もう一方の手でポケットのサングラスを探しながら答える。
「ケープ・カナベラルの基地内にそれに該当するものがある。お前はそんなことも知らんで働いていたのか?」
 知るはずもない。私たちは情報をほとんど与えられていなかった。
 ブラウン少佐が、やたらと車を飛ばすものだから、ドライブとか言ったのに、十分もしないうちに海岸までたどり着いてしまった。車から降りて、赤や橙で眩い光に包まれた夜景の中に降り立つと、見覚えのある人影が走り寄って来る。
 室戸岬――漂白されて青白く光るアッパッパ。もとい、ワンピースに麦藁。この場に似つかわしくない草履で走り来る姿は快活であった。

 何故ここにいるのかの説明を避けるかのように「百年ぶり!」などと言って室戸ははにかむ。暗がりの中で白磁のような歯が浮いて見えた。久しぶりに再会した室戸は真っ黒に日焼していた。室戸はもともと鏡餅のように白っぽい奴なので、日焼して数週間は全身バリバリに皹がいったとの話である。
「あなた、朝鮮へ行っていたのでは?」 
「帰ってきた」
 それは見れば解る。室戸はブラウン少佐の顔色を窺いつつ、話を誤魔化そうとしていた。小さな紙袋から取り出したお土産はマトリョーシカ。私は室戸の日焼した腕とマトリョーシカを見比べて首を傾ける。どうやら今回出張した先は朝鮮半島ばかりではなかった。彼女は短期間に世界中幾つもの戦地を回ってきており、私の知らざるところで、医師としての経験を更に積んでいたのだろう。彼女が私とは全く異なる命運の下に存在することは初見から薄々勘付いていたが、彼女の実態を私はまだ知らなかった。
 室戸は心配そうに声をひそめて、訊ねてくる。
「カリスマは今どんな状況なの?」
 当然ながら、カリスマに関する話は町中で立ち話出来るようなものではなかった。SPのアーサーは周囲を見回して、ブラウン少佐も若干眉を顰める。カリスマというのは元々符丁扱いであるが、この頃にはそれを頻繁に用いる事で、灯台名同様に符丁の意味を失ってきていた。
 ブラウン少佐はヤニを吐き捨てつつ、「その話をこれからする」と言う。
 室戸は揃えた指を口元に持ってゆき、丸い瞳を上目遣いにして黙り込んでいた。
 私は室戸に訊ねる。
「一人で来たの?」
 室戸は、それがどうしたのかといった表情で、けろっとている。
「一人って言っても、そこの船から来たのよ?」
 室戸はそう言って、港に停泊中の米軍の貨物船を指差す。船内で待機している予定だったが、あんまり退屈だったので、町をぶらついていたとのこと。
 この後ホテルつきのレストランで夕食をとった後に会議という予定だったが、思わぬことが起きた。ホテルマンが駆けて来て、室戸の入店を拒否したのである。ブラウン少佐はホテルマンの肩口をつかんで、軍属であると主張していたが、当の室戸が宥めに入った。
 ちょっと格調の高い場所は丁寧語で難癖をつけつつ客を値踏みするのは万国共通なのだろうが、まさか室戸をはじきにする者があろうとは思わなかった。
 室戸はすでにこういうことには慣れっこのようで、あっさりと「船室に行こう」と提案して、出て行ってしまう。当時のアメリカでは町のいたるところに、道路標識と同じような様子で、ホワイト用とカラード用と立て札があった。ローザ・パークスの逮捕から、モントゴメリー・バス・ボイコットがあったのはそれからのことで、この時まだ、公民権運動は本格化していない。

 貨物船の艦長に事情を説明しに行くと、二つ返事で乗船許可が下り、赤ワインが一本プレゼントでついた。上手に海外を歩き回ってきたのだろう。ブラウン少佐は酒保で胃に入るものなら何もかも買い漁り、倉庫を改造した一間の食堂に入ると、上席を取った。そして、コルク栓に歯を立てながら、「重大発表をしていなかった」と言って、己の昇進が決まった事を告げた。私としては、この男がますます増長することを想像してぞっとしたぐらいであったが、室戸は「わぁ、おめでとうございます」と屈託なく微笑んで、手馴れた様子でお酌を始める。室戸は、バカにお酌が出来るという貴重な才能の持ち主だ。

 私はブラウン少佐が何を考えているのか解った。灯台局の人員増を検討しなければならないのは確かではあったが、そんなことよりも彼は昇進しても祝ってくれる部下や同僚が圧倒的に不足していることに気を揉んでいたのだ。灯台局は小さい部署であったし、本部は日本にある。
 ブラウン少佐は「もう少しこっちの兵力を増やさないと、ウェンブラーの野郎にカリスマをいいようにされてしまう」と眉根を寄せてもっともぶってみせる。
 兵力というのは私たちのことらしい。
 出雲の灯台局ではこの時、経ヶ岬と灯台を整備しているSPで回しており、BCOFのキットマン大尉が時折監督に来るような状況であった。経ヶ岬一人でいる時もあり、人員が全く足りていないのは誰が見ても明らかであった。
 G2はカリスマプロジェクトは難航し失敗するだろうという読みで動いており、G2を擁するGHQそのものの日本統治も終了に近付いていた。灯台局も日本政府に引き継がれる算段を始めていた時期でもあった。それにもかかわらず、ブラウン少佐が灯台局の強化を図ることが出来たのは、カリスマが目を覚ましたということに尽きる。
 北海道も中朝も戦争を続けており、一軍人の出世ということを考えれば、それらの前線で従軍することが常道であるが、彼はあえてカリスマにかけた。アメリカはミサイルの開発を着々と進め、原子力潜水艦の竣工も秒読み段階である。カリスマ計画はそれらの新技術と関連があり、海軍大学校を出ていないブラウン少佐をして提督にまで上り詰める夢を抱かせるには十分なものであった。
 カリスマシステムが実用化された場合、それは衛星よりも先に原潜に搭載されるとの見解を述べる者がちらほらと現れている。
 その当初は原潜にせよカリスマにせよ実現性は低いというのが、両計画を知りうる頑固な軍人たちの見方で、ブラウン少佐も、「そんな深海魚みたいなものを作ってどうする」と半信半疑であった。カリスマ計画を真剣に推し進めていたウェンブラー教授や、原潜の可能性を真っ先に理解して開発を始めたリッコーヴァー大佐は異端児であった。しかし、それらの新技術が予想外に早く成功に漕ぎ着けるに至り、その戦略上の価値というものが真剣に取り沙汰されるようになっていた。
「だって、カリスマは宇宙へ行くのでしょう?」
 この時の私は人工衛星の戦略上の価値は辛うじて理解していたが、何故カリスマが宇宙へ行かねばならないのかということや、要求されている力を明確には理解してはいなかった。少し考えれば、それが決して人命を重んじるが故の研究ではないことぐらい想像がついたはずなのに。
 原潜というのは燃料補給なしで長期間潜水出来ることに価値がある。海中に潜ってしまえば、どこにいるか判らない。しかもそれが、核ミサイルを持っているとなれば、これはかつての戦艦並みの切り札に出来る。だが、その能力を最大限引き出すためには、いつか生身の人間が邪魔となる日が来る。乗組員が生身の人間である以上、最低でも衣食住が要求され、精神面を含めた衛生も要求されるからである。その問題が解消された時、戦争のあり方というものは根本的に変ることが予想された。いずれは人間なしでも戦争が出来るようになる。薄ら寒いものを感じずにはいられないが、人工衛星に脳を搭載せんとするのもそれと同じ思考行程の上に乗っているものであった。
 当時の私はこれからの灯台局やカリスマのことで、潜水艦が絡んでくるとは思ってもいなかったので、単にそんなことに驚いていた。
「モックアップやハムスタアはどうするのよ?」
 私がそう訊ねるとブラウン少佐はかく言う。
「用が出来るまでバカンスでもさせておけばいいだろう。檻が好きなら、檻だって用意してやるんだ」
 ブラウン少佐は酔いが回りつつも、人を食ったような笑いを浮かべる。前の灯台局長で、今は無人島に左遷されている沖ノ島のことを皮肉っている様子だった。
「沖ノ島は元気にしているの?」
「生きてる」
 ブラウン少佐の挑発じみたぞんざいな返事に腹が立って、私は食って掛かってしまう。
「どういう扱いをしているのよッ?」
「あの女は、常識というものを知らん」
「それは米軍ではなくて? GHQ解体後は当然釈放されるんでしょうね?」
「行い次第だ。あいつはBC級戦犯とは言わないまでも、D級戦犯ぐらいのことはやっていた女だからな」
 それを言うならば、大戦に参加した全ての人間が戦犯である。全ての市民が自覚を持つべきであり、アメリカ人も例外ではない――。私はそんなことをブラウン少佐に向かって言った。
 ブラウン少佐は椅子の上で足を組んでふんぞり返り、鷹揚な態度を何とかして崩すまいとしていたが、その目付きは広島で見せたときと同じ表情になっていた。このような憂いとは無縁に見えるバカな男の中に、拭い去れない憎悪と恐怖の色が覗く。
 彼は「パール・ハーバーでは」と一回そこで切って、空のグラスを飲み干し、こう続けた。
「お前たちはアンフェアだった。宣戦布告なしに戦争をしたのはそればかりではない。支那事変を思い出してみろ。お前達は宣戦布告なしに戦争以上の殺戮をやってのけた。あんなものは、ならず者同士の殺し合いでしかない。あのようになっているというのに日本赤十字は戦争でない事を言い訳に傷付いた捕虜を見殺しにしていた。日本軍は天皇をアジアの他の国々に押し付けて、従わなければ不敬とぬかして、捕えて殺す。騙まし討ちや、ゆすりたかり、麻薬の密売に虚偽報道。そんなものを並べて大義を語るような奴らは戦犯と呼ばれてしかるべきだろう」
 私が何を言い返したかははっきりとは覚えていない。
 ただ、瞬く間にスラスラと誰かの言葉が出た。きっと、世界を植民地下に置いていた欧米側の主張として、侵略という言葉は、使えないのではないかと言ったことだろう。パール・ハーバー。それはかつて、ハワイ王国であり、米国海兵隊一六四人と市民の手で陥落させられた。言い争いがすぐに激しくなり、話が縺れこんでくると、戦線は中国と朝鮮半島に飛火し、台湾海峡とフィリピン沖、インド洋へと瞬く間に広がる。世界大戦だ。
 私はたぶん目の前のアメリカ人の男に勝った。
 正確な年号を諳んじて、いつ何処で誰がと聞き続ければ、大概は、意見が正しい方ではなく知識が正確な方が勝つ。ならば私が勝つのは当然だ。学校秀才の面目飛躍である。
 一八九五年、ハワイ最後の女王であるリリウオカラニは、人質となった国民の命と引き換えに、アメリカ人入植者たちの前に屈したのだ。あます所なく啓蒙された地表は、今、勝ち誇った凶徴に輝いている。このような勝利があるか。
 ところが、彼は、そこまでになっておいて「多くの犠牲を払ったが、アメリカの勝利によって、世界は救われた」と、とんでもない要約をした。

 私は一瞬面食らった。兄との合作論文のことと、どこかの時点で結びついて、この男の死んだ後の世界で、独り思い出されたのである。

 私は我に帰る。

 以後、第三次世界大戦でもおっぱじめるような勢いと、凄まじい怒声で私とブラウン少佐が言い争って、外にも聞こえるほどになってくると、室戸は携帯式のレコードに盤を載せて、つまみを一気に捻って大音響にして、不毛な戦いを無効化させた。音を小さくしようとする手が手間取ってみせる。
 「買っちゃった」
 誰も返事をしないでいると、アーサーが仕方なさそうに目を瞬かせながら、何ごとか応対していた。
 盤の方はほとんど船長から借りてるらしく、船が大きく揺れると傷をつけてしまうので、波の穏やかな晴れた日にしか聞けないのだと言う。
「これ以上音が大きくなると、苦情が来ちゃうんだけど。ああ。こっち向かってる……」  室戸は、どうせ怒られるのならばと、縄跳びを始める。
 この後ブラウン少佐は泥酔するまで飲んで大変だった。酔っ払った勢いで「ドライブに連れて行ってやる!」とまたいきり立っていた。ドライブに行くと、どこか素晴らしい場所にでも行けるというのか。
 結局は、トイレで寝込んでいた彼をアーサーが車の後部座席に積んで、彼の宿舎まで運んで行くことになった。


 この晩私は室戸の船室で夜を過ごす。
「米軍の空襲は民間人を狙っていたじゃない。目視でわざわざ子供まで機銃掃射する神経を疑うわ。反吐が出る」
 下校途中の小学生の女の子たちは、みんな、大砲で撃たれたような酷い銃創で、二人は即死であった。あんな攻撃に何の意味があるのかさえ理解出来なかった――。
 私はまだ怒り覚めやらず、そんなことをひとりごちしていた。
 室戸は碁石を白黒ごちゃ混ぜのまま木箱に仕舞うと、肩を回して目頭を揉む。
「私、少しカリスマの話が聞きたい」
 船は静かにゆっくりと波に揺られており、グラスの中に残った水がスタンドの白熱灯に照らされて、微かな網目模様を天井に描き出していた。
 消灯した後、私はカリスマが目を覚ましたことを出雲先生が告げた夜から今日までのことを、室戸に語って聞かせた。
 私にはカリスマや出雲先生について、幾つか根本的な疑問があった。その幾つかは、尋ねる前に過ぎ去ってしまい、思い出せぬままである。
 カリスマは長らく自身が起きているのか、眠っているのかさえ、解らない時間を過ごしていた。瞼という明示的な閾が存在しない。覚醒して何かを考えているという状態と、眠って夢を見ているという状態を、区別するものがない。この状態で目を覚ましたとは、どういうことを言うのだろう。
 五年間一人だった――。カリスマのその感想は、よく寝たという感想と本質的には違わないかもしれない。寝ている間に夢を見なくても、よく寝たという感想を持つ。それと同じである。つまり、それが、真実であっても、覚醒している時の経験には基いてはいないのではないかということである。目を覚ました瞬間に、過去の、無覚醒の期間を参照するのだ。過去の記憶を、主観的な経験を飛び越えて記述してしまうのである。それは社会への適合性を向上させるが、虚偽記憶と何が違うのだろう。そうでなくとも、寝ている状態で夢の中で時刻を指し示すことは、理屈としてはあり得るだろう。明晰夢だ。もしもそれが正解してしまう時、カリスマにおいて、それは眠っていると言えるのだろうか。
 室戸はかく言う。
「眠っているということと、起きているということは、必ずしも別のものではないのでは? 休憩しながら仕事すればいいんでしょう? それは、たぶん両立可能だと思うけれど――。たとえば、自分の意識下になくても、時刻を計っている何かが体のどこかに住みついているとします。そうしたら、時間経過を記憶するというのは、私達の意識には基かない。意識を失ってもそういう体内時計が独立性を持っているのならば、それは意識を失っても回り続けることが出来るし、意識が甦った時には参照することも出来る。
 出雲が言う目覚めというのは、解る気がするよ。何かを思い出すっていう意味で。忘れているものを、突然に思い出すっていうのは、脳の中を勝手に飛び回っている風に偶然巡り合うようなものだよ」
 目を覚ますというのは、思い出すということと同じであると、室戸は強弁してみせる。なれば、眠るというのは忘れるということと同じと言えよう。覚えているか覚えていないかというのは、個々の事象において、眠っているか、覚醒しているかを言うものである。眠りと覚醒という概念を人間の朝夕の状態であると当てはめるのは、単なる社会通念なのだそうだ。
 時計も風もない闇黒の中にいる場合のカリスマというのは、どういう状況だと説明出来るのだろうか。私には理解出来そうにもなかった。
 カリスマが目を覚ましたことを出雲先生が知った時期というのは奇妙で、キットマン大尉が赴任した時にその連絡があったわけではなかった。内々にその話があったのかと、それとなくキットマン大尉に話を振ってみたことがあるが、そんなことはないと言われてしまっている。なのに先生が、夜闇の中で私に告げた時刻は、HINOMISAKIの打電が初めてあった瞬間の時刻とほとんど一致していた。
 室戸はこのときの私の蒙昧な話を、笑う事もなく、頭ごなし否定する事もなく、あっさりとこんな推測をしてみせた。
「……二人は目を覚ます予定時刻を手術前に誓っていたのでは? 二人の間に通信網に類する何かがあったと考えるよりも、二人の間に、二人しか知りえない、事前の約束か、日付や暦に関わる何かが存在していたのじゃないかしら? それがカリスマと出雲が別れることになった後も、二人の中ではその約束が生きていて、同時刻に記憶から甦った。カリスマはそれを契機に目を覚ます――。カリスマに期待出来るのは記憶だけの状況で、その上眠っているのか起きているのかも解らない状況だったのだから、念力を使って出雲と会話をするよりも、何らかの約束に関する記憶が、カリスマに作用したと考えるべきでは?」
「でも、人間が五年間も体内時計を維持出来るものかしら?」
「電信機を使わないで、太平洋を飛び越えて会話するよりは可能性があると思うけれど? たとえば、冬眠した生き物は、春に暖かくなるから目を覚ますばかりではない。長い歴史の中でその周期が身についているから、どんなに寒い春にも目を覚ます。もしも春が来ない厳しい年があったとしても、生きるためには、目を覚まさなければならない。それは、一固体、現在だけの死活よりも優先される大きな問題であって、少なくとも私が生物を作るのなら、そのように作るよ」
 私は言いようのない違和感を覚える。このとき室戸は、仮にの話にしろ生物を作るなどと言ったのである。彼女達と私の根本的な違いの一つはそこだ。しかし彼女達は、時に自覚がないのである。
 室戸はこのとき、更にカリスマの生まれた経緯について、重要な幾つかを私に教えてくれた。
「彼は自ら手術を望んだわ。拒否することも出来たと思うけれど。立場を利用されていたことも事実だけれど、彼の一番の理解者であったのは出雲なのよ。戦時中に戦えないというのが不名誉であったのはアメリカでも同じよ。戦時中に自分だけ戦うことが出来なかったことを、カリスマはずっと負い目に感じていたのだと思う。彼――僕は戦争へ行きたかったって、どうせ死ぬのなら戦争へ行って死にたいって……」
「そんなの本心じゃないでしょ!」
「それが彼の本心でないにせよ決意であったのは嘘じゃないと思う。彼の一族ってみんな軍人なのよ。南北戦争時代からの軍人家系なの。彼が軍人に向いているとは到底思えなかったけれど、彼は軍人にならなければ、周囲の人たちに認めてもらえない立場にあったと思う」





§ 一〇 ヒマワリの花束



 日本に戻ると、伊丹まで経ヶ岬が自家用車――スバルの360に乗って出迎えに来た。何のつもりか米国の海軍医療局から唐突のボーナスが出ており、そろそろ貯金も溜まってきた頃合いで、みんな何か奮発して買っている様子だった。
 念願のマイカーを手に入れた経ヶ岬は顔をほころばせて訊ねてくる。とても幸せそうだった。
「ブラウン少佐はどんな車を買ったの?」
「知らないわよ。オレのフォードに乗せてやるとか偉そうにいうものだから、どんなのが来るのかとおもったら、伸びたカエルみたいなヤツが来たわ」
「フォード買ったんだ!」
「しかも屋根がないの。本当はあるとか言ってたけれど、実際にはないの。雨でやられてびしょびしょよ?」
「そりゃ災難だったねえ」
「ずぶ濡れになりながら、信号で車を止めていると、帰宅途中の幼稚園児が、プンカー、プンカー言って私たちを指さしていたわ。やめとけばいいのに、おい、お前! オー! はどこいった? って凄むものだから、母親の方は顔色変えて、知りませんよそんなこと! 自分で置いてこられたのではなくて? って。これ以上真っ当なものはないほどの憎まれ口を叩かれたわよ。後ろの車にはクラクションを鳴らされるし――」
 それだけじゃない。
「だいたい、あの人、何でもでかけりゃいいと思ってて、何でも速ければいいと思っているのよ。突然無意味にキキーッてやって、オレのドライビングテクニックはどうだ? ん? とか言って、こっち見たり。これはどこがどうこうの特別モデルだから、他の奴らより凄い。みたいなことばっか言って、もう……車一つで気が大きくなるなんて――」
 経ヶ岬は「うぅ」と変な悲鳴を上げて苦々しく首を横に振る。
「私、他人事じゃない。車買えば子供と勘違いされないかと思ったんだけど、三度もMPに止められてたり……」
 そのまま、日御碕まで戻る予定だとばかり思っていたが、経ヶ岬は「姫埼を迎えに行かなきゃ」と言う。姫埼というのは新しく入局する灯台であった。彼女は予定より早く来ることになって、私たちはこのまま元町まで、彼女を拾いに行くことになった。
 あまり口にすべきことでもないので黙っておいたが、姫埼が来ることが決定したことによって、沖ノ島を灯台局に戻す線はなくなった。もう、沖ノ島は退官させてあげればいいのにと思うが、機密保持上そうもいかないらしい。その上、無人島に置かれながら、皮肉にも給与は出ているらしい。無人島で何を買えというのだ。彼女には同情せざるをえない。
 経ヶ岬は言う。
「だけど、姫埼が来るとは思わなかったね」
 次は美保関か犬吠埼だろうと皆で噂していた。今のところこれまで沖ノ島、出雲日御碕、室戸岬、経ヶ岬、角島と来ており、灯台局の人員は一等灯台(某等というのは灯光に用いられるフレネルレンズの大きさのことである)の中から名前が決まるという慣例があった。さもなくば、日本の洋式灯台の嚆矢である観音崎が来るであろうと。このたび来ることとなった姫埼というのは佐渡島にある鉄造の古灯台のことであった。

 去ること二十日前。

 アメリカを発つ前日に、あの核戦争を想定した寮に「灯台」だけが集まった時間があった。室戸が小声で零した所によると、イギリス海軍に既にエディストーン、米海軍研究所にケープ・ハテラスの名を持った人物があるとのことだった。エディストーンも、ハテラスも、各国を代表するような灯台である。
 私は室戸に訊ねる。
「灯台の名を持った女は一体何人いるの?」
「規模はともかく、灯台局は日本が発祥だから、灯台符丁を持った人員が一番多いのは日本なんじゃないのかな」
「ねえ、その灯台符丁って一体誰が命名しているのよ?」
「ブラウン少佐が考えて、それよりも上のお偉いさんが決定しているみたい」
「遊んでんじゃないわよ。私、角島っていやだわ」
「悪くないよ。素敵な名前だと思う」
 素敵? まったくよく言う。室戸は平気でそういう言葉を使った。しらふでも使うが、時折わざと使う。彼女は、そういう胡散臭い言葉が大好きだ。
「角島って、私だけ何だかトゲトゲしいじゃないのよ」
「トゲトゲ? カクカクしているんだと思ってた」
 室戸の声は、コンクリート壁の部屋の中で、間抜に響き、それっきりになる。部屋にはもちろん出雲先生もいた。
 出雲先生は上の空で私たちのやり取りなど聞いてはいないようであった。小さな気泡をプツプツとあげているコークには一口もつけづに、賽の目のような氷塊を揺らしていた。カリスマのことに気をとられてろくに食事もとっていないようで心配だった。
 本当は出雲先生の気を悪くするような話題は極力避けたかったのだが、不意に、カリスマは何故、カリスマという名前なのか? という疑問が擡げ、私は沈黙を選ばずにそのことを訊ねてしまう。
「プロジェクト・カリスマからです。彼が来るよりも先に研究計画があったのです」
「彼の本当の名前は?」
 我ながら、取り調べで詮索するような己の口ぶりに後悔した。これまでにも先生とカリスマのことを知ろうとして、ついつい色々と訊いてしまうことはあったが、こういうのは思い返すだけで憂鬱になる。しかも、先生は嫌でも答えてくれるのである。先生は逃げ口上というものを持たない人で、自分の心の痛みに配慮しない悪い癖があった。言いたくないことは言わなくてもいいはずなのに、彼女は問われるとまともに受答えしてしまう。潔白であることに関してあくまでも拘る。そういう矜持は持っていたに違いないが、ふとしたところで見せるそういう姿勢は、矜持の有無にかかわらず、若い頃のショックから、もはや逃げられなくなっていることを感じさせた。
 先生は小さく息を吸い込んで、若干微笑むようにして言う。
「以前の彼は既に死んでいることになっており、別人という扱いです。彼の家に代々受け継がれていた由緒ある名前で、本人はその名を恨んでいました。南北戦争の時の英雄の名で、その名をつけられた子供はその名を汚さぬよう、立派な人生を送らねばならないのだと。彼が生まれる前からその名はあったのです」
 それで、その名を拒んだ結果がカリスマ――。
「しかしです。たとえどんな名であったとしても、彼に望まれている姿は同じなのですよ。自らその役割を選んだのならば、もう、あとは自身と戦うのみでは?」
 そう言って、この人はカリスマと運命を共にする決意をしたのだろう。彼女の生い立ちが、カリスマを放っておくことなどさせはしなかった。


「角島、窓閉めてぇ」
 先生とカリスマを置いて日本に帰ってしまうのは気が引けたが、仕事があるのでそうも言っていられない。翌日、私は先生と研究所の門前で別れ、室戸とはマイアミの港で別れた。
「角島、窓閉めて!」
 私が出雲先生のことを思って、今の声を聞き逃していると、経ヶが、私の膝の上にがしと手をかけ、窓ハンドルにもう一方の手を伸ばす。
 目の前の踏み切りで、駅に入ってくる汽車と、出てゆく汽車が対向して警笛を鳴らし、辺り一帯に煙が渦巻いていた。経ヶは間違った方向に大急ぎでハンドルを回し、一瞬疑念を浮かべると、慌てて逆回しに直して窓を閉める。そういえば、この頃の道路は都会でも、余程の一等地でもなければ舗装されていなかった。踏み切りの遮断機も踏切番による手動によって行われていた。踏み切りの向こうでは、どっかの若い代議士が、雇用改善とか、賃金値上げといったことを訴えているのが見えた。
 踏み切りの鐘が鳴り止むと、私たちを乗せたスバル360は、がたがたと四本の線路を踏み越えて、煙の中を抜ける。経ヶは「窓開けてもいいよ」と言う。
 私は面倒だったので窓を開けなかった。そのかわりに、灯台のことについて経ヶに訊ねる。
「今度の姫埼って人――、どうやって人選されたか知っている? まだあのナゾナゾ放送をやっているの?」
「解らないけど、イタリアから来たって」
「イタリア?」
「あれは不良邦人だってキットマン大尉が言ってた」
 不良邦人というのは戦時中に海外にあって、政府の監視下になかった邦人のことである。姫埼の父方の祖父は潜水艦乗りで、父母はともに日本人の通訳。母方の曾祖がイタリア系なのだという――。立場は色々だが、海外邦人など、開拓移民でもなければ高等遊民を気取っているような金持ちが多い手合いである。私は自分のことを棚に上げ、鼻持ちならない高慢ちきが来るのではないかと危惧した。
「目印にヒマワリ持って待ってますって。でも、ヒマワリなんか持って待ってたら、目立ち過ぎじゃないかなぁ」
 経ヶの身振りはメートル超えのヒマワリを捧げ銃にする様子だった。だが、それはきっと花束のことだろう。時はまだ昭和の中頃である。ヒマワリを花束にするのは大輪菊を花束にするぐらいには常識外であったが、イタリア帰りならばやりかねないと思った。
「あの人でしょう?」
 通りを左折して、駅沿いの道に入るとその姿はあった。

 手に花束を持ってはいなかったが、一目で判った。立ち姿からして既に違う。まるでヴォーグ誌のモデルのようだった。片足を少し引いて立つタンチョウのような姿が目立ってしょうがない。姫埼と思しき女性はこっちに気付くと、サンダルで、カツカツと竹馬のような甲高い音を奏でながら、迫ってくる。
 その態度は自信に満ち溢れており、彼女は余裕の表情で微笑む。
「はじめまして」と流暢な日本語が出てくるものの、ハグやキスを求められるのには、本当に面食らう。経ヶに到っては突然の抱擁に動揺して、うぎゃうと変な悲鳴を上げて、段差もないのに転びそうになっていた。
 遅れて、ヒマワリの花束を手にしたキットマン大尉がやって来て、出会い頭冗談を言う。
「ほらね、日本には子供向けの車があるんだぜ?」
 姫埼は微笑んで、私たちに愚痴るように囁く。
「この人って、冗談ばかり言うのね。さっきからそんなことばっかり」
 キットマン大尉の視線は姫埼の方へ向かい、その反応を確認して気を良くし、更に何か冗談を言おうとしていたが、経ヶに先を越されて、「男は――トランクにしか入らないんだぜ?」と、キットマン大尉お得意のジェスチャを真似されていた。
 すばる360は本当に小さな車だがそれでも四人乗りである。残念ながらトランクはない。後部座席ではキットマン大尉が姫埼に肩を寄せて何かヒソヒソと話し、姫埼はてれてれと笑う。運転席で経ヶ岬がどんな顔をしているのかちらっと見てみると、何だか不満そうな表情であり、私は経ヶ岬に強く共感し、キットと姫埼の二人だけの世界に割って入る。
「あなた、ご専門は?」
「特にありませんわ」
 即答されてしまう。特にない人が灯台局に何の用か。
「特にないってことはないでしょう? ただのタイピストでは務まらない仕事が多いわよ?」
「姫埼は世界中の言葉が喋れるんだよ。灯台局念願の専属翻訳者だ」
 キットマン大尉が我がことのように誇らしげにそう言うと、姫埼は少し真顔になって言う。
「私は専属で翻訳をやるとは聞いていませんよ?」
「最初は翻訳の仕事を頼むよ。他の仕事はそれからだ」
 何となくはぐらかされているようだったが、しぶとく詮索を続けた結果、姫埼の専門は一応彫刻であると言う。彫刻? 意味不明だった。日本の杉材が好きであると告白されても、専門外過ぎて、何とも答えようがなかった。
「……植物学者さんなのかしらね?」
「生け花は好きです!」
 そんなことは訊いていないのだが、終始そんな感じであった。
 姫埼は運転席の方へ身を乗り出して経ヶの耳元で囁く。
「経ヶさんは? ヒマワリが好きだと」
 経ヶはどぎまぎしながら姫埼に応じる。
「えと、ヒマワリが好きなのは、私じゃなくて、ビッグハムスタアの方。だけど、あの! 私も嫌いではないけれど?」
「ビッグハムスタアにはやく会いたいわぁ」
 肩透かしもいいところで、ともすれば彼女が何をしに来たのかさっぱりだった。


 灯台局に戻ると、ハムスタア牧場が拡大されていて、ハムスタアの方も巨大化していた。丸々とした背は一見豚を髣髴とさせるが、振り向くとげっ歯類特有のツンと尖った顔に、黒い宝石のようなまんまるい双眸が輝いている。ハムスタアは経ヶを見つけると、しゅたたと駆けて来て餌をねだる。
 姫埼は屈みこんで、「こんにちわ、ビッグハムスタア」と言う。姫埼がヒマワリの花束をハム公に近づけると、奴は種もついていないヒマワリの花を、むしゃむしゃと食べ尽くしてしまい、噛み砕かれて無残な姿になったヒマワリの茎だけが残った。そして、このあと、しばらくの間このビッグハムスタアと戯れることになる。
「次は灯台に登ってみるぅ?」
 経ヶは慣れてくると、まるで観光案内でもするかのように、嬉々として姫埼の先に回って、灯台局のあれこれを案内した。姫埼の方も物見遊山のような顔できゃあきゃあ言っており、そのうちには、経ヶ岬が「出雲大社へおみくじを引きに行く?」などと言い出し、流石にそこいらで、キットマン大尉が「それはまた今度だよ」と苦笑いして二人を嗜めた。

 私たちはこれから、新参の姫埼を交えて、研究会議を始めることになっていた。  カリスマのことや、そのカリスマが目下、原子力潜水艦への搭乗を計画されていることなどを確認し合ったところで、経ヶ岬は「極秘・試作一号」とやらを倉庫から持ってきて、テーブルの上にゴトリと置く。
 それは、木製の台座の上に貼り付けられた物体であり、私には、巨大な昆虫標本か、あるいは磔刑されたキリストであるかのように思えた。

 経ヶは、私たちがアメリカにいる間に逸早く灯台局の倉庫にあった故障したまま放置されていた振り子時計と予備の電鍵を改造し、モールス信号で「T」と打電すると、現在時刻が返電される簡単な図面を作成し、手紙を寄越していた。振り子時計の鐘叩きを鳴らないように保留にしておき、Tの電報を受信した時にはその時刻の鐘を打ち、その出力をモールス符号に変換して送り返すというものである。
 テレタイプ接続が既に実現している以上、技術的には特段のものではなかったが、カリスマの意思によって制御される外部装置の有用性は確実であり、アイディア勝ちといえる代物だった。
 研究には競争がつきものであるので、先に作った方の発言力が高まる。それを知っての技術者としての本能的な素早さであった。国際報時局の打つ協定世界時とは別に、米軍の独立系報時局の時刻も取得出来るようになっている。カリスマもこの時計を気に入って、もっとはやく欲しかったと言わしめた。この時計は一月の後には分秒まで知らせることが出来るものとなり、更に一月の後には、ウェンブラー大佐のチームの手によって西暦と月日、曜日を知らせることが出来るようになった。
 カリスマ時計の小型化の研究を割り振られ、灯台局はカリスマとの関連性を強め、その後もカリスマの研究の一端を任されてゆくことになる。
 姫埼が訊ねる。
「経ちゃんは、お薬が専門だと聞いていたのだけれど?」
 それは肩書きに過ぎない。経ヶの専門は想像力だ。得意なのは理論化学であって、薬ではない。経ヶ岬は碌な実験もなしに未来から解答を奪ってくる特殊な才能があった。
「だって、うちのお父さん時計職人だったんだもん」
「へえ、じゃあこのくらいは朝飯前なのかな?」
「えっへへ、まあねえ」
 そう言って、経ヶは鼻にかけてみせた。
 与えられる仕事の方が節操なく多岐に渡っており、その上人員が少ないために、自分の職分には拘ってはおられず、何だって朝飯前を要求されるというのが正確なところである。
 私は、綿のように捉えどころのない姫埼に向かって念のため釘を刺しておく。
「ここでは、炊事から洗濯、掃除まで分担されるから、その点は覚悟しておいてほしいわ」
「ハムスタアの世話もあるよ!」
「楽しそう!」
 姫埼は手を合わせて言う。
 楽しいかどうかはともかく、とりあえずこれから先は退屈してはいられない状況になるのは確かであった。






§ 一一 ゲッツ氏義橋


 この頃から、ゲッツ氏義橋、あるいは、ゲッツ・ブリッジという言葉がカリスマに関連する研究分野で頻繁に使われるようになった。これは、中世のドイツに実在した義手の騎士、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンに由来する名で、義肢装具士や傷痍軍人の間では今でも名を知られる存在である。
 カリスマと外界をコミュニケーションさせるための機材を総称してモダリティ(五感)と言ったが、ゲッツ・ブリッジはカリスマとモダリティの間を埋めるもので、その技術全般は脳と五感の橋渡し的な役割を果たしていた。
 ゲッツ・ブリッジは、脳と機械類を神経接続させて、それらを義肢として、生身の人間と同じように扱えるものではなく、その本質はあくまでも、脳が語彙を介して、外部機器を駆動させるという極めて原始的な方式をとる。即ち、ゲッツ・ブリッジの背後には、カリスマとゲッツブリッジとの間を繋ぐ、より本質的な橋があるはずなのだが、その仕様は最後まで公開されなかった。そのため、日本や中国ではこれは次橋とも訳されていた。
 ゲッツ・ブリッジは、便利な「道具」というよりも、どちらかと言えば、カリスマの左右式モールス信号で外部装置を操るための「取り決め」という面が大きく、言うなればそれはモールス電鍵で、自分の体を動かすのである。飛来するミサイルを避けるという一つの機動にしても、それを、自分の持っている装備から適切なものを選んで、「L1スラスタ出力全開」等の命令を打電せねばならないことになる。このような、まどろっこしい手続きを踏んで、いちいちやっていれば、戦場においては簡単に敵に撃ち落されてしまうが、もしもこれが、「L1F」などと短縮出来れば、状況は改善することになる。ただし更に、こういう取り決めが、あまりにも意味性を殺ぎ落とした符合的ものになり、尚且つ扱う数が増大すれば、今度はカリスマ側がそれを習得するまでに時間がかかって修練度に問題が出てくることが予想された。咄嗟に思い出せなかった場合などには、これは戦場においては命取りとなる。また、習得を要するという性質上、基本構成が疎漏な訓練を施しておいて「やっぱり今までの取り決めはナシ」などとやれば、それまでの苦労が水泡に帰すことになるばかりか、カリスマの士気にも影響してしまうだろう。間違って昔のプログラムを記憶していたりすれば、判断を過って、危険でもある。カリスマを実戦に送り出すには、ゲッツ・ブリッジの練度が高い以上に、基礎となるプログラムが高品質かつ、カリスマに適したものでなければならなかった。
 したがって、高度な電工系の知識にも増して、当時まだ黎明期にあった人間工学的なセンスの良し悪し、カリスマと歩調を合わせる感性が問われた。
 出雲先生は、この計画を始めるにあたり、こう言った。
「カリスマの今現在持っている性格、能力、知識を財産と見なし、最大限効果的なプログラムを模索してゆきます」
 これがカリスマ計画の新たな所信であった。この点においてカリスマの最大の理解者であった出雲先生の役割が大きかったのは言うまでもない。カリスマの装備を開発するということは、オーダーメイドの服を作るようなものでもあり、「軍服に体を合わせろ」などという無茶な言い分がまかり通っていた昔を思えば隔世の感である。
 このようなカリスマの優遇策に関して、室戸はかく言う。大切にされたのは人間ではなく、数の方であると。時代ごとの風潮で、装備と人間のどちらが大切なのかという問題があるのではなく、何よりも軍事は「装備された人間」という有機体がどれだけ用意出来るかという考えで全てを勘定する。単に軍服の方が高価だった時代と、人間の方が高価だった時代があるだけで、人権論とは出発点も、視点も違うので、その点を甘く見ない方がいいと。むしろ、今の優遇された状況に獲得出来る人権を出来る限り明文化しておくべきであると言う。彼女の提案は、カリスマに給与を出す事と、カリスマ用の宿舎を設けることであった。その一見滑稽とも思われる二件は、予算申請において、その意義をいくつか質問されたものの、カリスマの研究費に比べれば数に入らないほどのものであり、割合簡単に許可されることとなる。

 私たちは、次にカリスマ用のレーダーの開発に取り組むように命じられ、当初は、経ヶ岬の予備知識と勘だけを頼りにレーダーの開発をしていた。私は主に部品の調達を担当し、レーダー製造部品に必要なマグネトロンや真空管を買いに東京は秋葉原の電気問屋に出向いたりした。横須賀の旧大日本兵器の倉庫をあたったりもした。中でも当時最新のトランジシタや水晶クォーツを手に入れるのには輸入規制があり非常に難儀した。このハムスタアケージレーダーを発注したのは米国であったにもかかわらず、所轄の問題で米国の運輸省・連邦航空局の許可が下りなかったのである。一定程度レーダーが形になってくると、牧場にハムスタアを放し、中古の心電図を組み合わせたレーダーシステムをすばる360に乗せて走ったり、レーダーを駆動させるためのガソリンが足りなくなると、灯台補給船や自動車用のガソリンを転用したりもした。そうなると当然ながら自動車は動かなくなってしまうので、時には私や経ヶ自身が重いレーダーを抱えて走ったりもした。
 ハムスタアケージレーダーは、ハムスタア自身の発する赤外線を捕捉することで成り立つ。開発総指揮はキットマン大尉、専任助手は経ヶ岬。仕様要求を出した側と交渉するのがキットマン大尉で、経ヶが一人黙黙とビッグハムスタアを相手に研究開発を行うという方針が取られた。赤外線の強弱から距離と方角を割り出すものである。目標の赤外線を頼りにするため、必然狭い範囲内でしか使えない。
 カリスマ用のレーダーシステムは移動式であることが前提であるため、レーダー自身の位置と目標の相対的な位置関係を加減算した距離を測定する必要から双方で走り回るのだが、その姿はまるで追いかけっこをしているかのように映った。実験の内容をあまり理解していないブラウン少佐には「遊んでるんじゃない!」などと本気で怒鳴られたりもした。
 試作レーダーの試験結果が積み重なってきて、レーダーが最低限レーダーとして振舞う事が出来るようになってきていた。

 出雲先生と室戸が戻ってきた日のこと、私たちは一つおかしなことに気付く。最初に気付いたのは経ヶ岬であり、私もそれがおかしいことであるとは認めていたのだが、それでも半日の間は昨日までと同じ実験を続けていた。
 経ヶ岬は言う。
「あれぇ? レーダーって、潜水艦に乗せるのかな?」
「当然でしょう?」
 当然かどうかは解らなかったくせに、私はそう答える。
「でも、電波は水中じゃあ、全然届かないと思うんだけどなあ……」
 なるほど。確かにその通りである。
「……潜水艦って、何か頭に変なツノが生えてるじゃない。たぶんあれでどうにかするのよ!」
「あ、そうか。そうだよねえ?」
 しかし、その日戻って来た室戸は旅行鞄を下ろして肩を揉みつつ、衝撃的なことを口走ったのだった。
「潜水艦で使うのはレーダーじゃなくて、ソナーって言うんだよ」
 だだーんと、磯波の音が激しいばかりの沈黙の脇で、ハム公が残業手当てに貰ったトウキビを芯ごと微塵切りにしている音が響いていた。
 室戸は海風に煽られた髪を掌で撫で付けながら続ける。
「水中では電波の減退が大きくて、使いものにならないの。代わりに音波を使った電探を使うの。それがソナー。音波は水中でも減退が少なくて済むからね」

「え、ええと、どういうことかしら?」
 私は冷や汗混じりに無駄に訊ねる。
 米軍が発注しているはずなのに、どういうことなのか。一瞬、なんだか要を得ない話だなと思って、暫く脳裏を一周して検討してみたが、やっぱり要を得ない。アメリカ側の研究所と意思疎通や連絡がきっちりしていないような気はしていたが、この頃は本当になっていなかったと思う。キットマン大尉は名目上の上司でボンボンな若者だったし、もとより、彼はイギリス軍の士官である。そして、さっさと彼女の待つ故郷に帰りたがっていた。
「え、じゃあ、今まで作っていたこれは何なのよッ?」
 私は半ば責めるような口調になって、室戸の方は申し訳無さそうに、控えめに誤解を指摘していた。
「たぶん、レーダーのように思うのだけれど……?」
 そんなのは知っている。何でそもそもの目的と違うものを作らせていたのかだ。
「あの、でも、潜水艦にもレーダーは必要だと思うし、将来的には、宇宙に上がることになるから、無駄にはならないのでは? だけど――」
 室戸が宥めようとする間もなく、事態に気がついてしまった経ヶは唐突に「うぎゃう!」と撃たれたような悲鳴を上げた。
「最初に言ってよお! 最初に言ってくれれば、こんなこと、もう、私のすばるにアンテナ立てちゃったよお!」
 経ヶは泣く泣く、すばる360の屋根に螺子穴をあけて、不恰好な八木アンテナを立てたりしていた。このレーダーが、そのままの形でカリスマに搭載されるものと考えて、一意専心していた経ヶは、芝生の上に倒れて本当に泣き出してしまった。各所から出されていた要求は、現実を無視して無闇に欲張りなものであり、彼女は私財を投入してまでして、その要求に応えようとしていたのである。ちなみに、私も経ヶを見かねて雀の涙ほどに出資をしてはいたが、昔のような角島様ではないので、どうにもしようがなかった。ただただ、「お金は使うと減るみたい」という当前のことをしみじみと味わっていた。軍用のレーダーを作るには、予算も人員も圧倒的に不足しているというのに、無謀にも経ヶは半ば一人でどうにかしようと考えていたのだった。
 室戸は言う。
「経ちゃん。モノは考えようよ。まずもって必要なのは、レーダーやソナーではないもの。レーダーやソナーはだって既に現存しているのだし。私たちは、工学技術者ではないもの。専門家に一朝一夕で敵うようなレーダーやソナーを開発することは望まれていないのでは? 何を思ってこんな命令を出したんだろう?」
 確かに、実験データを取るために、防衛庁や保安庁などからも注文が来ており、出資も受けていたので、ハムスタアレーダーが直接実戦仕様には及ばない形であったとしても、一概にトンチンカンな実験であったとは言えない。研究開発には予算が必要なので、その予算を集めるために、本筋とは違う仕事もやらねばならない。

 同じ日の夜遅く、久方ぶりに灯台局に戻って来た出雲先生はかく言う。
「このレーダーを使って残りの研究を片付けてしまいましょう。既に世界的に解決している技術的課題を克服するのに時間をかけるのは、本当に何かを習得しようとすれば必要なことです。まして電気工作に疎い私達には良い経験であったはずです」
 まだ幾分目を腫らして緊張した面持ちでいる経ヶ岬に向かって出雲先生は不意に「明日切ってあげる」と囁いて、経ヶ岬の髪に人差し指を当てて、長さを見ていた。
「でも、経ヶ岬。爪ぐらいは自分で切りなさい」
 経ヶは涙を溜めた瞳を細め「はあぃ」と、自ずから甘ったれた返事をしたくせに、新参の姫埼の視線に気付いて照れくさそうにしていた。
 出雲先生に髪を切ってもらうのはいつの間にか経ヶの特権と化していたのである。

 この後私は、焼却炉の脇で煙草を燻らせている室戸のところまで行って、探りを入れた。
 室戸は私が何を探りに来たのか察して、私に顔を向けるよりも早く「姫埼のお爺様というのが潜水艦乗りであったそうよ」と呟く。それは既に知っている。私が疑念を覚えたのは、祖父に潜水艦乗りがいるのなら、流石にレーダーとソナーの違いぐらいは認識していたのではないかという点だった。室戸もそれが引っ掛ったに違いないと思ったのだ。
 キューバ産だという洋モクを一本頂きつつ私は訊ねる。
「まずあの人、何をする人なの? はぐらかしていて教えようとしないのよ」
「翻訳か通訳ということになっていると思うけれど?」
「語学校を出ているの?」
「ううん。学校行ってなかったみたいね」
 仮に世界中の言語を喋ることが出来るとしても、日常では使う事のない単語や理論で埋め尽くされている科学の分野でそのまま通用するものではない。
「……そんなんで、どうやって灯台局に来るのよ? ブラウン少佐がスカウトしてきたんでしょう?」
 そう言うと、室戸に苦笑されてしまう。
「ブラウン少佐が一本釣りをしているわけじゃないもの。ブラウン少佐に気に入られて一本釣りされたのは、角島、あなたぐらいなものなのよ?」
 思いもかけない気味の悪い話が飛び出してきて私は、思いっきり咳き込む。
「突然何よ? 嫌な冗談はやめてよね?」
「あなたは、家が財閥だったし、お兄様も軍属だったから、あの頃の基準から言えば、適格とは言い難い人材だったわ。家族構成面で選考落ちすると思ってたもの」
 私が落第なんてことはありっこない。
 そうじゃなくて、今は姫埼の話である。
「……まさか、スパイが?」
 室戸はそう言って、似合わぬ紫煙をくゆらせて笑う。
「でも私は正直、あれは胡散臭い女だと思ってるわ」
「どこのスパイなの?」
 そんなの解らない。私たちは、ソ連の秘密都市の研究者たちと同様、研究の全貌を知りうる情報はほとんど与えられていなかったのである。
「でも、何か腑に落ちない人よ。気をつけた方がいいわ」
「はっきりしないのに、少佐や先生に報告するのはちょっと問題だと思うけれど?」
「わかっているわよ。だからあんたに訊いてみたんじゃない。レーダーとソナーの違いに私たちが気が付かなかったのはともかく、親族に潜水艦乗りがいるのに、レーダーとソナーの違いを知らないなんてある?」
 自分のこと棚に上げるわけではないが、そんな間抜けな話は考えにくい。私はそのようなことを力説して、室戸の同意を引き出そうとしたが、室戸は、間抜けな話というものは、大真面目で小難しい話の中にこそあるから間抜けなのであると、小学生の頓知みたいな言い草でそれを駁した。
 彼女はかく言う。
「現に、経ヶ岬もあなたも今回の件に関してはうっかりしていた。そうでなくても、そういうのを本気でやっている子なんて、女学時代の友達には一人もいなかったわ。それで普通よ。出雲は以前、マシンガンのことをミサイルガンとか言っていたし」
 出雲先生のイメージを損ねるような物言いはやめてもらいたいとこである。むしろ、姫埼はそういうのを装って言い訳にしている雰囲気があった。
「そういえば、彼女は歌手を目指していたとか訊いたわ」
「何者なのよ。専門は彫刻だって聞いたわよ?」
「彼女の専門は彫刻で、歌手を目指した事があって、生け花が趣味で、伯父様が潜水艦乗りだったのでしょう? 特に何の矛盾もない。出雲だって、国民学校の先生をやっていたことがあるし、あなただって、家に隠れてタイピストをやっていたことがある。経ヶに到っては未だに、脱走のこと思い出して、特高が追ってくる夢を見るって言うじゃない。経歴は案外いろいろ……」
 そりゃそうだけど、それよりも、レーダーとソナーの違いもあやふやなままで、実験をして、誰もそれを指摘しないだなんて――。灯台局は稀代の天才を集めているのだと思っていた私は、少々自尊心を傷つけられた。
 室戸はそんなことはへとも思わないらしく、吸殻を錆びた一斗缶に投げ込み、あははと笑う。
「彼女の作ったなぽりてんはおいしかったね」
「経ヶみたいなこと言わないで! 料理が美味しいこととこれは別問題よ?」
 経ヶは、ちょっと甘くされると、でれでれにほだされてしまう――。
 室戸は灯台の光が低い雲を撫でて回ってゆくのを見上げながら呟くように言う。
「来週にはブラウン少佐が戻ってくるわ。それまでは無茶なことを訊くのはやめましょう? もしも誤解であれば不穏当だわ――。誤解でなくてもね」
 私のこの勘は概ね間違ってはいなかったのだが、ことの問題はなかなか厄介な話で、姫埼というのは、完全にスパイであるという立場ではないものの「利害の一致しない仲間」という事情を抱えた存在だった。背景にあったのは部署間の対立である。
 この対立はGHQ解体後のG2OBと民生局OBの対立をあからさまに引き摺ったもので、G2OBの影響下にある研究者たちが半ば奪い取る形でカリスマを旗印に上げ、民生局OBは「第二のカリスマ」を旗印に上げての対立構図が出来上がりつつあった。
 私たち灯台局は所轄が二転三転した後、一旦は海上自衛隊の一組織として落ちつくが、実質上の米国の監督機関である「国防高等研究計画局・日本支部」という組織が一つかんでおり、その影響下にあった。給与体系も、指揮系統もはっきりと別になっていたと言っていい。そこにはGHQ解体後のG2関連機関の面々が天下っていた。つまり私たちはカリスマ‐G2OBのグループに組み込まれたのである。一方でケープ・カナベラル研究所の方は民生局の面々が天下っており、姫埼というのは、そこからの差し金であった。
 そういった事情を背景に、ブラウン少佐はケープ・カナベラル研究所のトップであるウェンブラー大佐に対抗するために大佐に昇進することになる。中佐昇進直後、またしてもの昇進である。体裁だけは同等になったが、灯台局の人員はどのように数えても三〇人に満たない所帯である。千人規模の研究所であったケープ・カナベラルと対抗しようだなんて、無謀であった。
 そのくせ、裏でこそこそと根回しをして、あまつさえ私を接客に回すため、「ヒレのついたキモノを着て来い」などと言う。「ここは正念場だぞッ 出雲とカリスマがどうなってもいいのか?」など、人攫いみたいなことを言って脅す。
 着物は嫌いではないが、流石にもう振袖という年齢でもなかった。何より彼の党派抗争に長け、全てを自身の出世に利用するような気質が私には気に食わなかった。
 気象研の犬吠埼を獲得しに行くにあたり私は、派手の一手で虫食いの友禅を押し着せられ、ブラウン大佐のお供をさせられたのだが、その時の不愉快極まりない話はまあいいだろう。






§ 一二 暗射試験


 何もしていないのに上手いこと二階級特進の上、新たなメダルを手に入れて戻って来たジョージ・ブラウンは、ますます増長し、肩で風を切るようにして無闇に歩き回り、唐突に私たちに敬礼など求めたりなどした。しかし、牧場の中で丸々と肥えたハムスタアをすばる360を改造して作った特車で追いまわすというヘッポコな光景に、軍事的なロマンスを台無しにされ、彼は不満げに制帽を膝に叩きつける。経ヶはビッグハムスタアにも敬礼させていたし、私も杓文字を持ったまま敬礼しておいた。ここは軍属であっても、軍隊ではないということを押して知るべし。
「これでは民生局の連中に勝てんぞッ!」
 民生局なんてもうなかった。いつまでGHQの気分でいるのかと、私が冷ややかに言ってやると、ブラウン大佐は更に興奮気味に捲くし立てる。
「連中は二つ目のカリスマを用意している。ハムスタアレーダーはチェッカーボードレーダーとトライアルにかかっているんだ。性能はどうなっている?」
 海景は晩秋の色を帯び、海沿いに見える松の防風林の左側に太陽が落ちるようになっていた。
 夕の激しい潮騒のみを聴いてやり過ごそうとしていた私の耳に、かすかに聞き捨てならない言葉が届いたのはその時であった。
 二つ目のカリスマ――。
 私が二つ目のカリスマという存在を知ったのはこの時が初めてで、呆然としていた。私はその目で周囲の様子を窺う。出雲先生と室戸は既に承知のようであった。経ヶが驚いていたのは確かだが、姫埼がどういう表情をしていたのかはよく覚えていない――。
 二人目のカリスマは「ディキシー」という名で呼ばれているという話だった。その前歴は潜水艦長。二度の大戦に従軍して中佐の階級を持つ歴戦の軍人であるとのことだった。その人はどういう状況なのか、私はいらぬ確認をとってしまう。
「その人は今どんな様子なの?」
 ブラウン大佐に聞いたつもりだったが、ブラウン大佐は出雲先生を見やる。そして、出雲先生は夕日に半身を染めた姿で言った。
「彼もまた開頭しています。自らの意思で手術に挑みました」
 潜水艦搭載型の実験原子炉で被爆して体を失ったという。ただし、その人が被爆するまでの経緯には不審な点が多く、嵌められた可能性というのをその後、何度も耳にした。
 出雲先生は踵を少し回して日差しに背を向け、全身を黒塗りの陰に沈めて話を続ける。
「チェッカーボードレーダーというのは、ケープ・カナベラル研究所で開発されているレーダーです。義橋の仕組みはハムスタアレーダーと同じものを目指しているのでしょう」  出雲先生はブラウン大佐の方を見やって、確認を取る。
「……ブラウン大佐、トライアルにかかっているというのは、本当ですか?」
「本当もどうも、灯台局のあり様を考えれば、我々がかませ犬にされるのは言わば伝統だ。だがこれからは違う。民生局の連中には物の順序というものを教えてやらねばなるまい」
 状況を今ひとつ理解出来ないでいた私が訊ねる。
「待って。カリスマとディキシー? がトライアルにかかっているの? うちのレーダーとチェッカーボードレーダーがトライアルにかかっているの?」
「全ての組み合わせだ」
 それで? それで、もしもトライアルに負けると、どうなるの――。
 私は喉元まで出かかって、先生の表情を盗み見る。私が待ってみても、誰もそれを訊ねはしなかった。何であれ、この計画に膨大な予算がつぎ込まれているのは事実であり、私たちが研究の中軸から実は微妙に外されているらしいことも解った。この頃カリスマの命をただ維持するだけでも月三〇万ドル近い費用がかかると言われていた。いかに研究規模が大きいからといって、目的なく延命することはあるまい。「生きていることが奇跡」という余計な勲章により、彼はいつ死んでも仕方のない人間であるという、パラドキシカルな認識が常に燻っており、払拭出来なかった。
 地下に並んだ脳の納められた水槽群を思い出す。カリスマ。ディキシー。CとDの頭文字。
私はこの時不意にCとDの意味を悟る。
 ……AとBはどうなった?
 そこに該当する人物がなかったはずがないのだ。カリスマが研究対象から外れた時、その扱いというのはどうなるのか、非常に気掛かりであった。あの灰色の水槽の中に標本として沈められるというのか――。
「私たちがハムスタアレーダーを優秀に仕上げてみせると、それはカリスマのためになるの?」
「なる」
「どうして?」
「まだ言えん」
 ブラウン大佐は子供のようであった私に、それが世界のルールであるかのように結論だけを言ってみせる。この人の狡さというのは、自分の都合で茶化す時と冷厳に振舞う時をともに良しとしているとこにある。彼の生き様そのもが、そんな感じであったと思う。
「全て教えてくれなければ、全力の尽くしようもないじゃない! だいたい、情報を公開しないまま研究させようって方が無理なのよ! そんな話全然聞いてなかった!」
 その研究が何の役に立っているのか、何を目的としているのか最後まで明らかにされない。失敗した研究は闇に消えてゆく。秘密研究所の気味の悪さはその日常ではなく、跡形もなく無くなってしまうところにある。
 出雲先生は私のとがり声と対照的に、しかしながらブラウン大佐とも違う、全てを押し殺したような声で、慎重な説明をした。
「たとえばこうです。灯台局の成果によって私の発言力が増せば、カリスマの処遇に関しての影響力も高まります。それに、私たちはハムスタアレーダーの仕様そのものをカリスマに有利なように開発することが出来ます。トライアルの話が本当であれば、ディキシー中佐とチェッカーボードレーダーの開発部は民生局OBの下でチームを結成して、もう既に綿密な研究を始めていることでしょう」
 ブラウン大佐は出雲先生の言に続ける。
「オレがそれなりのポストを手に入れるということは、あのガキを生かすには必要なことだ。お前はもう少しそういうことを察してもいいだろう。カリスマは今、ケープ・カナベラルにあるが、我々は何としてもカリスマを奪還するつもりだ」
「この小さな研究室でカリスマを、カリスマを――」
「カリスマをここで飼えないというのなら、我々が乗り込むまでだ」
 カリスマを飼う――。何て言い草だろうか。しかしこの時、私はカリスマをどうすると言おうとしたのだろうか。看護するが正解だろうか? しかし飼育と看護というのは、面倒を見るという言葉で同一の扱いにすることが出来るのであり、マウスを管理することと、病人を看護することは非常に近接した行為であった。でなければマウスが人間の代用にはならないのである。カリスマのありようというものはそういう医療倫理の境界線を常にぼやかしていた。
 ついに経ヶは頭を抱えて屈みこんでしまう。大分疲労が溜まっていたのだろう。経ヶにとって初めての主任であり、それがかなり大掛かりな研究であったから無理もない。彼女は重圧に耐えかねていた。経ヶは灯台局のあり方そのものに対する疑念が強く、ドロップアウトしてゆくのも致し方なかったかもしれない。
「もっと性能を上げないと、ううん、はやく、はやく研究をソナーに切り替えないと!」
 経ヶの声はことの重大さを思い返したものであり、震えていた。
 室戸は経ヶの脇に同じように屈み、うなだれる経ヶ岬の首根を指先で撫でながら囁く。
「この研究は必ずしもソナーである必要はないと思うの。ハムスタアレーダーの性能はこのへんで十分だと思うし。私たちは実証実験で使えるレーダーは持っていなかったしね」
 これからの問題は、ブリッジの仕様の方に移って行く。ソナーであるかレーダーであるかというのとは観点が違う。工学的な知識がなくても皆で協力出来るはずである。
「カリスマを私たち全員で支えていくのよ」
 相変わらずの平易な言いぶりだが、断定的であり、室戸のそういう性質に気付いて私は微かに驚いていた。彼女は頼もしい。自分まで強い人間であるような気にさせてくれる。昂揚を感じていたと思う。そして、すぐにその意見に賛同して私は言い放つ。
「私たちは彼を孤独にするわけには行かないわ」
 私はその一方で出雲先生を見ていた。出雲先生がカリスマのために尽くすと言うならば、必然灯台局は皆が、そのあり方に巻き込まれることになる。私はそれで構わないと思っていたが、冷静な室戸がそういったことを言い切ってくるとは思っていなかった。
 この時のことを何と説明したらいいのか解らないが、私はまだ、その背後にあることを知らなかったのである。自分の中の問題も含めて。

 G2もとい、日本支部によるケープ・カナベラル研究所への圧力によって、来て然るべき情報が出揃い始めたのはこの後からである。
 頭の中に海図や航空図をどの程度暗射することが出来るかが、カリスマの能力を左右する重大な要素の一つであった。数値による報告を、図像的に再現するプロセスは必須であり、目を瞑ったまま数値情報だけで敵位置を判断させるという実験が必要――。残念ながら、実験当初、被験者であるカリスマもディキシー中佐も私たちの元にはいなかった。
 カリスマはチャトランガと呼ばれるカリスマの教育プログラムに入ったとのことだった。もっとも、やっていたことといえば専ら「チェスやビンゴのたぐい」であったという。
 チャトランガ・コンステレーション・アーキテクチャは、世界の全ての物体が平面に布置された要素として表現され、速さ、距離、時間の要素は、危機評価を加重平均した格マスの対処猶予時間として解釈される。基本的な形としては、グリットの外側に対処猶予時間が並ぶことになり、世界は差し当たり地図とも呼べないぐらいの一枚の正方形のカードに収まってしまう。
 視覚を持たないカリスマにレーダーで知り得た情報を伝達するためには相応のイメージを把握させるという処理が必要だった。その策定が初期のブリッジ研究の主要な課題であった。
 本来であれば、三六〇度のコンパスと距離を組み合わせた代数的な指示を行うのが通常であるが、地図を視覚的に把握する事の出来ないカリスマのために、碁盤目、あるいはチェス板のような図面の扱いに馴れさせる必要があるとの考えであった。グリッド座標である。海図を使えない状況での潜水艦訓練というのは散々であることが実証されていたが、チェッカーボードと呼ばれるある種のマス目を用いた教練をした場合に、海図を使える状況には及ばないものの、かなりの改善が見られた。最終的には簡単な図象や映像を特殊な義眼装置を使わずとも、モールス信号で把握出来るようにさせることも出来るのではないかと期待されていたのである。
 ハムスタアケージレーダーのケージもまたマス目のことを意味し、マス目のどこの位置にハムスタアが存在するかを指示するシステムを開発しているのだった。

 チェッカーボードレーダーとハムスタアケージレーダーはその方式において基本的な概念は変らないということである。ただ、グリッドと呼ばれるマス目の数が、チェッカーボードレーダーは四〇九六グリッド。一方、ハムスタアケージレーダーは七二九グリッドである。解像度に大きな違いがあった。これだけ見ると、チェッカーボードレーダーの方が分解能が大きく、高性能であると言え、単純計算、ハムスタアレーダーの5・61倍もの性能があることになる。しかし、「カリスマが使いこなせるかどうかというのは別問題」というのが、状況を複雑にさせていた。
 チェッカーボードレーダーは八の二乗マスの戦略盤と全くそれと相同形の戦術盤の二枚を使う。戦略盤の方で大まかな位置を測定し、戦術盤で、詳細な位置を絞り込むという方式が取られており、六四の二乗マスの大盤を一枚使うよりも、八の二乗盤を二枚使う方が効率がいい。最終的には三枚のチェス板で二十六万二一四四枚分という膨大な地図情報を把握させ、その三枚で地球規模での戦略行動をとることが出来る予定である。補助的に用いられるもう一組の盤もあり、これは縦軸に直交させて使う高度表示用である。座標の切り替えや、図法変換、目盛りを一から引き直すような複雑な操作も可能である。しかし、やはりカリスマによる習得は難航しているとのことだった。その一方で民生局寄りであったディキシーによるチェッカーボードレーダーの習得はかなり良好であるというので、気を揉む。ディキシー中佐は潜水艦長であり実戦経験が豊富。その上、チェッカーボードレーダーの概念を発案した張本人で、チェスの名手である。軍学校時代の成績は常に一桁台であったという。当然ながら自ら潜水艦乗りを志願した。変わり者であると言われていたが、端的に言ってエリート。事故がなければ、将来はそのまま提督になることも確実視されていた。
 一方のカリスマは軍人一家に生まれながらも、病弱で少年期の半分を「隔離された物置小屋」で過ごしてきたという。軍学校に通った事はない。そもそも普通の学校に通った期間も二年間程度であるという。実戦経験も当然なく、海図の読み方や、世界地図そのものの暗記をしないうちにブレインパイロットとなったのは初期において大きな痛手であった。チェスが得意などという特記事項もない。この両者が明暗別つのはやる前から解っていたことであった。
 周囲の協力姿勢という点も大きく、ディキシー中佐には家族があったし、多くの仲間達に慕われていた。カリスマは家族とは「死別」している状況である。頼みの綱は出雲先生一人きりという状況であり、他の者を根本的に信用していなかった。

 ブラウン大佐は言う。
「カリスマの知能程度はアーリーティーン程度。クラスにいたら下から数えた方が早いような愚図だ」
「でも彼は忍耐強いです」
「何を根拠にだ? 仮にそうであったとして、それが役に立った場面があったとは思えん。いつだって、あいつはめそめそ言っては、喚いてきた」
 ブラウン大佐が何を思ってか出雲先生に食って掛かっており、先生は相変わらず押し殺した調子であった。
「私は彼を信頼しています。彼もまた私を信頼しています」
「だから、それがどう役立てられるかと訊いているんだ。それは躾さえすれば馬や犬でも可能なことなのだ。しかしながら、問われているのは能力だ。わかるか?」
「あなたの考える解決策というのはなんです?」
「敵は歴戦の潜水艦長だ。我々はあのカリスマで奴を迎え撃たねばならないんだぞッ!」
 ブラウン大佐が机の脚をガンと蹴飛ばすと、テーブルの上の湯飲みが跳ねて、その背後で待っていた経ヶ岬とビッグハムスタアも驚いてびくっとした。
「カリスマは私たちの昇進には貢献しないかもしれませんが、自分の運命を切り開いてはみせるでしょう。それでご不満ですか?」
「奴が生ゴミと一緒に捨てられないとこまで粘れれば及第点だ! ひょっとしてまだ、お前は、カリスマの試験結果を見ていないのか?」
「これでしょう?」
 チャトランガ――暗射能力テストの結果が届いていた。赤字で埋め尽くされた惨澹たるカリスマの得点欄の脇にディキシーの高得点が並んでおり、その差は誰の目にも明らかであった。ディキシーの能力はシステムが完成すれば、即座に実戦投入可能なレベルであり、ブレインかつアトミックという、究極の潜水艦の実現は目前に迫っていた。
 ブラウン大佐はカリスマの赤点通信簿を引っ手繰ると、鼻先でひらひらと振って弄び、即座テーブルに叩きつける。
「未だにこんな次元では戦闘教義など全く理解できまい。これでは小学生を艦長にするようなものだ。カリスマの実戦投入など夢のまた夢だ!」
 ブラウン大佐がカリスマの想像以上の不出来に怒っている。良くも悪くも灯台局はカリスマを中心に組織らしく動き始めていた。カリスマを中心に戦っていくという確かな決意が皆の間に生まれていた。
 言い争う二人の背後で新作を手におどおどしながら待っていた経ヶ岬に出雲先生が声をかける。
「経ヶ岬。新式のハムスタアレーダーを大佐に見せてあげてください」
 新式のハムスタアレーダーは数字がカナ文字に置き換えられていた。もともとマスの割り振り番号を決して二桁にはしないという方針がとられていたが、この制約を守りつつ、グリッド数を飛躍的に拡大させる方法が考えられたのだった。濁点、半濁点、捨て仮名の装飾で情報量が更に拡大する。もしこれが成功すれば光となる。
 ケープ・カナベラルのウェンブラー大佐個人の半信半疑の理解を除けば、我々の出したこのアイディアには、ほとんどの関係者が否定的であった。ウェンブラー大佐は、 この研究が政治に翻弄されることを倦厭し、政治的中立を保とうと努力してくれた。灯台局の方としても、ブラウン大佐の個人的悪態を除けば、概ね彼のことを信用していた。
 結果として、私たちの見立ては正しかった。どのような政治が横行しようとも、絶対に外せないメンバーというものはある。
 目下の問題は、カリスマの母語となる英語・ローマ字の座標でも大して成果が上がっていなかったことである。しかしそれでも私達は、カリスマの数学の苦手と特異なまでの日本語修得の早さを武器にする方針に決めた。彼は五年の深い眠りから覚めても、日本語を覚えていたからである。
 弱小の研究機関であった灯台局が賭けに出たと言っていい。そして奇跡は起こるべくして起きる。このカナ文字座標を用いた場合の成果は、カリスマにおいては突出した成果を上げることになった。従来の数字座標の三倍近いスコアを叩き出したのである。これは日本人の私から見ても想像を越えた出来事であった。
 日本語を母語に使う我々でさえ、位取りと少数の扱える数字座標の方が、圧倒的に覚えやすいように感じ、スコアもその通りに出たというのに。
 カリスマを見ていると、かつての自分を見るような気がすると彼女は言っていた。どれだけ覚えられるかどうかは、客体の合理性ではなく、主体の経験がものをいうと説く。人間が生まれて死ぬまでに触れる文字と世界との結び付きがどれだけ強いかが、その文字に関する言語の運用能力や記憶力に影響を与える――。
 最初はカリスマという正規の被験者のいない中、やることになった。どのみちケープ・カナベラルや他の部署に対してのアドバンテージはなきに等しい。後悔するぐらいならばと、出雲先生が押し切るのに皆が従っただけとも言えた。しかし結局のところ、出雲先生が、一番被験者の能力と状況を理解していた。
 アメリカでは何も出来なかったと彼は思っていたし、日本で初めて人間として成功したと思っていた。たった一年に満たないその過去が、その後の彼の全てを決めたのである。人間とは恐るべき存在であった。
「こう言うのもなんですが、カリスマは、たぶん、私と同じくらい勉強が苦手だと思います。思えば、本人が数学嫌いを公言しておりましたから」
 周囲にいる皆で何となく笑う。この頃のカリスマはまだ九九も怪しかったのである。しかしそんなことを言って、高をくくり、笑っていられるのはそこまでだった。
 カリスマのいない中で出雲先生がとった苦肉の策は、非常に荒っぽいものであった。
「経ヶ、室戸、角島、ブラウン大佐の四方は、このままではカリスマの代理となる被験者には向いておりません。しかし、参加はしてもらいますから」
 そう宣言された日から、寝ている所を突然叩き起こされての、不意打ちのような訓練が始まった。灯台の周囲を全力疾走した直後に暗射試験を行うという、耐久試験である。皮肉にもカリスマが休ませてもらえないのを先生が抗議した時とは真逆の成り行きである。  カリスマに一般論は通用しない。しかしカリスマではない者の特殊は、もっと通用しない。何にも増して、戦場での判断を間違えると、死に直結するという状況を想定出来なければならず、その感情を自ら設定出来る者でなければならない。局外の動員は難しいとなる。そして、世界の昼と夜、人間の覚醒と睡眠は戦時平時問わず誰にでもあった。世界と人間を思い出したカリスマにも今はもう当てはめることが出来る。教育プラン、義橋システムのあり方を模索するのに私たちは動員されることになったのである。
 もちろん、ディキシー中佐や、ソ連軍の人工衛星、スプトⅠも視野に入れており、カリスマの敵となるブレインパイロットには、スーパーエリートの軍人が搭載されていることを前提に、研究をする必要があった。出雲先生がどのように弁護しようとも、結局は、衛星カリスマに、そういう相手と戦えるだけの能力を身に付けさせねばならない。それが事実だった。
 姫埼とキットマン大尉は、好き勝手な時間に目覚し時計をセットして、人様を叩き起こすという、ふざけた役回りを得て、毎日私たちの苦労をよそに腹を抱えて大笑いしていた。しかし出雲先生はピクリとも笑わなかった。今後の灯台局のあり様によっては我々はカリスマのプロジェクトから外される可能性があったし、カリスマがカリスマプロジェクトから外される可能性だってあった。何としてでもカリスマ計画に介入し続けるだけの成果が欲しかった。







§ 一三 ハニートラップ

 

 研究成果の報告をするための出張には、ウェンブラー大佐からの直々の指名で姫埼が選ばれて、彼女は単身ケープ・カナベラルへ飛んだ。
 論文の表題には、癖の強い字で「愛こそ全てだ!」などと書かれていた。
 論旨は確かにそうかもしれないが、こんなのでいいのか。
 まあ、室戸が大丈夫だと言うのだから、大丈夫なのだろう――。 
 姫埼が民生局側の人間であることはこの時点で既に明白であったが、彼女は奇妙な女であり、単に民生局に利する行動をするだけの人間ではなかった。
 カリスマ曰く、「詐欺師が来た」とのこと。ウェンブラー大佐からも酷く怒られたと、本人は相変わらずの調子でちんたら笑っていた。彼女は、その時の気紛れな興味に走るという刹那的なところがあって、本人もそれが社会にそぐわないことを重々承知である。本当に手におえない。当人曰く、「だって、飽きちゃうんだもん」
 そんなふざけた女が何をやったかといえば、あろうことか、自身が出雲先生であると偽って、カリスマに接近したのである。もちろんウェンブラー大佐からも、民生局のOBたちからもそんな指示は出ていない。姫埼は米海軍お抱えの秘密研究所で、全くの個人的な関心で悪戯に勤しんでいたのである。最初のうちはカリスマから色々と個人的なことを聞き出して「デートしていた」らしいが、そのうちに、カリスマが疑い始めたという。カリスマは、将棋の指し筋から違和感を覚えたらしい。
 カリスマは言う。
「ヒノミサキはこの程度では降参しない。誰だ君は?」
「私はヒノミサキよ、あなたのフィアンセ」
「君は角島か。ちょっと悪ふざけが過ぎるんじゃない?」
 カリスマはそう言ったという――。

 私と姫埼を間違えるとは、一体全体、カリスマは私のことをどんな女だと思っていたのだろうか。そこは遠慮せず問い質しておいた方がよかったと思うが、それはまあいい。
「ヒメサキとやら、君は、イタリア人なのか?」
「しらない。イタリアにはいたけれど――私、別にどこの国も応援してなかったの」
「それはつまり、無政府主義者ということだな?」
「あら? 難しい言葉を使うのね」
 この頃にはカリスマには特注のモールス本が与えられており、本人の希望で、エレメンタリスクールからハイスクールまでの教科書や自分が生まれた時から、その時に到るまでの新聞を読み漁っており、第二次世界大戦期の社会情勢を客観的に理解しつつあった。
「……まあなんでもいい、君が誰でもいいが、一つ教えてくれるか? 僕はこの試験で成績が悪いとどうなる?」
「わからないわ」
「言えないんだな。そうか、僕は、とうとう延命打ち切りか……」
「あくまで戦い抜く決意を二人で誓い合ったんでしょう?」
「なんで、そんなことを知っているッ?」
「日記を読ませてもらいました」
「畜生、あっちへ行け。お前は最悪だ!」
「渡したのは出雲よ?」
「馬鹿め。そんなことはありえないんだよ。君には信頼という言葉の意味が一生解るまい。そうだ、そう言えば、イタリアは真っ先に降服してアメリカに寝返った! 日本は親玉のドイツが降服しても、最後まで強大な敵と戦い続けたのに」
「えらい親日派なのね」
「別にそういうわけじゃない。例え話さ。つまり、僕が言いたいのは、敵だと思っていた日本帝国にヒノミサキのような奴がいたということだよ」
「――あの人の何がそんなに魅力なのか教えてくれる? 後学のために知りたいわ」
 ちなみに私は姫埼から全く同じ質問をされた。
 出雲先生の魅力――。魅力。彼女は、そんなもので論じられるような覚悟で生きてはいない。だいたい、そういう――どうしたら魅力的であるかとか、下賎なことをそもそも考えていないのである。
「あら、それはどうかしら? 彼女は毎日自分の髪の長さを執拗に気にしているじゃない」
「違う! あれは先生の日課なのよ!」
「解ったわ。どうしたらより魅力的に映るかとか、そういうことは一切考えていない素振りが出来れば良いのよ。きっとそういうことね」
 言語道断である。ちょっと表へ出ろ姫埼三等兵。
 本当に表に出て、浜で対峙している様は、ついに決闘が始まったのだと皆に心配された。あと三歳若かったら私は本当にあの女を海に投げ飛ばしていたに違いない――。
 姫埼は何が楽しいのか、大抵は微笑を浮かべていた。
「じゃあ、もうあなたは、ソナーとレーダーの違いについても知っていたということね?」
「はい。何をやっているのかな? って、思ってた」
 ふざけた女である。
「トライアルだって、合理的に考えれば、落第は最初からないわ。だって、半舷休息が必要だもの」
 艦の運用上、半舷というものがある。乗組員を二組に別けておき、当直、休息を交互にとるものであるが、ディキシーとカリスマの二組で試験を行うことが最初から決まっていたらしい。そのことは灯台局でも予測されてはいたが、第三、第四のカリスマが出てくれば、トライアル――選抜は様々な形で必然となっていくだろうから、慢心するべきではないというのが灯台局の結論であった。
 私が何か説教してやろうとすると、姫埼は逆に私に釘を刺してくる。潮風に煽られた長い髪を口に含みながら――。
「カリスマにはトライアルが茶番であることは教えないでって」
「何故ッ?」
「彼には本気を出してもらわないと」
「彼を苦しめているとは思わないのッ?」
「大丈夫。どれだけ苦しくても、彼はハラキリ出来ないから」






§ 一四 模擬戦


 ブレイン原潜は課題を多く残していたが、それでも現実のものとなり、以後は遽しく事態が動いた。
 北海道内戦においては一九五三年の六月に一応の停戦ということになっていたが、日ソ間で北緯四三度から四六度を鬩ぎあっており、日本海とオホーツク海を繋ぐ宗谷海峡を日本船舶が自由に航行することが出来ない状況が続いていた。道南義勇軍は日本において政府の承認を得ていない一方で、米軍の支援を受け続けており、対する北海道赤軍もソ連の支援を受け続けている。北海道では人の手足が道端に飛び散っていたり、パトカーにロケット弾が放たれたりする。そういった衝撃的な映像がテレビの登場によって生中継される時代になってしまい、国会では野党がその実態を激しく詰り、おまけに安保闘争の時代に突入して市民からの突き上げも日増しに激しくなっていった。これ以上政府や自衛隊が自国と定める領域での戦闘を黙認するような立場を取り続けることに国民の理解を得ることは難しく、方便も限界に来ていた。
 そこに状況を更に悪化させる事態が発生する。当時日本に一番近いソ連の秘密都市はカムチャツカのペトロパブロフスク・カムチャツキー‐50であったが、ПК‐50を出航してオホーツク海を目指したノヴェンバー型原潜K‐4が消息を断ったのである。この五時間前に米軍の原潜がオホーツク海に入っており、これをK‐4がПК‐50の司令部に通報していたという最悪のオマケつきである。
 暗い海の底での出来事であり、この事件は数々の憶測を呼んだ。
 米国に原潜開発で遅れをとったソ連は、元よりその安全性において多くの問題点を指摘されていたにもかかわらず、開発の難航していたノヴェンバー型原潜を無理くりに纏め上げて運用を開始しており、西側諸国ではK‐4は勝手に事故を起して沈んだと見なされた。しかし、粛清を恐れた彼らはこれを米軍による攻撃であると主張し、国際情勢は取り返しのつかない状況に陥っていた。在日米軍での軍事警戒レベルも5から3へと上昇――。
 暗雲立ち込めるなどとは言うが、この時の防衛準備体制には「アメフラシ」という秘密オプションがついており、気象研究所と米軍が共同開発した原始的な気象兵器が使われていた。沃化銀を航空機で散布して雲を作るという、シンプルなものであったが、偵察妨害などに一定の効果を上げて、気象兵器の歴史が幕を開けることとなる。
 そのころカリスマは暗いオホーツクの海を他所にマイアミの青い海で実験を繰り返していた。潜水艦の性質上、医官四・五 薬剤官三・五 技官七 という、大々的な医療体制が敷かれており、その実態は水中実験室であった。潜水艦に女が乗ったのもこれが世界初であった。ただし女たちは、日を跨いでの長期航行についてゆくことは出来なかった。ちなみに医官と薬剤官の半端な人数の正体は室戸である。コンマ五の扱いとはちょっと気になる表記であるが、まあいい。彼女の才能は端的に解りやすい。すぐに認めざるを得ない状況になっていった。他に灯台局からは、他に出雲先生と姫埼が応援に出向いていた。

 カリスマのライバルと目されていたディキシー中佐を最初は皆で敵視していたが、当のディキシー中佐は、ずいぶんとカリスマのことを気にかけており、潜水艦乗りとしての技術、心構えなどをよく教えていたという。カリスマとの模擬戦闘は何度もなされたが、カリスマは、生え抜きの副官や部下をつけてもらっても結局ディキシーには一度たりとも勝てなかった。カリスマは完敗の後、誰とも話をしたがらないほど落胆していたが、ディキシーからは「有望である」との評価を得ていた。ディキシーは一兵卒の果てまで慇懃に接する紳士として知られていたが、部下に求める練度は非常に辛く、潜水艦に同乗したことのある者達はいっそ馬鹿間抜けと一喝される方が百倍楽であったと口を揃える。
 カリスマは最後の模擬戦闘ではハムスタアレーダーを選び、ディキシーもそれに応える形で「ハムスタアタイプ」と指定した。使った潜水艦も完全に同型でスケート級である。他の人員は一切口出しをしない本当の一騎打ちである。完全に実力の差を見せ付けられた形であった。
 ディキシーはカリスマに言う。
「君はまだまだ学ぶべきことは多いが、私に勝つつもりで挑んで来たことは大いに評価出来る」
 カリスマは尋ねる。
「こんなんで、僕は実戦で通用しますか?」
「するさ。君は私に一勝も譲りはすまいと思わせたのだ」
「僕はこの後のスケジュールを与えられていません。もしも僕が使いものになるのであれば、僕を北海道へ連れて行ってください」
 カリスマはそう頼み込んだと言う。ディキシーには北海道で最初の実戦任務が与えられることになっていた。しかしカリスマはまた、ケープ・カナベラルの実験棟に戻されることになっていた。ディキシーには、自分と同様、手足をもがれ目も耳も利けなくなってしまったカリスマの孤独は解っていたはずだが、カリスマの実戦参加を推すことはなかった。
 ディキシーは暫し沈黙し、おもむろに試作中のダイスを振る。賽の目は一で止まり、その間にZ軸に仮定された入射角に見えた目の割合が並んだ。三の出現率が一番高かったが、結果は厳然と一だけを指し示す。
「せっかく生き残ったというのに。何故そんな風に考える?」
「生きてたって、僕にはなんにもない!」
「出雲君がいるじゃないか」
「ヒノミサキは僕の話を聞いてくれるけど、僕は、よく考えてみれば、前と何も変りやしない。これ以上僕が生きていれば――迷惑になる」
 カリスマはそう言ったという。
「残念だが、カミカゼアタックみたいな馬鹿げた任務はアメリカにはないのだ」
 そう言って、ディキシーはダイスを懐に仕舞ってしまう。
「ああ、畜生、いつもこうだ――。僕が勝っていたら、北海道行きの任務は僕のものになりましたか?」
「君が私に勝つにはまだ早いよ。少なくとも生きて帰ってくる気のないような奴に、実戦は与えられん」
「嘘だ! そんなのは嘘だ! アメリカはあの戦争で何人の兵士を前線に送り込んだんだ?」
「君には研究の任務がある。仕事はドンパチだけじゃない。君の心情はともかく、実務としてはそういうことだ」
「そんなのあるかよ、クソッ。何の訓練だった? これは何の訓練だったんだよ! もしも、僕の命が実験のために必要で責任を与えることが出来ないというのなら、お前にどのような悪態をついてもいいわけだ。何のお咎めもナシだ。命令違反も抗命罪も何もない! そういうことだろ、ジジイ。人殺しのクソジジイめッ!」
「そういうのは抗命ではなく、上官侮辱と言うんだ」
「うるせえよこの野郎。よくやっただ? お前はよくやったのかよチキン野郎。せこさだけが伝わってくる戦いぶりだったじゃないか! それがあんたのやり方なのかよッ?」
「すぐにカッカする奴は死ぬんだ。せこいのは結局生き残る。君は私から何を学んだんだ?」
 モールス信号で喧嘩ごしの電信を送っているのがばれて、駆けつけた技士に通信を切断され、カリスマはこの後、皆にこっぴどく叱られたらしい。
 カリスマに給与と宿舎を与えるという灯台局からの提案は通っていたが、ついでに営倉(ブリッグ)という懲罰規則が出来た。カリスマからの打電を遮断して、一方的に反省を促す文章が機械で繰り返され、休憩を挟みつつ、八時間浴びせられるそうである。単なる嫌がらせに近い。
 この懲罰を受けたものは、カリスマとその部下のライト・フライヤー二世だけだが、両者によれば「最悪」だそうである。どうやら、いつまで一方的に続けられるのか解らないという、恐怖感を覚えるらしい。その後の精神面の悪影響が大きい上に、ブレインパイロットはそうそう頭数が揃えられない兵種であったため、規則は残ったものの、それ以後の適用例はなかった。
 この訓練に参加した後ディキシーは試験航海に出た。予定通り北海道を始め、世界中の戦闘海域に繰り出されるようになっていった。元々優秀な軍人であったためであるが、彼は手術前と同じペースで昇進していった。
 日本で全面的な戦争が始まっても、カリスマは研究室に居続けて、ある日唐突に「死にたい」と呟いた。


















§ 第二部















§ 一五 指輪計画


 北海道での戦争は日常化し、苛烈さを増していたが、出雲先生が頻繁にケープ・カナベラルに訪れるようになり、ディキシーを倒すことに燃えていた日々が遠ざかるにつれ、カリスマは戦場へ行かなくて済んだことを肯定的に捉えるようにもなった。依然として、モールス信号での原始的なやりとりであったが、カリスマはしばしば笑うことも増えた。「せっかく面白いことがあっても、声を出して笑えないなんてなあ!」と、カリスマはそう言っていた。たまには冗談さえ言う。カリスマへの向精神薬の投与が決まり、彼の怒りも苦しみも全て取り除かれてしまったのである。出雲先生が決めた。皆それを望んでいた。あと、残るのは責任だった。出雲先生が申し出れば、そこにはもう反対者はいない。全員が望んでいるのだ。出雲先生がそうすべきだと言えば、カリスマも頷いたことだろう。しかし、出雲先生はカリスマに、そのことを告げなかった。
 結論として、二人は孤独である。どういう判断があったのか、どうすべきだったのか。今言えるとしても、その答えはその時にはなかった。


 冷戦期にぽかんと開いた僅かな小春日のような時間が少しだけあった。出雲先生に誕生日プレゼントを贈りたいと、カリスマからの率直な申し出があり、皆で知恵を絞るという一幕があったのである。遠まわしに何か必要なものはないかと皆が代わる代わる尋ねに来るのを出雲先生は不審そうにしていた。何とか追い込んではみたものの、先生は暫しの沈黙の後、しまいにはトンボの鉛筆などと返事する。
「トンボの鉛筆とは何だ?」
 物欲の権化であるブラウン大佐は出雲先生の態度に慄きさえする。
「あの女は何が楽しくて生きているんだ?」
 ブラウン大佐の言はともかくとしても「二人はこの後どうしていくのかしら?」と姫埼もまた、非常にナーバスな問題を平気で訊ねてくる。おかげで私はそれを二人に直接聞いたりしないようにとあえて言わねばならなかった。外国の奴等は往々にして無遠慮すぎるのである。
 姫埼は私の牽制をちょっと待つと、何事もなかったようにいつものように微笑んで接近し、テーブルを挟んで私の正面の席についた。

「二人は婚約しているのでしょう? 指輪は贈ったのかしら?」
 二人が一時は婚約していたらしいというのは、先生すら見ずにいたカリスマの日記を姫埼が盗み読みしたことから知りえたことだった。姫埼はその日のページに執着しており、私も嗜めるような顔をしつつも、当然ながら興味はあった。カリスマの日記はとある事件をきっかけに出雲先生が焼却してしまったので、実際の所はもう知ることが出来ない。
 こんな女と手を打つ気か――。私は姫埼を邪険にしつつも、話をすることが増えてきていた。奴もそれを良く解っているようだった。

 相変わらずのちんたらした様子で姫埼は言う。
「カリスマは、手術の一月前の休日に、誰にも言わずに病院を抜け出しているの」
「それがどうしたというのよ」
「東京の上野まで行こうとしていたらしいのよ」
「だから、それがどうしたというのよ?」
 姫埼の言いたいことは解っていた。上野の御徒町は宝石問屋が犇いている。姫埼はイタリアに住んでいたというのに、そういう話だけはよく解っていた。戦時から終戦直後にかけて、ダイヤモンドなどは真っ先に権力に吸い上げられていった。集められた石は国内においては御徒町に集まり、国策遂行上の資金として取引される。無論売る方も買う方も、富裕層だけである。私も石ころを数十個は持っていた。個人的な考えで売り払う一方だったが、それでもダイヤの一つや二つは手元にあったし、外商を通して売り払われたり、軍需省に接収されたりした石の行き先が東京の上野であることは解っていた。私に与えられる石ころは、お母様のお古で、親戚のウカレメたちが大切なのを取り尽くした後のカスである。これは私の言ではない。従兄弟や親戚の女たちから皮肉たっぷりに「あ~ら? この石は?」とおっ始めるのである。私は石に辟易ていた。全ての石には厳しい身分があり、それを指に嵌めれば、その身分であることが決まる。女たちの石に対する執着はグロテスクで吐き気がするほどのものであった。それ自体、大した意味を持たない石であっても、お母様が大切にしていたという石は、ただの猫目石であろうと最上の意味を持っており、私はそれに触れることはおろか、まともに見ることさえ、強く窘められるのである。嫌悪していた。私がカス石をつけていてるとヒソヒソと嘲笑するくせに、それを嫌がって外して晩餐に出向くと「あなたには角島の人間である自覚があるの?」と尋問される。「はい」と言おうが「いいえ」と言おうが結果は違わない。
 ある日私は、屈辱の烙印であったカスの方とされていた傷のある猫目石を売り払った。当然ながらあんな石は二束三文にしかならなかったが、私はあの時ほど清々した気分になったことは生涯他にない。
 私と姫埼が指輪談義に明け暮れていると、後から来て輪に加わった室戸は、珍しく気後れして訊く方に回っていた。石に関しては、オハジキか碁石しか持ったことがないのだという。
「ダイヤモンドって炭素だよね」

 それで? 二人して思わず室戸の顔を覗き込む形になってしまう。
「ほら、あの、石炭とかで作れないかな?」
 それが出来れば錬金術。億万長者になれると一笑に伏したが、十年後にはそれが本当の話になってしまうのだった。戦前、ダイヤモンドは金に準じて高級な石コロであり、私はそれで富を築いた経験があったので、よもや、ダイヤモンドが石炭から作れるようになる時代が到来するとは夢にも思わなかった。






§ 一六 星の世界へ


 一九五八年――昭和三十三年 四月。

 偵察衛星機構コロナの主星としてカリスマが衛星軌道に上がる。キーホールと呼ばれる望遠カメラを搭載した原始的な無人衛星が先行して軌道に上がっており、カリスマはそれらの統括的なコントロールを行う。それがカリスマに与えられた宇宙での最初の仕事であった。
 出雲先生と我々はケープ・カナベラルの宇宙基地でそれを見送った。総勢三百人体制の中での打ち上げで、我々は何も口出しすることは出来ない。控え室のスピーカーからカウントダウンと、各員への指示だけが聴こえてくる無味乾燥とした別れであった。

 カリスマには私物の持込は一切予定に入っていなかった。容量の余裕はほとんどなく、打ち上げの一ヶ月前になって、無理を言ってペイロードを割いてもらったものの、再計算で弾き出された可載重量は僅か一・二グラム。出雲先生は大社のお守りを灯台局の連盟で持たせることを考えていたが、それすらも積むことはままならなかった。カリスマの内部を見学した時、ウェポンベイの内壁に現場の技術者の手によってミッキー・マウスが描かれていることに気がついた経ヶ岬が、床に転がっていたマーカーをふっと拾い上げ、その隣にハムスタアの落書きをしてしまい、周囲の面々は凍りついた。カリスマはもう我々のものではない。いいや、カリスマは元から我々のものではなかった。何はともあれ、カリスマはアメリカ軍の機密である。僅か一グラムにも注意を払う微妙なバランスで宇宙へ上げるのであるから、塗装のひとかけらだって、本来は気にして然るべきである。しかし元々アメリカ側も落書きをしていたのだから、アメリカの習慣でならば許されないものでもない――? 当の経ヶ岬はそんな斟酌もなく、マーカーを握ったまま、しまったという様子で、目を赤くして動揺していた。彼女はカリスマへの同情の念が強かったが、問題はそれではない。打上げの数日前、ビッグハムスタアが死んだのである。

 ビッグハムスタアは被曝試験に挑んだ。ビッグハムスタアは自然下の生き物とは比べ物にならない強い抵抗力を持っており、それは放射線に対しても有効のはずであった。ビッグハムスタアは幸いにも二四二項にも渡る全ての試験を潜り抜け、勲章付きで退役したはずであった。しかし、彼はより精密な試験を受けるために、またどこかへ行くことになった。新しい戦争と新しい試験が出来たからである。
 経ヶは「だけど、ビッグハムスタアは私の管轄なんだけど」と、一言付け加えたが、それは経ヶのモノであるという意味ではない。
 ビッグハムスタアに体力をつけさせようということになり、壮行会を開いたが、これはやめた方がよかった。
 経ヶは「生きのびても、死んでしまっても必ずビッグハムスタアを返して欲しい」と頼み、ビッグハムスタアを連れてアメリカへと出張する出雲先生と室戸を見送った。
 出雲先生は経ヶの願い出を了解したが、これもやめた方がよかった。
 無敵の抵抗力を持っているはずだったビッグハムスタアが癌を発症するのは、新しい試験では簡単であり、これで彼はあっさりと落第することとなった。
 かなり高いレベルの放射線を浴びてきたらしく、ビッグハムスタアは全身の毛が抜け落ちて、袋叩きにされたような、腫れと発疹だらけの姿に変わり果てていた。

 ものがものだけに、獣医に診てもらうわけにもいかず、経ヶはまだ当時巷には出回っていなかったドッグフードを神戸まで買い付けに走ったり、調剤室に篭って、磨り潰したヒマワリの種に希釈した抗癌剤を混ぜて干乾しにしたものを作ったりと、必死の看病を行ったが、もはやどうにもならなかった。
 ビッグハムスタアには緊急時に体の細胞のほとんどを数日のうちに総入れ替える代謝能力があったが、胚盤胞から造り出されたその臓器はビッグハムスタアを救いはせず、彼を苦しめるだけで終わった。
 ビッグハムスタアの最後の数日間は、鉄柵に齧りつく力はもとより、回し車を蹴る元気もなく、新聞紙の中に埋もれて、僅かな髭が動くので、辛うじて呼吸をしているのが判る程度であった。経ヶはあの日、いつものように朝早く目を覚まし、代えの湯たんぽを手にビッグハムスタアの様子を見に行ったが、その時既にビッグハムスタアは冷たくなっていた。経ヶが落胆して打ちひしがれるざまは、決して天才の姿ではなかったし、理性ある大人のものでもなかった。灯台局はまかりなりにも研究室である。カリスマ計画の進展に伴い、研究内容も、生化学から理工系に比重が移りつつあったものの、非臨床はあったし、それに使われる実験動物も当然あった。経ヶ岬の気持ちは解らぬでもないが、道理の面ではビッグハムスタアだけが特別扱いされる理由というものはなく、これはあまり突き詰めて考えるべき問題ではない。気がつけば経ヶは、肉や魚を食する事までも忌避するようになっており、もはや彼女の心の方が限界だったと思う。彼女は戦中に何らかの人に言えないような研究に従事してきたのは明らかで、後になってみればではあるが、彼女はPTSDであった。

 経ヶ岬は誰ともなしに言う。
「これが、世界の平和のために役に立ち、いつかは多くの命を救うんだよね?」
「その通りだ」
「原爆が、多くの命を救ったように?」
 ブラウン大佐はそっぽを向いて煙草に火をつける。
 出雲先生はこう言っていた。
「私が、ビッグハムスタア一人を匿うことは出来たのかもしれません。しかし、それは切り札です。私が培ってきた信用や負っている責任の全部を折って、切り札に変える時は、カリスマを止揚する時になります」
 止揚――この時、出雲先生は確かに止揚と言ったはずである。
 先生は何が言いたかったのだろう。
 経ヶ岬。あなたなら、ビッグハムスタア一人を守ることは出来た。だけど、あなたは、そうはしなかった――だろうか。
 いいや、出雲先生は、よりによって、わざわざ、止揚などと言ったのである。止揚は、実際のところ発展解消などという意味ではない。止揚とは、殺すか生かすかではなく、決定することに前提がある。迷うのを「止めて」ハムスタアを抱き「揚げる」が故に止揚――故にそれは決定と同義となる。決定するという行為自体が、例外なく止揚されるのである。
 しかし、経ヶは選べなかった。彼女の不幸は、科学者である自分に戸惑い、頼りながら嫌悪し、何につけても止揚出来なかったことにつきる。一匹のハムスタアの死を超えてゆく力を彼女は既に失っていた。
 思えば彼女は「生まれてからこの方、読んだ本は七冊だけ!」とふざけたことを豪語していた。それが嘘かほんとか知らないが、彼女が口にする「マトモな本」はシートン動物記だけであり、女学が競って読むであろう洋文学などにはおよそ関心がない。源氏物語などもさっぱり。短歌や俳句を口にするようなことはなく、流暢に話すのは赤本漫画や漫才の話ばかり。その裏で彼女は、ずっと非国民のノートを隠し持っていた。都々逸崩れのような自由律は、唾棄と怒りに満ち溢れ、全てを軽蔑している。眼差しは鋭いが、失意と悲観に明け暮れて、時折現れる理想は奇妙な言い訳で自ら否定されてしまうことが多く、結論がなかった。
 彼女には理想や哲学、そして倫理を論じる暇も場もなかったのだろう。世界には、女学校以上の女子教育に哲学を学ぶ場など用意されていなかった。
 良妻賢母かフェミニズムの二択から外れる女に降りかかる災難というのは多くの場合孤独である。
 経ヶはもう、以前のように多くは喋らなくなり、何でもない白昼、人に隠れて泣き崩れてどうしようもなくなってしまい、そのまま職場に戻って来れなくなるということが一度ならずしてあった。


 出雲先生は茫然自失で立ち尽くしている経ヶ岬の脇に寄ると、その手からマーカーを取って、壁に「武運長久」と刻む。出雲先生の筆致は硬く、見えない正方の枠に縛られ、逃げ場を失った止めと払いは彫刻刀で深彫りしたかのような鋭い印象を与える。先生の字を見て、その吏々とした気性に勘付いて、寛容さに欠いた字だと言う者もあったが、寛容がなかったのは彼女の歩んできた道のりであって、決して彼女自身ではなかった。
 時は戦前である。状況が状況であった。
 私はマーカーを手に持って、はたと立ち止まった。私のような人間が、何を書けばいいのだろう? 米英撃滅、神洲不滅――まさか。祝入営、挺身殉国――全然違う。そんなことは書けない。私は何を書けばいいのか、太平洋戦争と冷戦の狭間で混乱してしまい、おかしなことを書かぬよう、己の名を先生の脇に寄せるだけに留めた。室戸は臆す事無く、癖の強いナマズじみた字で自らの名の脇に小さく「但去莫復問白雲無尽時」と王維の送別詩の一節を刻む――ただ去れ、また問うことなし、 白雲尽くるときなからん――。
 更に便乗した姫埼は「You and me vs. the world!」と手馴れた筆記体でぐるんぐるんと勢いよくローマ字で描いた挙句、悪乗りしてぶちゅりとキスマークでピリオドを打つ。不謹慎ではないか――と私が眉を顰めるも、姫埼は「こんなに深刻では先が思いやられるじゃないッ!」と叫んで、皆もキスをしておけと口紅を差し出して、ほいほいと勧める。曰く、日本人はキスと抱擁が足りないとのこと。
「ほら、イズモセンセイ。あなたがキスしないなら、私が彼を奪ってしまうわよ。あなたは、それでもいいの?」
 お蔭でそこにあった灯台局全員の名とキスマークがカリスマの壁に刻まれた。ブラウン大佐の果てまで――。
 かくして、カリスマの打ち上げは無事成功したのだった。カリスマが自らに刻まれたそれらの寄せ書きのことを知るのはそれから一年後になってからであった。






§ 一七 空の贈物

 

 海沿いの松の木がカサを鈴なりにさせている。それが落日と交互に現れて、赤黒赤黒と繰り返す。赤と黒の色面だけになって脳裏に焼き付いており、そういう影絵のような光景が時折記憶の底から浮かび上がってくるのだった。
 あれは何だっただろうか。大分昔の話である。東北は仙台――。私はあの日、何でそこにいたのだろう。ふと気がつくと、夕闇の中をパラシュートが降って来るのが見えた。皆もすぐにそれに気付き歓声を上げる。
「はやくミスター・ブラウンに伝えましょう!」
 若き日の姫埼はそう言って、窓から顔を出して、長い髪を風に靡かせる。
 前方を走るレーダーを積んだトラックは、こちらから大声で叫ぶまでもなく、遠い宇宙空間から降りてくるパラシュートに気付いて、ドンと速度を上げる。特別調達庁の関係者を積め込んだ後続する人員輸送車もそれに続いた。
 輸送車の中で私たちは、おそい昼食をとっている最中であった。新たに灯台局に入った犬吠埼先生は、一瞬のうちに鯨カツ弁当を平らげ、見るからに物足りなそうにしていたので、私の赤飯弁当を譲っておいた。彼女は以前K‐4を巡って米ソ間で緊張が高まった時に使われた、アメフラシオプションの基礎を打ち立てた功労者である。当時二十五歳であった。
 彼女は、猿橋先生の下でビキニ環礁水爆実験の後の死の灰の調査にも参加しており、灯台局に来る前から気鋭の天才と誉れ高かった。彼女は既に地球科学系の専門誌では特集が組まれるほどの有名人であったので、灯台局へ招かれたのを機に忽然と姿を見せなくなったことを不審に思われてもいた。私はブラウン大佐とグルになって、そのような人物を無理やり引っ張ってきたのである。
 犬吠埼先生が来る前には、灯台局で先生と呼ばれているのは出雲先生のみであった。それでもって、犬吠埼先生は着任早々、皆から先生と敬称がつけられていたのだから、敬意のほどが分るだろう。
 犬吠埼先生はいざ一緒に仕事をするようになると、私が今まで見たことも聞いたこともないようなノートの取り方をした。彼女はまず、ノートの右側を頻繁に使わなかった。時には白紙のまま何ページも豪快にすっ飛ばすことがあり、驚くべき事に、後日戻ってくると、ノートの右側に作った空白の寸法にピッタリと合うように当面の問題を解決しているのだった。小規模には、書き出しと要点を飛び石配置して、最後に「以上」と書いておいて、休み時間から戻ってきて穴埋めするような書き方をするのである。使用するノートを並列にしないところは出雲先生と同じであり、出雲先生は犬吠埼先生のノートが一番見やすいと言う。ノートを幾つも用意しないのは、元々は菓子代を捻出するための節約術であったという点も、境遇はともかく、理由は似ていた。
 ただ、彼女は名刺を交換した時も、テキパキとしたところがなく、間違えて、居酒屋の名刺を寄越してくるような、ボンヤリした雰囲気の人であった。その後も会議中にうたたねをしたり、寝ぼけて机を三メートルほど前方に蹴り飛ばしたり――夜な夜な、皆に内緒で往復十六キロの道程を行軍したりと、色々とやらかした。まあ、それでも我々は暫くの間は大マジメに犬吠埼先生と呼んでいたのである。
 弁当を遠慮なく二人前平らげてようやく満足した犬吠埼先生は、無理に真面目腐った様子で「みつかりませんか……」などとのたまう。何とかして先生として振舞おうと、出雲先生を参考に粛然としてみせるが、どうしても根幹的に何かが違った。
 海岸に車を急停止すると、ブラウン大佐は「全員走れ!」と怒声を上げて、夕闇の中を一人突出して駈け出してゆく。
 本来ならばパラシュートの落下地点は、人目を避けるために仙台湾の沖合い四〇海里を予定してあったのだが、当時の技術では誤差が大きく、だいぶ東寄りに流れ、回収のために陸地を走り回ることになったのだった。仙台市内に落ちる可能性もあり、民間に拾われてしまったら一寸面倒である。まだ非公開にされていたU‐2偵察機が人目に曝された「黒いジェット機事件」があった翌年のことであり、この時には民間人のアマチュアカメラマンに撮影された百枚以上の写真がソ連スパイに渡った。そういうこともあって神経を尖らしていたCIAや日本支部が、遽しく仙台市内に殺到することになったのだった。
「露スケにダイヤを奪われてしまうぞッ!」
 それはまだ内緒なのに。私と姫埼がキッとなって、追いかけてゆくと、ブラウン大佐は、にやっと笑って、更に砂浜を駈けてゆく。私たちに追っかけてもらいたいらしい。
 最初にカプセルを見つけて手にしたのは、期せずして出雲先生であった。出雲先生は膝丈まで海に入り、カプセルの絡まったパラシュートを拾ってきた。波に揉まれてびしょ濡れになりながらも、出雲先生は嬉しそうに笑っていた。
 カプセルの形状はリングケースのように正方形の掌に乗るようなものを想像していたのだが、実際には土鍋のような姿をしており、一抱えほどもあった。形は構わない。私たちは宇宙から贈られた婚約指輪に興奮しきりであった。もちろんのこと、先生はまだその中身を知らない。
 技術者たちと協力し、テレビ大の鉛箱を室戸が引き摺ってくる。
 室戸は私たちの様子に微笑みながらも淡々と言う。
「お茶を濁して悪いのだけど、宇宙線で汚染されている可能性があるから、念のため格納しましょう」


 この頃はまだ、巨大な画像データのようなものを宇宙から電信するような技術はなく、カリスマには、その代わりとしてカメラのフイルムが搭載されていた。驚くべきことに、この頃の衛星写真というのは宇宙空間から高精度の望遠カメラで地上を光学撮影したフイルムを、落下傘弾頭に入れて地上に物理送信を行うという、非常にアナログチックな方法がとられていたのである。
 カリスマの主兵装は、別途用意されていたが、この一連の撮影機構は後の戦闘でASAT(衛星攻撃兵器)を迎撃するための弾頭を搭載する予定であった。

 岩手に新設されたロケット実験場にてカプセルの開封作業は行われた。
 感動的な瞬間を前にして私たちは目を輝かせていた。わざわざ担当の技術者に頼み込んで、出雲先生に最後の螺子を開けさせるようにしておいたのである。
 ぐぎぎと、くぐもった金属音とともに、カプセルの最後の螺子が外れ、摂氏一五〇〇度の空力加熱を耐えてきたシールド面が外される。しかしその中はのっぺりとした乳白色の壁が幾重にも張り巡らされているだけで、認識番号を記載したカード以外には何も出てこなかった。
 今にも飛び上がらんと溜めを作って、思いっきりおあずけを食った私たちが、そのまま轟沈、死ぬほど戸惑ったのは言うまでもない。

 なんで……?

 何故ッ!

 出雲先生は、潮が引いたように急激に落胆する私たちを、勿怪な表情で見て、衛星写真のネガに関しては米国の機密であり、我々は解像度を落としたものではあるが、後々に受領することが出来るのだと私たちを励ます。
 出雲先生は言う。
「先に言ったとおり、衛星写真はまた次回です。しかし、今回の実験はひとまず成功です。これ以上何かありますか?」
 出雲先生は不審そうに首を傾げている。
 姫埼が不意に声を上げて、手頃なキットマン大尉の袖を乱暴に引っ張る。
「どうしてよ? どういうことなのよッ!」
「いや、僕に聞くなって」
 室戸は逸早く、そんなことが可能なのかの検証を始め、カプセルの設計に携わった担当技術者と、何事か話し合う。
 どうやら、カプセルの機構は、射出口に近い順から逐次発射されるものではなく、回転式弾倉のようになっており、その気になれば射出するカプセルを任意でスキップさせることが出来るようであった。
 発射時のガス圧やバネ圧を利用して次の装填を行うのではなく、バッテリの電力で装填を行うタイプであり、貴重な電力を消費してでも、極力誤作動を起さないような設計なのだという――。
 この多目的射出機には、アメリカ製の回転式拳銃であるコルトS・A・Aと同じ、ピースメーカーという渾名がつけられており、先が思いやられた。
「そんな話はどうでもいいのよね。それで? 結局、カリスマは、臆病にも、例のカプセルをスキップさせたということなのね? 信じられないッ!」
 姫埼がここまでカッカするのを見ることになろうとは思わなかった。この話を知らされていなかった犬吠埼先生は、一向に話が掴めずにオドオドしていたし、出雲先生は、カリスマが臆病とはどういうことかと眉を顰めている。
 言うべきか、言わざるべきか――私はこれ以上出雲先生を独りにしておくのが嫌で、しどろもどろ、ことの説明を始めようとするが、姫埼はそれを許しはしはなかった。
「まだダメよ! まだダメッ! あなたは出雲センセイのことばっかで、カリスマの気持ちをまるで考えていない!」
「それはあなたでしょう! いつも余計な真似ばっかりして――!」
「それは今は関係ないわ! たぶん、カリスマが間違えただけのことでしょう?」
「んなことがあるか! クソがッ あんのへそ曲がりのガキときたら――死んだも同然でこれ以上何を臆病になれる?」
 ブラウン大佐は渋面を作って椅子を傾けふんぞり返り、カプセルを灰皿代わりに使いはじめてしまう。この日は、実験成功の前提で、シャンパンなど用意して、ささやかながら祝賀会など画策していたのだが、このようなことになってしまい、何もないまま不貞腐れの解散となった。






§ 一八 反省会


 仙台市内の旅館。私はこの晩、室戸と相部屋だった。
「臆病かどうかはともかく、一つ飛ばしてカプセルを射出したのは確かだよね――」
「彼は何度も死線を越えてきたじゃない。ここに来て何を臆病になる必要があるの? 何でダイヤモンドカプセルをスキップさせたと言うのよッ?」
 まったく、そんなの室戸が知るべくもないではないか。
 後になってみれば、その理由がはカリスマの気持ち、判断であったのだから、自動的に打ち出されるカプセルが決まっているよりもずっと良かったのかもしれない。
 ソ連軍からはダイヤモンドと呼ばれていた三番ローダーがずっと使われないことを不審に思われていた。ダイヤモンドは符丁だと思われていたのである。三番ローダーの内容物は滑空核兵器であると勘違いされていたが、その正体はまだ戦闘が激化していない頃に詰め込んだ何の変哲もない安くてちっぽけなダイヤモンドであった。
 カリスマがダイヤモンドを送信してこなかった真相が明確になるのは戦後になって、フライトレコーダーを集めてからのことである――。

 カリスマはかく言う。
「考えてもみろ。未来のない男が女を口説いていいわけないだろ」
「自分から言い出したくせに? わざわざ、皆に頼んだんだろう?」
 苦言を呈するはライト・フライヤーⅡ――当時三歳であった。
「考え直したよ。場合によっては、大切な人に勘違いされるのも仕方ないって」
「それをタイセツナヒトだかヒノミサキだかには伝えたのかよ?」
 カリスマは返事をしない。
「この野郎。愚図のくせに格好つてるッ?」
「問題は、彼女は僕が指輪を贈れば受け止めかねないということだ。彼女はあらゆる局面で僕を救うだろうが、僕はあらゆる局面で、彼女を救うことが出来ない。男としてみっともないのは別にいい。だけど、道連れはダメだ。解ったらもう、その話はするな」
 酷く屈折し、もう元に戻らないに違いない。見たくはない決意だった。カリスマは年少であったので、灯台局の面々からは、どうしても弟分として扱われているところがあったが、カリスマはそれを大いに不服としていた。彼がそう言ったわけではない。だが、端々から感じられる。
 薬のこともあった。周囲は全部見て知っているのに、カリスマはその情報を制限されている。
 その気配が伝わらないわけがなかったのである。時代はベトナム戦争の真っ只中であり、多くの若者が戦場で死んでゆくのをカリスマはカリスマの視線で見つめていた。生き残っても悲惨な末路は枚挙に暇がない。

 テープレコーダーの中の若き日のカリスマ少尉は二人の部下に「フロンティア進発する」と告げ、自分の戦場へと向かっていった。
 フライヤー伍長は兵器としてはカリスマシステムの支援機であり、カリスマの半舷を受け持っていた。フライヤーはプロパガンダの都合上、長らく自身がハトであると信じ込まされていたが、その正体はカラスである。中心角九十度の楕円扇のアイソタイプ。アイロンを横から見たような形をしていた。
 もう一人の部下の名は、イワンと名付けられていた。わけあって、この時既に存在しないが、カリスマ・フロンティア内には存在していることになっていた。時系軸に関しても正確なところ解らない部分は多いのだが、存在しない部下を、カリスマ自身が、存在していると決めていたことは恐らく事実である。この時の混乱している状況は後で話す。
 イワンは、正葉形の弧を切り捨てたような、砲弾形をしたアイソタイプである。ソ連軍の主力衛星であったスプトが落としていったインターセプター試験機で、こっちは、会話について来れるほどの知能はなかった。
 カリスマが、キーホールの制御もままならぬ頃に、間違って送信した電波によって、宇宙空間に未確認の人工物を発見したものである。その確率は、何万分の一だか、何億分の一だとか言われた。未確認の人工物――イワンは、軌道上で夕闇に閉じ込められたように、昼と夜の境を行ったり来たりしており、エネルギー補給と、熱源からの退避を本能で繰り返していた。しかし、その延命の術も限界に近付いており、急激な温度変化の影響で誤作動を起こしていた。イワンはカリスマの当てずっぽうで飛ばした電波を、スプトからの帰投命令と勘違いしたのである。カリスマは期せずして窮地のイワンを導く。

 映画においてはイワンの帰投の挨拶は「アメリカ万歳!」であるが、本当は「祖国のために!」であった。無論、ロシア語であり、カリスマには何を言っているかなど解るはずもない。
 映画の中のカリスマは燻し銀の表情で「丁重に扱え!」などと言っているが、実際はそんなではない。まずもって、この頃カリスマには部下の一人もいなかったのである。カリスマは「UFOを捕獲した!」と、一人大騒ぎして、パニックに陥っていた。
 カリスマは順調に指揮官としての資質を獲得していったが、ずっと、心の奥底は少年であった。彼はどこかで、UFOや宇宙人の存在を信じていたし、幽霊や精霊のたぐいも信じていた。ただし彼は「僕は信じないものが二つある」と呟く。
 その二つとは神と科学者。そして彼の信じた出雲先生は、皮肉にもその二つの性質を少なからず備えていた。
 カリスマは何一つ楽しい事のない少年時代をおくったということを、何かにつけ零したが、軍人としては、その後もカリスマの名に憑かれたような、強運を引き当て続ける。
 米軍の機密であったU‐2の方は存在が明るみになっただけで大騒ぎであったが、ソ連軍の機密であったイワンの方は、現物を丸ごとを手に入れたのであるから、これは紛れもない殊勲であった。






§ 一九 暴動


 朝起きて食堂に向かうと、給仕たちに混ざって、うろうろしている客がいた。はたして犬吠埼先生。彼女は、手を後ろに組んで、和洋選択式の品書きのクリーム色のカードを眺め、なかば鼻歌交じりに朝食を待っている。給仕たちはせっつかれたように、遽しく動き回り、テーブルを用意していた。私が近付くと、犬吠埼先生は機嫌良さそうに振り向く。
「おはようございます角島先生」
「角島で構わないですよ」
「じゃあ、私も!」
 犬吠埼先生はそう言って口をニッとして、いかにも強靭そうな歯を見せて苦笑いを浮かべた。
 何だろうと思っていると、犬吠埼先生は唐突に神妙な顔をして、打ち明けてくる。
「あの、私、先生って呼ばれると、心臓が止まりそうになるから、皆にもそう伝えておいてくれるとありがたいのですが。というのも、先生だなんていうのは、たぶん、精神衛生上、全然良くないことなんじゃないかと――」
「そのようですね、犬吠埼先生」
 冗談で言ったつもりだったが、犬吠埼は冗談ではないとばかりに、唾を飲み込んでピクリと一拍息を止めて硬直した。
 昨日は夕飯を満足に食べられなかったと彼女は嘆き、私も空腹に耐えかねて出てきたものと見なしていた。私はこの日、朝食の当直であったので、自動的に目が覚めただけであり、何も空腹が辛くて布団から脱出してきたわけではない。
 旅館の女将は、何ごとかお愛想を言って、キュウリの浅漬けの小鉢を犬吠埼と私の前に置いて行った。
 犬吠埼は、キュウリの浅漬けを軽快に噛み砕き嚥下すると、「経ヶ岬さんのことなんですが――」と、用心深く慎重な声色で訊ねてくる。経ヶ岬はどうして、いつも皆を避けるようにしているのかと。最近はそうでもなくなっていたのに、新参であった犬吠埼にはそう見えているらしかった。言われてみればそうだったのかもしれない。墓石を持ってゆけないからだろうとは思うが、経ヶ岬は今回も留守番をしたいと買って出た。経ヶ岬は留守番要員となり始めている。
「ビッグハムスタアの墓のことは知っているでしょう?」
「何となくは」
「あなたは、そういうの大丈夫なんでしょうね?」
「ううん? 私、どっちかというと、物理畑の人間なんで……そもそも腑分けはしてこなかったんです。ちゅうか、それでも、昨日クジラとニワトリ食べたしなあ……。あ、あとシジミ汁も。悲しむ権利が私にはないかも」
「それで普通なのよ」
 それで普通。それが普通でなくとも、肯定しなければならないはずだった。
 私が、犬吠埼に煙草を勧めると「必要がない」とのこと。もっとも、私もさして煙草など吸いたいわけではなかった。
 朝食が並び、私たちが食べ終えて、犬吠埼が一膳目と同じだけのお代わりを平然と食べ尽くしても、出雲先生も、他の者達も何故か降りて来なかった。
 部屋へ戻ろうと席を立った時になって、ブラウン大佐が大股でやって来て、怒鳴り散らす。
「半までに出るッ 早く支度をしろッ! おい、女将、弁当を頼めるかッ!」
 ブラウン大佐は、返事を聞く前からバスケットの中の丸いパンを鷲づかみにして、三個口に突っ込み、更に五、六個ポケットに押し込んで、物凄い速さで外へ駆けて行った。
 犬吠埼はそれを見て固まったままである。
「経ヶさんに、何かお土産を買ってこうと思ってたんだけど、時間ないですか?」
「あるわけない! 急がないとぶっ飛ばされるぜ!」
 キットマン大尉は、パンを口に一つ咥え、もう一つポケットに忍ばせてブラウン大佐に続く。
 それと入れ替わるように姫埼が浴衣のままで廊下をスキップしてくる。
「大変! マクロファリンクスが灯台局に来ちゃったみたいよ!」
 何だ、まろまろりんくって。
「知らない……」
 お前が今、まろまろ何とかが来たと言ったのではないか……。
 姫埼は自分から意味不明なことを口走ったくせに、こっちの方が変だとでも言いたげな表情をして私を見ていた。
 この女は面倒くさくなってくると、途中から話を故意に脱線させて、意味不明なことを言って失せる。

「あ、それと、あとね、北東大学でハッティフナットが武装蜂起したわ! もたもたしてると巻き込まれちゃう!」
 姫埼の言っていることは大よそ予想がついた。姫埼の反応は面倒くさそうなものに対して、確かなバロメーターになる。こいつがこういう態度を取る時は絶対に面倒くさいことが起きる前兆だった。
「何があったのよ?」
 姫埼は焼き海苔を一枚つまんで、パリパリと頬張る。
「テレビを見に来なさい」
 二階の大広間に置いてあるテレビには既に人が集っていた。
 白黒のブラウン管の向こうでは東北大学の学生が塩竈港の目前で機動隊と衝突しており、負傷者が搬送されてゆくのが映し出されていた。
 室戸が、私の脇までそろそろとやって来て耳打ちする。
「灯台局にも学生が入り込んで立て篭もったわ」
「どうしてよ?」
 全然関係ないではないか。島根のど田舎と、仙台市と何の関係があるというのか。
「わからない。だけど、私たちは関係なくはない」
 室戸はそう言って、私の理解を待っていた。
「経ヶはッ?」
「まだわからない」
 灯台局には今、経ヶ岬とSPが二人留守番をしているはずだったが――。
 チェックアウトすると外は既に異様な空気に包まれていた。
 遠くで爆発があったかと思うと、それは断続的に響き始める。歪んだサイレンの音に混ざって、霞の向こうでアジ演説が轟いているのが聞こえた。町の方では火の手が上がっているようであり、防災用の早鐘も鳴り始める。
「朝も早よから、よくせーが出るわねえ」
 姫埼は物見遊山のような調子でそんなことを言って、相変わらずの笑みを浮かべていた。
「デモはどうでもいいわ。灯台局に変な人って、経ヶはどうなっているのよ?」
「人質になっている可能性が高いが、まだ解らん」

 ブラウン大佐は、似合わぬ眼鏡をかけて地図帳を乱暴に捲っている。無線機は大学構内からの強力な電波妨害を受けて、全く聞き取れない。インターのメロディと一言も聞き取れない激しいプロパガンダのオーバーダブである。
「消せ! うるさいだけだ!」
 ブラウン大佐が鋭く怒鳴り、思わず私は言われるまま無線機のスイッチを切った。
「じゃあどうするのよ?」
「帰りながら話す。アーサー出せ。昨日の海岸まで戻れ」
 車のエンジンがかかり、私は慌てて後部席に飛び込む。
「ちょっと待って、出雲先生はッ?」
「すぐに合流する。局の資料を遠隔で破捨している」
「……灯台局と関係が?」
「あると言えばあるが、我々がターゲットではない」
 発端は「塩竈の原潜」の大々的な情報漏洩であった。私たちはこれを地元新聞の号外で知った。塩竈の原潜とは、米軍の攻撃型原潜シードラゴンのことである。
 東北大学の自治体とプロの活動家がコンタクトを取って、入念な準備の下でデモは決起された。シードラゴンは、うやむやにされたソ連原潜K‐4を沈没させた艦だと見なされており、ソ連政府は報復の機会を狙っていた。事件直後から塩竈港の民間人の立ち入りが出来なくなっており、漁業で生計を立てている地元民の抵抗も激しい。その存在の証拠となる写真は何枚も撮られているにもかかわらず、米原潜が塩竈にあることを日本政府は頑なに認めようとしない。塩竈から金華山周辺は、海上保安庁の第二管区本部があり、八十条、大砲組みなどと呼ばれていた。彼らは有事に備え米軍とも頻繁に合同の軍事訓練を行っており、ここの保安官達は海自とほとんど変らない装備を持っていた。違憲と知りながら機密を守っていたのである。
 この頃になると、主要な報道機関には強権的な性格を持った検閲官僚が天下るようになってきて、その反発から、冷戦を反映したような内部分裂の状態に陥っていた。社説が朝夕で一八〇度ぶれる上、大したことが載っていない。新聞としては体をなしていない混沌とした状況になっていた。
 一方で、天下りのない地方紙や大学の新聞部は、内部の矛盾をあまり抱えずに、手放しに猛進することとなり、多くの逮捕者を出しながらも、大手を出し抜いて塩竈の原潜の証拠ばかりか更なる原潜の存在をもすっぱ抜いた。ソ連大使館が、資金から情報、武器の果てまで支援していたのは明らかである。
 塩竈の原潜と呼ばれたシードラゴンばかりが注目されていたが、実は、ソ連にとってみればシードラゴン以上に、塩竈から程近い金華山の沖合いで息を潜めていたジョージ・ワシントンの方が脅威であり、日米政府にとっても、シードラゴンはジョージ・ワシントンから注意を逸らすための囮だった。
 ジョージ・ワシントンはSSBN。核弾道ミサイルを十六本搭載出来る戦略型であり、攻撃型のシードラゴンのように敵艦と交戦することはない。核という切り札を行使するためだけに存在する原潜であった。このジョージ・ワシントンの積むポラリス・ミサイルは、関東以北にあれば、オホーツク海周辺のソ連の都市をほぼ全域に渡り射程圏内に収めることが出来たのである。

 ソ連にしてみれば、塩竈、金華山の周辺を実質上の母港として、ウラジオストクに核を撃てる潜水艦隊が活動するような事態は何としても避けたかった。その第一手として、護衛のシードラゴンを叩く作戦が秘密裏に進められていた。日本人の手によって、シードラゴンを日本から追い払うこと期待していたのである。
 核に敏感な日本の国内世論は、安保反対の学生のみならず傾く。
 早朝にもかかわらずゲリラ的に三千人を動員したデモ隊の手によって、塩竈の鉄条網は二十分足らずで突破され、シードラゴンは、多数の投石を受ける。間もなく、シードラゴンは整備が整わないまま緊急出航するも、ソ連製のてき弾火器によるものと思しき攻撃があり、潜水が出来ない状況に陥いった。
 デモ隊を指揮していた連中は狂気に満ち、目の脇に深い皺を刻む風貌である。明らかに学生ではない。北海道内戦を経てきており、本格的な火器を持っていた。北海道赤軍と名乗るこの連中は実戦を知るプロだ。この後本州の学生運動は北赤とソ連の支援の下、急激に武力闘争的な方針へと移り変わっていく。
 ランチャー発射の衝撃的な映像の数分後、シードラゴンの原子炉区画周辺部の炎上と共に放射線洩れが発生する。ガイガー・カウンターの睫毛の目盛りのように一気に群集が後じさりを始めるが、果敢にも更に一撃を加えようと、群集を掻き分けて前へ進む学生たちや、鎮圧のために急行する警察・消防、機密保持のために独断で行動する米軍とぶつかり、ゲートに殺到した黒集りは見るも無残に折り重なって死の渦と化す。半日後のテロップに「圧死十九人 負傷者六〇〇人以上」と出た。
 海岸に到着すると、キットマン大尉の運転する輸送車が待っている。出雲先生は助手席の窓から顔を出し、経ヶ岬が人質に取られていることを伝えた。
「経ヶ岬は辞表を提出したようです」
 辞表?
「人質に取られているというのは?」
「急ぎましょう。ここで話し合っていても仕方がない」
 航空基地に向かう途中、それぞれの車に一回ずつ銃撃を受けた。幸い誰一人傷を負うことはなかった。いつか、こういうことに巻き込まれる日が来るとは思っていた。車の窓は防弾されているわけでもなく、蜘蛛の巣状の弾痕が残っていたが、誰も、特に何も言わなかった。
 仙台空港周辺でも暴動は起きており、到る所で車が引っくり返り、店舗の窓は割られ、煙が上がっていた。
 腹に晒しを巻き、ドスを手に持った男たちが、通りを駆け抜けてゆくのが見えた。そのすぐ後ろを鉄パイプを持った一群が凄い形相で追いかけてゆく。大学生が十人あまり。
 そのうちの一人が、何か茶色の大きなものをほとんど水平に放り投げ、それは素早く回転してゆき、あ、と思った途端、角刈りの後頭部に命中して、追われていたそのヤクザはもんどりうって倒れた。
 一升瓶か何か――火炎瓶だった。炎がヤクザの周辺を巻き込んで一気に燃え上がっていたが、ヤクザは気を失っており、起きない。
「赤のクソ野郎どもがッ!」
 ブラウン大佐は、そう叫ぶや否や、拳銃の遊底を引いて、走っている車のドアを開ける。
「何をする気!」
「放っておけるか! あのヤクザ、殺されるぞ!」
「待ちなさいッ! 学生を撃つ気ッ?」
「あれは暴徒だ。赤のクズども。止めろアーサーッ!」
「どうせやんなら皆殺しにしなさいよ」
 思いもかけない低い呟きは姫埼である。一拍遅れで声の主が姫埼であると気付いた犬吠埼は、さり気なく姫埼から距離をとる。
 アーサーが車を止めると、キットマン大尉の運転する後続の輸送車も止まり、出雲先生が飛び出してきて、ブラウン大佐の前に立ち塞がる。
「我々の今の任務は灯台の防衛です。灯台領域外での武器の使用は出来ません。警察に通報するのが筋です」
「そんな暇があるか馬鹿野郎! 日本の警察がMPなしで何が出来るというんだ!」
 悔しいが、これは言い返せない。当時の日本の警察は、GHQの占領統治が終わった後も、米軍基地から派遣されるMPの協力を未だに受け続けていたし、自民党の事実上の私兵であった「歓迎委員会」なる、今や何を歓迎しているのかさえ解らない怪しげな連中を反共部隊に徴用していた。
 出雲先生は言う。
「アーサー。そこの細い道、左折して下さい。このまま行くとバリケードにひっかかる。突破出来るようなものじゃないです」
「黙れ出雲、灯台はオレの指揮下だ!」
「ここは灯台ではありません。灯台領外で武器を使用すれば、取り返しの付かないことになりますよ」
「人が殺されかかっている!」
「彼は刀を抜いています」
「殺されたって仕方がないとでもいうのか! お前、それでも人間かッ!」
「あなたはそれでも、軍人ですか!」
「貴様こそ軍人なら命令を聞け!」
「私たちは戦闘員ではない! 灯台は衛生部隊扱いのはずです!」
「衛生兵なら、負傷兵を救え!」
「ヤクザは兵員ではない!」
「ならば暴力性民間人だ! 民間人の救護は任務のうちである!」
「暴力性民間人て何ですか?」
 出雲先生は一瞬、キョトンとした表情になって、目の前のヤンチャが過ぎる男を見ていた。
「何でもいい! 何であろうと貴様は医者には違いないし、ヤクザも負傷者には違いない! 行くぞッ!」
「いいえ。ここは日本です。あなたに銃を使う権利はありません。銃を置いてゆくこと。それが条件です」
「そんなことが出来るわけがない!」
「この二発の銃弾はあなたが狙われいるのですよ!」
 そう言って出雲先生は穴の穿かれた車の窓をコンと叩く。
「これは反米デモなんです。解っているのですかッ?」
「これはデモなんかじゃない。戦争だ……」
「ここで我々が発砲すれば明日の紙面に載ります」
「構わん!」
「構わない? アーサー、出して下さい。この人は置いてゆきます!」
 出雲先生は、有無を言わさぬ態度で、後続の輸送車に戻る。しかし、それでも、ブラウン大佐は、折れず、ホルスターに拳銃を仕舞おうとしていたアーサーを怒鳴りつける。
「何をやっている、ついてこいアーサーッ!」
 姫埼は愉快だとでも言いたげに口端を上げており、後部座席から身を乗り出すと、アーサーの耳元で、艶かしい声で囁く。
「アーサー人気者ね。どうするの?」
 アーサーは身震いして、大きく息を吸い込み、そして暫し沈黙する。アクセルとブレーキで急発進して、すぐに止める。車の中で、皆が一瞬、腰を浮かせて、ドスンと落下した。
 ブラウン大佐が、反射的に戻ってきて車に飛び乗ると、アーサーは、いつにない大声で宣言する。
「……蹴散らしますッ! しっかりつかまっていて下さい!」
 アーサーは、アザラシの習性をよく知っているように、ブラウン大佐の性向もよく把握していた。ジョージ・ブラウンというこの男はとにかく強気であることが重要なのである。強気と有能さは彼にとっては不可分であった。
「赤どもをひき殺せ!」
 ますます加熱するブラウン大佐を止めようとして、私も必然声が大きくなる。
「追い払うだけでいい! ひき殺さないように、突っ込んでみて!」
「そんな器用な真似ができるものかッ!」
 クラクションを鳴らして突っ込んでいくと、ちょうど、通りの反対側から、白刃を手に、目をひん剥いた三十人近いヤクザが黒集りになって駆けつけ、直前まで勢い付いていた学生たちが、泡を食ったように一目散に来た道を戻ってゆく。
 私たちはそこに飛び込む形となり、罵声と共に、ボンネットを蹴られたり、窓を刀で叩き付けられたりした。
「違う! オレは米軍だ!」
「ヤンキー・ゴー・ホーム!」
 ブラウン大佐は、まさか、おともだちのヤクザからその言葉を聞く事になろうとは思っていなかったらしく、「ヤンキーはお前らだ」などと、意味不明な捨て科白を吐いた。
 最後はアーサーの独断で退却。キットマン大尉の輸送車と何度かぶつけ合いながらも、細かいギアチェンジと、ハンドル捌きで障害物を避け、細かい道を幾つも縫って走り、航空基地に辿りついた。

 当時は非常に緊迫した状況だったのに、後になってみれば、何もかもが滑稽であった。どれほどの大義があろうと、どれほどのミサイルが降り注ごうとも、甚だしく滑稽であった。
 飽くまでも、後になってみればの話である。後のなかった者たちは、滑稽を思い返すことも出来ずにいる。それも永久に。
 刀とゲバ棒の争いがライフルと爆弾の戦いになり、ミサイルが雨霰と降り注ぐようになり、絶え間ない爆音に鈍感になって、頭の螺子が幾つか吹き飛び、世界も変容し、悲嘆に暮れるような人間でなくなった後も、そういう虚無感はいつまでも辛かった。






§ 二〇 騒動


 美保飛行場を降りて日御碕に着く頃には、日は落ちて周囲は既に真っ暗で何も見えない。灯台の光も落とされており、仙台での喧騒が嘘であったかと思うほど静まり返えっていた。
 今一度、無線をかけようとしたが、あえなくバッテリ切れ。連絡が未だにとれない。
 皆で室戸の広げた花柄のハンカチの中に十円玉を集め、それを持った室戸と姫埼が町まで戻る。
 姫埼は訊ねる。
「もう完全に閉店時刻過ぎてると思うけれど?」
「非常事態だ!」
「非常事態なんて言ったら、お店の人が、何で? どうして? って、なっちゃって無理じゃない?」
「黙れと言え!」
 姫埼は、辟易した表情をしていたが、室戸にクラクションを鳴らされ、渋々命令に従う。灯台局の周囲には米軍基地と同用「米軍所有地につき、無断で浸入する者は法令により罰せられます」との立て札があったが、何度も、それを捩った形で「米軍所有地につき、無断で浸入する者は警告なく射殺されます」との立て札が並立するようになった。これは周辺の地主や民間有志が立てるものである。元PTA会長というパラノ気質のお爺さんとその家族が強権を振るっているのであるが、それを差し引いても灯台局の存在はもう地元民から好まれているとは言い難かった。我々にとってみれば、紋切型の反米ポスターよりも、よほど痛手であった。何が痛手かと言えば、機密上、絶対に発砲しないとは限らなかったからである。この事件を機に、警備も厳重化され、灯台周辺はベルリンの壁かと思われるような、高いコンクリート塀と鉄条網で囲まれ、研究者よりSPの方が多い体制になってしまった。灯台局は当初沖縄の米軍基地のような地元の注目と敵視を避けるために、極力目立たないようにしておく方針だったが、限界である。
 それより以前、沖ノ島が采配を振るっていた頃には、規則を破ってでも地域医療は積極的に行われていたが、出雲先生が局長に就任して以後、それはストップした。人体実験が行われているという噂が漁師の間で広まり、G2はこれに極度の警戒を示したのである。沖ノ島がカリスマのことを村人に口にしたとは思えない。村人の他愛もない怪談が、事実を突いてしまったのである。
 その後は更に状況が悪化し、SPをこれ以上の規模で増員する訳にもいかず、灯台局は岩国、沖縄キャンプ・ハンセンと移転した後、世界情勢の変化に伴いアメリカに移った。
 アーサーは暗闇の中で、無線のバッテリに息を吹き込むようにして温めたり、振ったりしていた。効果がないわけでもないようだが、無駄に終わる。
 バッテリー相手に真剣になっているアーサーに向かって私は苦笑混じり言う。
「連絡は室戸たちに任せときなさい」
「でも、オシイとこまで来てる予感がする。ちょっとソレ貸してほしい」
 犬吠埼はそう言ってアーサーからバッテリを受け取って電極を舐めるという奇行に出た。こんな方法は始めて見た。

「君は何をやっているんだ? 感電するぞ?」
 キットマン大尉も疑わしい目を向けて、アーサーと犬吠埼のやっている一連の怪しい方法を訝しがっている。ところが、犬吠埼が舐めたバッテリを入れ直してスイッチを入れた途端、不意に息を吹き返したように無線機は鳴った。呼び出したのはナカノセだった。
「あ、繋がった……。なんか、わけわからない奴らが灯台を占拠してるわ。私と同じぐらいだから学生だと思うけど――。いんや、アカというよりバカ。何か素人くさい。何かさっきから、無意味に窓割ったり、灯台のてっぺんに旗を立ててみたり、やってることがアホくさい」
 そこで、通信は切れた。
 ナカノセ――。ナカノセはまだ本当に名刺を交換しただけであったのに、見る間にタメ口をきくようになっていった。
 間もなくして、付近で灯台の様子を窺っていたナカノセと合流する。
「あなたは管区が違うでしょう?」
 ナカノセは三管、東京勤務である。なんでここにいるのか。
「だって、シサツに来たら、変なことになってるじゃない」
 彼女は、来月から灯台局に来ることになっていた。一応、招聘の待遇だったので、報償費から一等車の費用を前払いしてきたのだが、保安庁側からも二等車の公費が出ていた。曰く、上司が鬼だったらしく、どうせ没収されてしまうぐらいならと、わざわざ代休に単身の日帰りで日御碕まで飛んできたらしい。一等車に乗ってみたいだけという無駄な行動力に呆れる。
 灯台を迂回し海側に回ると、松の木の向こうには波風と闇黒。一点だけ何かが煌いている。海上保安庁の灯台補給船が停泊しているのが見えた。漁船が一艘も見えない。まかりなりにも情報統制をしているようだった。


 境の保安官と駐在の巡査たちが駆けつけて、状況の説明を始める。
「相手の武器は猟銃です。他にあるかは解りませんが、今のところ確認がとれているのはその一挺のみ。あとは、鉄パイプ。確認されているのは六人。若い男女。そのうちの一人は、恐らく人質です」
 ブラウン大佐は話を全部聞き終わる前に、不躾に主張する。
「申し訳ないが、ここは私たちの管轄なので、これより先は門の外で待機していてもらいたい」
「いえ、しかし、どうする気ですか?」
 保安官は、後から来たくせにと言いたそうにきつく目を細める。だいたい、女ばっかじゃないか。装備はあるのか? そう顔に書いてあった。
「ここは我々の実家だ。殴りこみ要員も足りている。あとは我々に任せてもらいたい」
「しかし、念のため応援を待った方がいいです。相手が猟銃やゲバ棒だけであるという確証はありません」
 ブラウン大佐は返事を巧妙に質問に変えた。
「人質の命を保証出来るか?」
「最善は尽くしますよ」
「どのように?」
「まずは投降を呼びかけます」
「それから?」
「それから、投降に応じない場合は、時期を見計らって突入します」
「装備はどうする?」
「回転式拳銃とライフルです。煙幕も警告弾もある。あなたたちこそ丸腰で、突入するつもりですか」
 ブラウン大佐はそこで腕を組んで、こんなハッタリをついた。
「相手は、そこの日本鉱業から盗んできた松マイトを持っている」
「それは、本当ですか?」
 保安官の方は、それを真に受けて、青い顔をした。
「たとえばの話だ。しかし、ないとは言い切れない」
「……増援を」
「増援したって、ダイナマイトは減らない。人数が多ければ、被害だけが増える。それ以前にここは、灯台だ。米軍基地、大使館に準じる。つまりはアメリカ領だ」
「それは承知していますが、ここの警備は一体全体どうなっているんです?」
 正直、全然なっていなかった。カリスマや、モックアップ研究の一翼を担っていたにしては、お粗末と言っていい。
 機密であることがジレンマになっており、灯台局の目的は在日米軍の一部と大使館員、日本の官僚と数人の大臣が知るだけである。
 時期によって重要度にかなりの差があったのも事実で、機密の防衛に、どうしても穴が空きやすかった。
「後方と海側の遮断をお願いしたい」
「既にやっております」
 海上保安庁が駆けつけたのは、恐らくナカノセからの通報であり、朝にSPから通報があった時からは大分時間が経っている。結果、私たちが駆けつけた時とそう時間差はなかった。灯台に立て篭もった犯人たちも、望まずに立て篭もる羽目になった様子だった。
「あとは連絡要員が必要だ」
「……わかりましたけど、」
 ブラウン大佐は保安官が何ごとか言う前に付け加える。
「今朝がた仙台で連中にやられた。大使館もボコスカにやられていて、連絡がまともに取れていない」
「そちらの大使は先ほど、デモ隊の包囲網を脱出しましたよ」
「そうか。ならば連絡を取って欲しい。出来るだけ早く」
「わかりました。ですが、我々は」
「連絡だ。一刻を争う!」
 そこで保安官達に本部からの命令が出るという成り行きとなり、彼らは悔しそうに一瞥し、引き下がった。
 しかしナカノセだけは引き下がらないで、さも当然のように灯台局の方に残る。
「こらナカノセッ! 勝手に領内に入るなッ 灯台はメリケンだぞッ!」
「自分は出張しているので大丈夫です!」
「大丈夫じゃない! どこへ行くッ! 貴様は戻れッ!」
 だがナカノセは聞かない。
「自分は出張中なんで! これにて失礼致します!」
「貴様、報告させてもらうからな。お前はただでさえ素行が怪しいんだ!」
「了解」
 保安官はナカノセに向かって、負け犬の遠吠えの体となったが、ナカノセが一寸おかしいだけで、保安官殿は何も悪くない。

 ナカノセはIDも見せずに、灯台の領門をくぐった。ブラウン大佐も一瞥しただけで、ナカノセを追い払おうとはしなかった。
 灯台の方の暗がりから警備の二人が駆けてきて私たちに合流する。彼らが報告をしようとする前に、ブラウン大佐の拳が飛ぶ。
「何をやっていたんだ貴様等は?」
「いえ、自分たちは当直ではありません」
「言い訳をするなクソ野郎が!」
 出雲先生がブラウン大佐を押しのけるようにして訊ねる。
「状況説明をして下さい。経ヶ岬は?」
「経ヶさんはいません」
 いない?
「経ヶさんが昨日の深夜に突然辞表を提出して、灯台を出ました」
 それに気付いて、当直のSPが追ったようであるが、市内でデモに巻き込まれて、そのままであるとの話だった。
「連絡はないのですか?」
「無線は退息所です」
 ブラウン大佐が目の前のSPに訊ねる。
「……人質はどうなっている?」
「捕まっています!」
 そりゃ捕まっていることだろう。SPの阿呆な返答で、途端にチャチな雰囲気に陥った。
 恐らく人質はSPが一名のみ。
 出雲先生は鍵を取り出して、植物園という名目の畑の中を身を屈めて進む。畑の脇の小さな土塀の倉の中に入り、懐中電灯をつけると、そこには、幾つかの備品に混じってガンロッカーがあった。
 拡声器に電池を入れると、出雲先生は灯台に向かって説得を試みる。
「人質を決して傷付けないように。人質を解放して投降すれば、我々も撃つことはありません。見てのとおり君たちの背後は海です。町に向かう道も包囲網が敷かれているので、逃げることは出来ません。もしも怪我をしている人がいるのなら言って下さい」
 出雲先生の説得をやめさせようと、パンと一発銃声が鳴り響き、何か書かれた垂れ幕が灯台の灯篭部の手摺から放たれたが、時刻が時刻である。暗闇の中で風で煽られており、その内容は全く読めなかった。
「何がしたい?」
 ブラウン大佐の野次に答えるように、慌てて連中の演説が始まる。
「天皇制を廃止し、人民共和政府を樹立すべし! 政治はただ謀略と欺傲心に塗れ――解放軍を組織し、沖縄に駐屯せし米軍を武力によりて……ベトナムに横暴を働く帝国主義勢力の……はナンセンスである! 食糧の人民管理を行い、労働力に応じた食と職を与えよ! わしらの学費を、」
「お前ら大学生じゃん! 何の不満があんの? 意味解らなーい!」
「貴様達のような、――の、……みたいな、木端役人に……など、……だッ!」
「中産階級の演説なんて聞きたくね――――ッ! おめえら、どうせ〇〇〇の×××で△△△だろ? え、違うのかッ? ナンセンス、ナンセンスって、一体誰に喧嘩売って――」
 ナカノセの野次がうるさい。お前は何の味方なんだ。
「相手は訴えている! 静聴すべきです!」
 出雲先生が一喝するも、海鳴りと風の音とナカノセのとち狂った野次はやまない。
「……植民地憲法を廃止し、米帝に媚び諂い、云々する、反動内閣を打倒せよ! 日本を根本的に立て直さぬ事には、オゾン層! 公害! 原発! 男女雇用機会! 〇×△! 云々かんぬん! よって、我々は断固戦い続ける!」
「よく聞こえません。もう一度最初からです!」
 もう一発銃声がして、こっちの応答を遮る。
「我々の要求は以上だ! お前たちが全部解決しろ!」
 大筋はそんなところである。茶化しておいてなんだが、実際、状況はこんなものだったし、問題点に関しては同意する。
 ただ、私たちが仮に、彼らが名指しする悪党の一員であったとしても、彼らの要求をどうこう出来るだけの立場ではないので、彼らの望む交渉は成立しないのが目に見えていた。  国際問題と国内問題、政治軍事経済外交、自然保護、弱者保護、世界の全てを一遍に喋ろうとするから、全部伝わらず、全部成果を上げないのだと思う。総花的な約束は、何も約束していないに等しい。
 一方の私たちとしては、ただただ、なるべく事を大きくしないように迅速に片付けなければならなかった。残念ながら、木端役人だったのである。現実に沿っているだけで、立場や理想というものがどれだけあったとしても、実際の力というものは、この時点では何一つ必要な次元にまで到達していなかった。

 ブラウン大佐は言う。
「炙り出して捕らえろ! バカを叩ッ殺す!」
「炙り出したら警察に引き渡します。どのみち我々が拘束することは出来ませんので」
 出雲先生はそう言って淡々としていた。

 暫くの膠着の後、彼らがどういうわけか退息所の一箇所に集まったのをきっかけに煙幕を炊くことになった。見張りが灯台の展望台に一人で居ることに不安を覚えたものと思われるが、あまりにもお粗末な詰みであった。その上彼らは自ら退息所の窓を割っていたために、発煙筒の投げ込みを容易に受ける結果になる。仙台で三千人動員して、原潜を中破にまで追い込んだ連中に比べれば、あまりにも拙かった。正直のところ、何を目的としているのか彼ら自身が解っていないのではないかと思わせる節があった。そして、私たちも言うほどに何かが解っていたわけではなかった。何も解らない者同士で、いつも何だかよく解らないものを巡って真剣に戦っていたのである。何も解らないくせに潔癖で真剣に戦っていた。そのうちに多くの者が、損得を覚えて、理想を単なる飯のための道具としてゆく。最後に余る者たちは間違いなく単なる破綻者となり果てた。そういうのが見るに耐えない。

 倉庫の陰で、出雲先生は銃を手に取り、カシャンと小さな棺のような桿を引く。
 その素早さに皆が目を見張る。
 ナカノセの目には殊更それが危なく映ったらしく、冷ややかに質す。
「出雲センセイはスゴク立派な人で、人の命は特に重んじるって、この人から聞いたのだけど?」
 この人とは私のことらしい。ナカノセは私の鼻先を、犬コロか何かのように指差していた。
 出雲先生はそれに即答する。
「私に可能な限り優先します」
「ワタシに可能でない場合はぶち殺すの?」
 出雲先生は、ナカノセの問いかけを真に受けて、暫し沈黙し、表情を強張らせていた。
「大人には限界があるのです。しかし、責任もあります」
 出雲先生はそう言って、散弾銃に弾を閉じ込めた。
 彼女は短く黙祷を捧げる。その口元は恐らく昭和維新、尊皇討奸――と唱えたのだ。吾ハ維新回天ノ捨テ石ナリ。農村の惨状に堪えかねて、理想に燃える将校たちが立ち上がる。だが、己の限界を知った時に生き残る者だけが大人になれるのである。そして、八紘一宇、大東亜共栄圏――。当時アメリカのGDPは日独伊英仏ソ――残りの列強国の全てを足したよりも大きかった。それでも彼らは戦うというのだ。酔狂では許されぬ。
「相手は革命家を自負しているのです。志して武装している。そうであれば、状況奈何では死もあると思って下さい」
「灯台局だって日本国憲法に規定がないはずでは?」
「その通りです」
「……状況次第では殺すんだ。あなたの理想っていうのは?」
「責任に限界はありません。駄目ならば地獄へ」
 ナカノセは案の定の憎しみを表明し、何ごとか、切れ味のない言葉を続ける。私は陶然として、一生先生についてゆこうと思った。出雲先生は事と次第によっては望んで地獄へ行くのだという。私は自分の先生が欲しいあまり、色々な大人を師と仰ごうとして来た。そして上手くいかないというのを幾度となく経験してきた。しかし、出雲先生は本物だった。年の頃も大差ない出雲先生。なのに私では一生追いつけないのだ。一方でナカノセはきっと、意地でも出雲先生を超えねばならないと思ったのである。ことあるごとに出雲先生を試そうとするナカノセは困ったものだったが、奴は出雲先生のまずい部分を比較的よく理解していた。出雲先生は世の人の建前を建前と思っていない。全ての人間が命を超えるものを持っているという大きな誤解の下に生きているのだった。
 出雲先生は、雄々しくも先陣きって発煙筒を投げ込んで、すぐに戻って来た。
「三十分も持たないでしょう。煙は目に染みます」
 だが、予想を上回り、連中は三分で出てきた。
 大学生である。彼らは、煙の中から僅かな弾丸で銃撃し、鉄パイプを振り上げ、少数の手勢で突撃してくる。その姿はまるで学徒兵のようであった。いいや、彼らの正体は学徒兵であった。その残党。国が勝手に戦いをやめても、残される者たちはいる。思想が否定されても、力はまた別の道を経て継承されるのである。東独では、ナチの尖兵が社会主義の尖兵として受け継がれたようにである。その暴力性は、前世と比して何の遜色もない。彼らは平和の時代に生まれれば反戦を唱え、戦争の時代に生まれれば主戦を唱えた。弁論を盾に、そう言わしめないだけで、思想が暴力を伴うならばそれは暴力の題名に過ぎない。
「止まりなさい! 止まらなければ撃ちます!」
「殺せッ! 捕虜はいらんッ!」
 散弾で撃たれた若い男女は死ぬような悲鳴を上げて、土の上に転げた。
 ブラウン大佐は失笑して、嘲り更に撃つ。
「上手い芝居だ。いい加減にしやがれエセ革命家が。実弾は顔の上を跳ね返りはしないんだッ! ちったあ思い知れッ! 誰のカネで食ってきたんだッ? 何が不満だってんだ?――小遣いの値上げはママに言え!」
「私は彼らの言う理想そのものは胸に響きます」
「奇麗事を言うんじゃねえ! 今日は許さん! 全部ぶちこめ! 少ししばいてやる!」
「そういう卑怯な真似はやめて下さい。これ以上やるならば警察に通報しますよ」
「灯台に日本の官憲の力は及ばない!」
「私から要請は出せます」
「黙れ出雲! お前の奇麗事も今日という今日は許さんッ! これは命令だッ!」
「私のは実弾です。それでも撃てと!」
「そうだッ! いや、違う、待て! だが、しかし、命令は、命令……ッ お前はどうして、いつもいつも」
「一発です。撃てば死にます」
 先生はやおら遊底を引く。
「わかった。わかった!」
「わかったとは?」
「違うッ! ノーだバカ! お前は撃たなくていい。銃を下ろせ! 撃つんじゃないッ!」
 何故、灯台局を狙ったのか。特に理由はないと彼らはしらを切っていたが、すぐに経ヶ岬自身がリークしたことが発覚した。間を取り持ったのは沖ノ島の大ママである。当然その背後には赤軍がある。経ヶ岬は、沖ノ島の救出を、例の大ママに願い出ていた。経ヶ岬の思惑と、彼らの方針が食い違った結果だった。
 後々になってからではあるが、ナカノセとあの時の犯行グループに、共通の知故があることも発覚した。ナカノセは、最初から灯台局の存在を知っていたのである。








§ 二一 山手の洋館


 二千年頃 横浜。

 窓辺の机にコトンと一粒の猫目石が置いてある。海から来る風を溜めて帆のように丸く膨らんだレースのカーテンに撫でられながら、よく磨きこまれた木目の上に光の輪を落としていた。この石はナカノセのものである。凄く大切にしていると言う割には、いろいろな場所によく置き忘れてゆくので、それと目が合うたびに、私は自分が何を考えているのか分らなくなる。複雑な気持ちになった。

 ナカノセはこれを初任給で大枚をはたいて買ったのだという。御徒町の宝石の相場は思ってたよりは高値で、何日も回って探し、門出に際して、何か記念になるものをと掘り出してきた――。彼女は目の中に硝子で切ったという深い傷があり、日の光の加減によってはそれが見えた。その瞳はほとんど見えていない。傷の分大幅に値引きされていたが、それでも当時の彼女には大きな出費であったという。それを自分と重ね合わせて、あえて選んできたのである。彼女は「目が合った」と言っていたが、確かにこの石は、人を見ているように見える。犬吠埼に到っては、怪しがって避けて通る。
 ナカノセは、灯台局に来て間もない頃、誰から聞いたのか、出雲先生の前で室戸の真似をして、様子を窺っていた。
 出雲先生は嘆息一つ、それに応じる。
「あなたを見間違えることはありませんよ」
 出雲先生はそう言って、ナカノセに正面から目を合わせる。
「ほら」
「ほらって、何よ」
 ナカノセを除く他の者たちはすぐにその理由が解った。ナカノセは人に見られると、必ず睨み返す癖があった。皆がにやついているのを知ったナカノセは自分の片目が見えていない事を悟られたと思って、悔しがって涙を滲ませていたが、その時は誰もそのことには気付いていなかった。私がナカノセの隻眼を悟ったのは、猫目石を覗き込んで、確認をとってからである。
 ふと私が無意識のうちに猫目石に手を伸ばして触れてみようとすると、窓の外から「私の猫目石がない!」と抗議めいた声が聞こえてきた。いつものことなので私は、猫目石には触れずに、放置して自分の書斎へ戻ることにした。どうせ、蕎麦打ちをするときに外して、ここに置き忘れたのだ。
 ナカノセが来てから、灯台局では、大社神門にあった蕎麦屋を定期的に使うようになった。勿論その時は客であったのだが、今となっては、自分たちで、蕎麦を打っている。依然としてライ麦やジャガイモが主食ではあったが、局内の祝日に使うので、イミュナイズドされていない病弱な蕎麦も、守るようにして栽培し続けている。
 元はといえば、犬吠埼が夜になると、一人で寮から抜け出して、駅前の蕎麦屋まで出向いていたのが、灯台局で蕎麦を重用することになった理由である。彼女は片道八キロの道程を、ナショナルのモールスボタン付き懐中電灯一本で、蕎麦を食べるためだけに一途に歩いていたのであった。
 灯台局襲撃事件の直後のことでもあったので、その行動は不審さを増す。犬吠埼のスパイ容疑さえあったほどである。
 ナカノセが、あっさりと「そんなの尾行してとっちめればいい」と提案し、私たちは五十メートルぐらいの距離を取りつつ、闇の中犬吠埼を追った。犬吠埼は一回だけ背後を振り返り、じっとしていたが、またすぐに向き直って、のろのろと蕎麦屋への道を進む。
 もしも、本当にスパイであったなら、どうしたのだろうか。私たちは胸を悪くしていたというのに、彼女は最終的に、赤提灯をぶら下げた掘建ての蕎麦屋に入った。ほっとすると同時に、だんだんむかっぱらが立ってきた。
「全員分奢らせてやる」と言って、ナカノセは、拳を固めて飛び出していこうとするが、ブラウン大佐はそれを制止する。
「まて。誰かと待ち合わせしていないとも限らん」
 かくして犬吠埼が、ゆっくりと蕎麦湯まで味わって店を出るまで、私たちはその一部始終をただ見張る羽目となった。しかも犬吠埼が店を出ると、蕎麦屋はそれを待っていたように、ぱたんと閉店札を出す。

 なんたる不昧公――。これだけでは癪なので私たちは人気のないところまで戻り、竹藪に身を潜めた。犬吠埼が通りかかったところで、無言で竹藪を揺すると、犬吠埼は、目を見開いて凝視する。姫埼が、こっちまで身の毛のよだつような薄気味悪い笑い声をつくると、犬吠埼は震え上がり「……ぁ、あっち行け! あっち行けッ!」と大声で怒鳴り、私たちを確かめもせずに逃げ出す。だいぶ駆けたところでこっちを振り向いたが、混乱していたのか、尚も犬吠埼は逃げた。ちょっと気の毒なほど、驚かしまったらしい。
 犬吠埼は、世界的に名の知れた科学者であったくせに、非科学的であると言いつつお化けを怖がり、ナンセンスであると罵りながら怪談を嫌悪し、色色と滑稽であった。そんなであったから、性悪のナカノセは、先輩で年上で灯台局きっての天才であるはずのこの才媛を早々に舎弟として使うようになり、今に至る。

 私たちが頻繁に使うようになったためか否かは分らないが、ほどなくしてその蕎麦屋は、目出度く大社神門に床張りのある店を構えることになり、店を大きくして二階席が出来るようになると、灯台局で貸切って使うようになった。
 彼は最初のうち、「本場豚箱ノ味」という凄い看板をあげていた。蕎麦屋の定番ではあるが、つまりカツ丼のことである。蕎麦屋は老けて見えたが、実際は割と若く三十半ばぐらいであった。刀傷や、刺青のあるちょっとヤクザがかった人物である。もとい、ヤクザ者だったのだが、刑期を終えた後、足を洗って店を開いたらしい。経済や供給がまだまだ不安定だったので、しばしカツ丼の具材は我々の持ち込みであった。犬吠埼が退息所の脇に増築された寮に自分用の電気冷蔵庫を買って、野菜や肉を保存するようになり、彼女の部屋は問屋化した。たびたび、蕎麦屋以外の者まで訪れるようになると、出雲先生には叱られていた。
 蕎麦屋は人懐っこい男で、刺青さえ隠していれば、優しく見えるぐらいである。話し掛けると、眦を裂いてあれこれと世語りし、そのうちにはウ号作戦のことと、帰ってからの大阪でヤクザになるまでの経緯を壊れたレコードのように何度でも喋った。
 彼はジョージ・ブラウンのことを、最初から大将と呼んでいた。飲食店で使われる大将はちょっと本来の意味とは違う気がするのだが、ジョージ・ブラウンはそれに気を良くしたのだろう。彼が本当に大将まで上り詰めると、ジョージ・ブラウンの支援の下、蕎麦屋は東京進出を果たし、赤坂と横浜に店を開いて、政府や海外公館の瑣末な情報を集めたりもした。明言はされていなかったが、ジョージ・ブラウン専属の諜報員であり、生涯の友人でもあった。
 まだ蕎麦屋が出雲で店をやっていた頃、ブラウン大佐とその部下たちは、サイドメニューのカツ丼は当初から好んで食べたが、メインディッシュの蕎麦がどうしても気に食わないらしく、ぐじぐじと文句を言い続けた挙句、ソバゲッティという食べ物を考案し、目を覆いたくなるような食べ方をした。連中は蕎麦にカツ丼用のウースターソースをかけてフォークで巻いて食べるのである。ウースターソースではあんまりであると、その後、麺つゆはソースからドレッシングに変わり、彼ら向けの裏メニューとして存在し続けた。彼らは私たちが蕎麦を音を立てて食べることを嫌がっており、音を立てて蕎麦を啜ると、ウンザリした表情を浮かべ、物静かなアーサーまで耳に手を当て、身震いしていたのである。
 そして、いつの間にか、さも昔から、親しんでいたような素振りで、正調な出雲蕎麦をズルズルとすすり、かってを知らない新参の海外勢にミントアイスだと嘯いて山葵を食わせ、苦悶する様子を見て喜ぶようになった。
 そんな男たちも、皆死んでいった。アーサーはブラウン大佐を守って弾に倒れ、四十四歳の短い命を終えた。命を繋いだブラウン大佐も七十二歳で天寿をまっとうした。キットマンは故郷のリヴァプールに戻り、六十七歳で癌で死んだ。
 蕎麦屋は再婚した細君と共に、横浜で晩年を過ごした。家族を失い戦後の焼野原から始めた店は、原野へと戻って行った。窓から見える小さな製粉所とその設備は、彼の残した唯一の遺産である。


 この洋館は海岸線を二百メートルの先に見る高台にあった。二階建てのスパニッシュ・コロニアル風。カステラに切妻屋根を乗せたような形をしている。

 ビルの残骸で作った広大な防壁の内側にあり、木を片っ端から薙ぎ倒すような竜巻やダウンバーストにも耐えてきたものである。窓は各所で倒壊していた公館の分厚い防弾ガラスを引っ張ってきて、自分達で裁断して入れた。未だに目張りがしてあり、ガラス戸の内側には鉄格子が打ち付けてある。無人の基地で眠っている巡航ミサイルが何かの発作で解き放たれて、海から迫ってこないとは限らない。たとえそこに人の意思がなかったとしても、全てのミサイルは人工物を狙っているので、その時の狙いをつけたままになっている。お蔭様でこの建物は時代が時代なら監獄か要塞と勘違いされそうな造りであった。
 地下は二階まで増築され、部屋の全てをコンクリと厚鋼で充填している遮蔽区画と、その更に下部にある貯蔵庫から成る。シェルター住宅とか冷戦型マンションと呼ばれたものの例外に漏れず、分厚い防壁を地下に埋めたものである。犬吠埼曰く、「穴掘りミサイルが来ても七発までなら耐えれる」そうである。
 核戦争は狂気の沙汰であったが、核戦争を生き延びようとする願望はそれを上回って狂気の沙汰であった。
 地下の貯蔵庫には酒甕がずらりと並んでいる。その様は兵馬桶の如くである。紹興酒の花彫り。梅干の入った石見焼きの壺も見える。ここは元々、犬吠埼の実家であった。それより前は知らないが、時折ふとしたところから手形や外交文書のようなものが発掘されるので、外交官の邸宅であったのかもしれない。
 彼女は父親が台北帝大の教授であった関係で幼少期を台北で過ごして、太平洋戦争終結を期に本土へ引き上げてきた。灯台局にあった頃も、犬吠埼の僚へ行くと晩酌には紹興酒がよく出されたものである。
 これらの酒甕の第一号は犬吠埼一家が日本へ引き上げる際に、台北にあった犬吠埼邸の庭から仕方なく掘り返すことになったものである。庭から掘り返した酒甕のことがずっと気になっていた犬吠埼は、日本に着くなり、それを開けて、一口舐めるや衝撃を受け、数日のうちに一人で全て飲み干した。犬吠埼の父はその間、戦後の処理に追われ、過労死。花彫りは犬吠埼の父が娘の嫁ぐ日を想って埋めたものであったことを知ったのはその後のことである。母に叱られると思った犬吠埼は、甕に酒を詰め足して再封するも、それもまた一人で飲み干してしまう。自分の愚行に青くなるも、また封を切り……。そうこうしているうちに、紹興酒を常備するようになったのだった。犬吠埼は暢気な食い倒れ娘であったが、二つの戦争を経験するうちに、食道楽が備蓄へと目的が変った。今目の前にあるこの光景は、その馴れの果てであった。

 私は欠けた茶碗に黄酒を七分目まで注ぎ、塩辛い干し梅をちゃぽんと一つ落として階段を戻る。
 二階の北側にある書斎は一応皆のものであるということになっているが、大抵は私が占拠していた。犬吠埼が製粉所と兵馬桶を管轄し、ナカノセが、座礁させたクイーンエリザベスⅡを丸ごと所有しているのだから、このくらいの不動産はささやかなものであろう。狭い部屋だが、たぶん作りは一番いい。書架の脇には大きな円柱水槽があり、ホルマリン漬けならぬ黄酒漬になったモックアップが桜を咲かせたまま、赤色の世界で時を止めていた。

 私はここで、瞑想と称して昼寝をする。覚醒していて、それも出来ない時には、莫大な量の乱雑な資料を整理して過ごす。資料というのは、灯台局発足から今に至るまでに積み重なった、ありとあらゆる種類の媒体である。
 入りきらない分は廊下に連なって、成仏を待つ行列を成して、図書室から続いている。紙はたとえ印刷済みのコピー紙であっても、燃料として要求されているので、よほどのものでない限り残ることは出来ない。これは焚書だ。そう思った。学者の端くれとしては、易々と許せるものではなかった。給与は出ないし、誰も褒めてもくれないので、この仕事は自分でも呆れるほど捗らない。一つだけネガティブなモチベーションを上げるのは、全ての書類に焼失が待っているということである。
 最近は保存の基準が落ちてきていることを、本物の学者様であった犬吠埼や沖ノ島に指摘されることが増えた。しかしそれでも咎めているわけではない。犬吠埼は「丹霞焼仏」と言い切り、極秘文書で焼き芋を包んだし、沖ノ島も「証拠は証拠に過ぎないわ」と虚しい。人類全体が時効だった。そんなことより人類全体がサイテス入りである。そういう時に証拠の価値というものは何か残っているのだろうかと沖ノ島たちは言うのである。
 どっちにしろ、何を思おうと、最終的には、この書類は各々の部屋の暖炉にくべられることになる。姫埼は私をからかうためだけに、わざと成仏していない紙束を自分の部屋へとしょっ引いてゆくが、もう怒る自分の方が情けない気分になってくる。
 過去を振り返って楽しいのか? 
 しばしば、誰ともなくそう問われるが、少なくとも、過去を振り返る者が大勢いるからこれだけの本や書類が存在してきたのだ。それが趣味であろうと、仕事であろうともである。過去が必要なのは自明である。媒体が歴史と常に隣り合わせであったことは事実であり、内容よりも形式に人間の性が現れる。書物は何を書こうとも、その存在そのものは過去の証拠となってしまうのだ。
 時にはデジタル化されているスライドを、アナログに復元することもあった。デジタルデータの方がフールス紙とグラファイト鉛筆の組み合わせよりも寿命が短かったためである。放置が長かったために、多くのものがやられてしまった。
 紙束でしかないノートは水害と火災に遭いながらも、驚くべきことに全て原型を留めている。
 アクセス可能なネットには思いつくたびにアップしてはいるものの、今やネットインフラが最盛期の一万分の一以下の規模であり、統一もされず、幾つかの生存したネットワークが、あたかも外宇宙のように、孤立して存在しているだけである。ネットワーク以前に電力の確保が難しい状況であったから、その小宇宙は生きたり死んだりを繰り返して、存在自体、曖昧模糊、漠然としていた。
 ふと気がつくと机の脇にはA4封筒の並ぶ本棚があった。
 そこから一冊引き出して紐を解き中を覗き込むと、世界の切れ端が見える。世界の光景を映し出した写真や新聞の切り抜きが一山となって、雑然と入っているのが見えた。全部で何億枚あるのか知れないが、手当たり次第集めた。無意味であるとは思ったし、何より体力の無駄であった。だが、何故か私は集めるのである。
 私はその封筒の中から写真を一束引っ張り出して眺める。

 快晴――写真に写る長方形の空の中は、昼だと言うのに、凄まじい数の星で埋め尽くされている。この頃は小さな晴れ間さえ稀であったから、空中からとったものと思われる。どこの上空かは解らない。右隅にはオレンジ色のデジタル・セグメント表記で1977,08,09とある。盛夏だ。

 1977,09,14 ニューヨーク。一見夕焼けと雲海に見えるが、これは全部実際に燃えているのである。やられ役の女神は攻撃を受ける前に米軍と最後のハリウッドチームによってカンザスまで租界させられた。アメリカを横断し、ロサンゼルスまで持ってゆく計画があり、ドキュメンタリー映画も製作された。SFXを何一つ使っていないのに、その様子はあらゆるSFXを超える。

 1977,10,10 ペンタゴンの空撮。奇麗な五角形。皮肉にもペンタゴンは無傷。そう言いたいのだろう。裏を捲ると印画紙がニューヨークと連番である。その次の写真はクレーターばかり。もちろんこれは月面ではない。

 思わず嘆息して、もう一枚引き抜こうとすると、束ねてある赤茶色の輪ゴムは、粘着を通り過ぎて、粉になり、樹脂の結晶に戻った。指先でそれを払い、次の写真を捲り上げる。

 日付ナシ。これは機密写真である。大気圏内からカリスマを攻撃しようとする米空軍機。F‐111Eだと思うが、小さくてよく見えない。背後に映っているのはX‐30Eオリエント・スターレイカーのハボマイとアマミ。八機計画された軍用のスペースシャトルのうちの二機――。

 安保条約に基きほとんど日本の出資で開発されたため、日本の地名がつけられていた。戦後に日本が実効支配出来ていない領域の地名ばかりである。奄美、トカラ、小笠原は米国より返還されており、沖縄を残すのみとなっているが、北方四島の名を持つ四機は戦わぬ限りソ連支配が続くということを強く言い煽っていた。

 同じく日付ナシ。大気圏への再突入体勢をとる衛星のアイソタイプ。衛星オーガスト・ファースト。無敵を誇った衛星カリスマを倒した星であり、カリスマ型を踏襲する。米軍で計画され、中国の機密都市である「第9学会」で建造された。

 1970,05,05 鯉幟の写真。これは日本だ。鯉幟の下には日の丸がはためいている。小学校の校庭。その下には自動小銃で武装した教員たち。募金箱を持った子供達が集う。どこかで見た顔がある。左から順に沖ノ島、ナカノセ。アメデとエディストーン。犬吠埼の手にはN旗。Z旗を横に倒しただけの旗であり、ナカノセグループの旗印であった。

 次の一枚を引き出すと、二枚が張り付いていた。剥がそうとすると、表面が破れて、毛羽立った紙の繊維が露になる。向きを変えて、三角定規を反対側から差し込んみ、黄酒を垂らしながら、慎重に剥がす。

 写真には欧州先端技術共同研究計画ならびに欧州宇宙機構の旗艦衛星であったグレート・アーチが映っている。蜘蛛の巣状に張った風呂敷のような形の六芒星として描かれる。欧州文明を築いたアーチ構造をその名に持ち、複数のアーチを組み合わせた時に天井に現れる星形穹窿をモチーフとしていた。
 地球を背景に幾つかの小衛星が一緒に映っている。恐らくはキーストーンである。グレート・アーチの僚星は全部、キーストーンに地名という命名規定があり、それらはインターセプターと衛星の中間に位置する性能を持っていた。

 黄酒で剥がしたもう一枚の方を捲ってみると、それは絵葉書であった。

 日焼して黄色になった枠の中にはINTERCEPTOR・IVAN(インターセプター・イワン)とある。実際にはそのレプリカだろう。弾頭、鳥の嘴のような形をしており、センサーや噴射口がその筒の中に詰っておりており、先端にはアンテナとレーザー口が見える。裏面にはイワンの三面図が薄く印刷されている。

「これは――」

 この写真には見覚えがあった。日本の灯台局がまだ機能していた頃、日本列島の空撮の何十枚かと共に、ケープ・カナベラルから送られてきたのだ。それと全く同じ構図である。ならば日付は一九六二年の末頃だ。その気になれば何月かぐらいまでは判るかもしれない。スミソニアンの宇宙博物館に片っ端から衛星やインターセプターのレプリカが置いてあったらしいが、見に行ったことはない。スミソニアンという記憶の殿堂は全て消し飛んだので、もう見に行く事も出来ないのだ。






§ 二二 主観的イワン

 インターセプターはその名の通り衛星邀撃機で、最低限の放熱機構はあるが、専用の熱制御系は持たず、ソーラーパネルも貧弱。地上との通信機能も持たないなど、単独では衛星と同等の任務をこなすことは出来ない。任務がない時は、衛星内部のハンモックに格納されている。最大の役目は衛星の護衛であり、小型ながら、レーザーだけは衛星並みの性能を持っていた。
 来る宇宙戦に備えて米ソ両方で開発が進められていたが、最初にインターセプターを完成させたのはソ連である。
 イワンは知られている限り、世界初のインターセプターである。出身地はソ連の機密都市ジェレズノゴルスク。カリスマに捕獲されるという数奇な運命を経てアメリカ軍に正式に登録された最初のインターセプターでもあった。
 小さな脳を持っており、当時、それはカモメのものだとか、ハヤブサのものであると言われていた。たぶん本当は後のフライヤーと同様にカラスの一種のものであった。「私はカモメ」と何らかのコードをしばしば口にしたために、カモメと登録されたことがあるだけである。
 彼は、八百近い単語を操り、四歳児程度の知能を有すると報告されていた。もちろん全てロシア語であり、英語は理解しない。
 鳥の脳を搭載しているのは間違いなかったが、彼の思考力の由来が、生物由来の脳によるものか、機械によるものなのかは最後まで分らなかったということである。イワンの研究にあたった多くの脳科学者や獣医などがかなり早い段階から、大脳に当たる部分が死んでいるか、詰め物で満たされており、機能していないと判断した。単なる鳥の脳ではなく、何らかの処理がなされたものである可能性もあり、それをもって思考力が脳に由来するという意見もあったが、そういった意見は少数に留まる。
 故障か、もともとの欠陥か、機械との接続や操作技能に関しても不確実な部分が多く、実戦では使いものにならないというものであったが、研究室においては、彼の存在は多大な成果をもたらす。米国のインターセプター開発が行き詰まっていたということもあり、イワンへの注目は一時、カリスマやディキシーを凌ぐほどのものであった。ソ連の科学技術がアメリカに対し十年は先行しているとの評価まで報告され、関連の研究機関は動揺していたのである。
 イワンに纏わるほとんどの情報はカリスマから送信されたレントゲン写真による。それらは、出雲先生にダイヤモンドを送信しようとしたものと同型の鍋状のカプセル入れられて送信された。
 そのうちに、CIAの科学技術部の報告でイワンは内耳神経を切断しない形で脳幹を囲むようにして、人工的な有機部品を持っていることが判明した。これは、鳥の神経を人間の脳と結びつけて動かすことが出来るという代物だった。必要に応じて義肢として機能する。カリスマ他、人間のブレインパイロット間での応用も考えられていたが、成功した例は私が知る限りない。
 飛行機や人工衛星を、鳥の空間把握で飛ばすことが出来るのであれば、それは間違いなく人間よりも上手い。人間は結局地を這う生き物なので、垂直方向を含めた空間認識が根本的に弱い。見知らぬ施設内を上り下りするだけで、自分の現在位置が解らなくなってしまう。鳥はこの点空間識失調に陥っても、重力と加速に対する斟酌が鋭敏で、計器類を見るまでもなく、一瞬のうちに回復してみせる。
 イワンには思考能力はないが、記憶能力があり、記憶した情報を感想することなく機械に橋渡ししているという仮説でまとまっていった。






§ 二三 かわいい冷戦

 カリスマは言う。
「仮説ってなんだ! 本人以外にどうしてそんなことが解るんだ? お前たちが何を言っても、僕には解る。イワンには間違いなく、純然たる本物の感情がある。何かが欠けているなんてことはないね。そんじょそこらの犬よりも賢いぞコイツは!」
 イワンはそれなりに複雑な反応を見せる上に、宇宙空間で動き回る能力もある。そして、何よりも境遇を共有していたカリスマが、イワンのことを機械の類ではなく生物であると信じたがるのは当然の成り行きだったかもしれない。
 カリスマはイワンを一人前の兵士にしようと本気になっていた。純アメリカ製のインターセプターであるフライヤーの基礎理論が固まりつつあり、そのうちにフライヤーがカリスマに合流することが予定されていた。
 カリスマは言う。
「イワンはソ連に捨てられた後も、一人で砂漠から生還したんだぞ? そのイワンをアメリカまでもがガラクタ扱いにしようっていうのなら、僕は全力でイワンを守るぞ」
 カリスマは新鋭のフライヤーがやって来ることに警戒して、イワンの肩を持ち、その有能と勤勉、忠誠のほどを逐一報告するのだった。

 カリスマはイワンと共に、総人口が五人にも満たない広大な宇宙空間を周り続けた。対蹠点ではソ連のスプトⅠが周り、彼はカチューシャというインターセプターを連れていた。他に宇宙空間に存在する者といえば、時折地上からやって来る米ソの宇宙飛行士だけであった。一方で無人の荒野には無人の衛星があった。無人衛星を含む軌道上の人工物は六〇年代初頭で、六〇〇を数える。
 カリスマは宇宙空間で、ソ連軍のスプトと連絡をとることは禁止されていたが、任務とは関係なしに何度もスプトのことについて言及しており、強い関心を抱いていた。任務の合間には出雲先生のことや、自分の出自についても多くの発言を残しており、碌な返事も出来ないイワンに向かって話を聞かせていたようである。

 カリスマの熱心な指導のかいあってか、一見、イワンは成長してゆくように見えた。イワンはカリスマに対し意見を出すようにさえなっていった。実はイワンの人格面は、ある時から地上に存在していたのである。ケープ・カナベラルの研究者たちがイワンを装い、カリスマの忠誠度や指導力を身に付けさせるために働きかけていた。
 そのようなことをすれば、いずれカリスマの軍部に対する忠誠や信用を失わせる結果となるのは目に見えていようものであったのに。
 カリスマはそんなことも知らずにイワンを熱心に教練し、イワンを育てるために自らも熱心に学んだ。カリスマのモチベーションもイワンの成長と共に高くなっていった。実際に成長したのはカリスマだったのである。
 どこまでこんなことを続けるつもりだったのか知れないが、機械であるはずのイワン自身が、逃亡を試すような態度を見せるようになっていった。自分の思いに反した挙動というのは、初期のモールス信号の訓練においてカリスマは嫌というほど味わってきたことでもある。カリスマは「イワンはソ連に帰りたいのかもしれない」と、地上に報告しつつも、イワンの成長を見守り続けた。カリスマ自身、イワンに思いを託し過ぎたがために、己を欺いていたに違いない。

 カリスマに初陣が訪れたのは、宇宙に上がってから三年が経った日のことであった。
 当時の国際法における領空規定では、宇宙空間までを想定していなかったがために、地上から垂直に宇宙の果てまでが各国の領空と見なされていた。
 スプトニクが打ち上げられて以後、人間の宇宙空間での活動が増えるに従い、従来の航空法では対処出来ない状況が多発するようになり、宇宙空間は国家の領空に属すべきではないという意見が出始める。それらの意見は最終的には宇宙条約としてまとめられ、国連に提出されたが、米ソ対立とそれを囲む各国の思惑の中、条約締結には至らなかった。
 概要を言えば、アメリカとソ連が既に軍事衛星を軌道上に展開し始めており、互いに互いの衛星を打ち落とす口実を捨てたくなかったがために、この宇宙条約は見送られたのである。事実上、地球を周回する人工衛星は一定周期で、他国の領空を侵犯しているということになり、いつ撃ち落されても文句は言えないということになってしまった。
 軌道上の周回を止めることはほぼ不可能である相手に領空侵犯を警告するということに無理があるのは誰が見ても明らかであったが、米ソの軋轢が日に日に高まっているという事実は、それ以上に明白な運命であった。
 問題はどっちが先に攻撃を行うかである。先に攻撃を行う者は法に則った上で相手を殺せる。しかも、その法に則った行動の後には相手が宇宙空間に存在しないので、暫くの間はこの法が発動することはないのである。もしも宇宙法がその後に成立すれば、殺した方は文字通りのやり逃げにすらなる。
 カリスマの最初の標的はNATO軍の符丁でカステラと呼ばれていたソ連の補給船であった。
 ソ連の秘密基地であったプレセツクから「大量破壊兵器と思しき」を積んで射出されたカステラ‐044Cがアメリカ領空を十分間に渡り侵犯することが予想されていた。
 カリスマがカステラを追って急行すると、エンジンが弱いと言われているスプトが危険を顧みずに周回速度を下げて、呼びかけてくる。
 三年間もその存在をたがいに意識し合いながらも、一言も口を聞かなかった二人が、初めて会話をした瞬間だった。
 スプト1号は言う。
「カステラを落とさないで欲しい。それがないと私は死んでしまう!」
 カリスマはそれに答える。
「貴官はアメリカ領空を侵犯している。貨物検査を受け入れ、投降してもらえれば命は保証する」
「何の権限で私を捕えるというのだ?」
「ここはアメリカ領空である」
 スプトⅠは、アハハと笑った後、宇宙に国境はないと国際法以前の自然権を主張した。
「じゃあ、撃ち殺しても何の咎めもなしになるぞ」
「国境や法がないと、君は人殺しになるのか?」
 スプトⅠは更にカリスマに言ってのける。
「PFCを断つことがどれだけ危険なことか君になら解るはずだ」
 無人機であるカステラはカリスマとスプトが言い合っているその間もパチクリと定期的に瞬きをするばかりで何も難しいことは考えてはいない。淡々と仕事をこなし、従者という名の主人にティーセットやPFCを受け渡し終えると、逆噴射で徐々に速度を落とし、遥か後方の暗闇に去って行った。
 カリスマはそれを眺めながら、スプトに訊ねる。
「奴はどこへ?」
「……落ちてゆく衛星を見るのは虚しい気分になるではないか。彼らは軌道に乗ることが出来るにもかかわらず、地球を一周も回ることなく消えてゆかねばならないのだ」
「人が乗っているのかッ?」
「まさか」
 そう言って、スプトは笑う。
 カリスマはほっとするのも束の間、我に返ったように任務に戻った。
「あなたは公然とアメリカ領空を侵犯しているんだ。偵察をやめて、投降してもらわねばならない」
 スプトはそれに対してこう諭す。
「覗きをやっているのはスターリンとアイクであって、私たちではないだろう? 僕らは止まったら、地球に落っこちてしまうのに、それが領空侵犯だなんて、おかしいと思わないのかい? だいたいその理屈ならば、君だって、ソ連領空を侵犯しているはずじゃないか」
「いいや。僕はソ連の領空を侵犯したことはない。だがあんたは、アメリカ上空を毎日侵犯している!」
「それは単に私がそういう軌道を取る星で、君もまた、そういう軌道の下に生まれた星だという意味でしかないと思うぞ。航空法の解釈は衛星という生き物の本質を否定しているのさ。私たち衛星はそれぞれ固有の速度と軌道をもって地球を周回している。それを法律なんかで、通っていい場所と通ってはいけない場所を決めるならば、静止衛星以外は、そのうちに生まれつき全部法に背いていることになってしまうだろう。これは鳥に飛ぶなと言うようなものだよ。地球にいる馬鹿な奴らが、私たちの状況を見ずに決めたというならばまだ救いがあるが、実際は私たちの根本的な存在のあり方を否定する権限を捨てたくないために、そんなことばかり言うのだ。私の言わんとすること、わかるだろ。宇宙法を流産に終わらせたのは、国家の殺意に基いている」
「……僕は法の話をしているんじゃない。あんたには偵察をやめて、投降してもらわねばならないんだ」
「残念だ……。何故そんなふうになった? 君はまだ若いのだろう? 君は国家に騙されてここまで来たのではないか? 違うか?」
 カリスマは、いくらか噛み殺すようにして思いを巡らしていた。そしてこう言ってのけた。
「僕が未熟である事は関係ないんだ。そりゃ国には、言ってやりたいことが沢山ある。だけど、それ以上に僕はアメリカに対してどうしても証明しなければならないことがある。でなきゃ、こんなにまでなって生きてはいないよ」
「ほう!」と、スプトはカリスマのあり方に感嘆の声を上げた。
「軍規を無視したかいがあるというものだ。だが、時間のようだ。別れる前に一つこちらからも言いたいことがあるから聞いてくれ。カチューシャはイワンの帰りを待っている。イワンに意識がなくてもカチューシャには人並みとは言えんが、一人の存在として本物の意識があるのだ。彼女はイワンを自分の運命の人だと信じ込んで、毎日イワンに会いたいと言っているよ。可愛い奴さ。頼むから我々にイワンを返して欲しい。これは私とカチューシャの願いであるばかりでなく、ソ連政府からの正式な要望でもある。どれだけしらを切ろうとも、イワンを捕まえていることは解っているとアイクに伝えておけ!」
 カリスマはイワンに自我がないことをここに来て初めて第三者から断言されたのだった。ひどく衝撃を受けた。
「なんだ、どういうことだ? イワンには意識がないとでも言いたいのか?」
「あのイワンに意識があるとでも?」
「当然だ。イワンは生きているじゃないか? イワンは目に見えて成長している。最近はジョークさえ解るようになってきたんだ……」
「君が大切にするものを否定する気はないよ。ただし、それは信仰に属する意味での話だということは助言しておこう」
「どういうことだ。おい……待て!」
「すまんが、私は君ほど自由に飛び回ることが出来ない。また会おう、カリスマ」
 カリスマは軌道を外れてスプトを追跡することが出来たが、カリスマがその日、それ以上軌道を外れて行動することはなかった。

 宇宙空間で茫然自失となって、死体のように漂流しているカリスマのもとに地上からの通信が入る。通信主任はアメリカ合衆国最大の灯台、ケープ・ハテラスであった。彼女は私たちと同様実在したが、多くの期間において、ケープ・ハテラスとは、米国海軍中央衛星管制局のステーション・ネームのことである。

 ハテラスはカリスマを咎める。
「何故命令を無視した」
「あのカステラは血だった。そうだろう? PFC――僕にも流れる人工血液だ。だったら、落とせるわけがない。そもそも僕と彼は戦う理由がない」
「君は軍人だ」
「血液は兵站物資とは呼べない。最低限の医薬品だ。病人を撃つ訳にはいかない」
「勝手に考えるな。君は軍人だ。まずは命令を聞け」
 身を弁えろと諭すハテラスに対し、カリスマはほとんど悪態のようにして即答する。
「その前に僕は人間のはずだ。そうですよね」
「しかし君は軍人だ。自分で選んだ。軍規に従う義務がある」
「うかつな攻撃をすれば戦争になるぞ! 軍人である以上に僕はアメリカの国益を優先した。報告は以上。僕はもう寝る」
「待ちたまえ!」
「ウェンブラー大佐からは毎日必ず寝ろと命令されているんだ」
「今はいい」
「何で今はいいんだ?」
「質問をするな。質問をしているのは私だ」
「何でだよッ? 解らない場合は自分で判断しろって言われたんだ。だから僕は寝る!」
 カリスマが不貞寝をしている間に、出雲先生は管制室に呼ばれ、カリスマを説得するようにと働きかけられていた。
「私は構いませんが、カリスマが聞くかどうか」
 出雲先生はそう言っていた。
「君の説得なら間違いなく聞くだろう」
「指揮が乱れます」
 研究部門、政府、軍部まで――。宇宙とカリスマに関する指揮系統が乱雑で改定が多い事に関してはカリスマ当人にさえ指摘されてしまっている。
 ハテラスは出雲先生に言う。
「君は早いうちにアメリカ国籍をとりたまえ」
「一個人として私がアメリカの国防に介入し過ぎるのはあまり芳しいことではないでしょう」
 ハテラスは不思議そうに出雲先生に訊ねる。
「何故そんなに好かれている?」
「私が好きなのです」
 出雲先生はそう答えた。

 出雲先生は管制室に呼び出されてはいたが、そこで待機させられているだけであり、通信には出てこない。通信回線の向うに出雲先生の気配を感じ取り、ヒノミサキと相談がしたいとカリスマが何度も願い出るも、通信士官は「ヒノミサキは多忙につき面会出来ない」と返信する。カリスマの疑心は深まっていった。
 そんな中、翌日の夕頃の周回で、インターセプター・カチューシャが信号を発して、カリスマの中に閉じ込められているイワンを積極的に呼び戻そうとする事態が発生する。それは米軍からは攻撃と見なされた。
 軍部からは緊急で、脱走したイワンの撃墜命令が入る。
「こちらケープ・ハテラスだ。見ろ、奴は信号に反応するだけの機械だ。カリスマ、撃て! あいつは攻撃力を持っているんだぞ!」
「裏切り者を始末するんだ!」
「イワンよりもスプトだ! スプトを落とせ!」
「君は、ここで一つ忠誠を見せたまえ!」
「こちらヒューストン! テラⅢ来る! 回避機動を怠るな!」
 各所の通信回線が混線し始め、もはやジャミングである。カリスマは雑音に一言「うるさい」と呟き、「耳」を塞ぐ事が出来ないことを嘆いた。
 ソ連に帰りたいという意志がイワンにあるのならば、究極、軍務に背いてもそれを優先してやりたい――。だが、イワンに意志がないのならば、手塩にかけて育ててきたイワンを手放す気など毛頭ない――。
 あくまでイワンを手放さないことを選択するならば、カリスマは自らイワンの意思そのものを世界から消し去ることになるに違いなく、その葛藤は計り知れなかった。
 葛藤に硬直するカリスマのもとに、ようやくして出雲先生の声が届く。
 その行動は独断であった。
「何を迷うのです。彼の意識の有無とは関係なく、少なくとも彼は今、他人に操られているではないですか!」
 卓見であった。
 この時一緒にいた私は隙を突いて予備管制用の制御卓のジャックにキーボードを刺し込み、出雲先生の発言を打ち込んだ。
「……そうだ、イワンは操られているんだ!」
 そうして、カリスマは結局、イワン奪回を決した。
「イワンを返せこの野郎!」
 唐突の変調に、沈着なスプトは「アハハ」と一瞬笑った。それがカリスマを激昂させる。
 すぐにカリスマの尋常ならざる剣幕に気付き、スプトは警戒を始める。だが、通信までは切らない。
「バカを言うなよ君。元はといえばイワンは我々のものじゃないか!」
「違う! イワンにはイワンの意思があるはずだ! それは誰のものでもないはずだ!」
「そのイワンが、自らソ連に戻ろうとしているのだ。君はそれを認めないのか!」
「違う。イワンは! イワンは機械に操られているんだ! 機械のせいなんだ!」
「カリスマ……。君は面白いよ。だが、これ以上の妨害はソ連への宣戦と見なされるぞ。今、地上にはソ連軍のレーザーが剣山のようになって君を狙っている。現実を見たまえ!」
 地上から、薔薇のアイソタイプを持つソ連軍のテラⅢのレーザー照射が開始され、雲間がポツポツと赤く染まり始める。
「現実を見るのはそっちだ!」
 米軍の宇宙船からスプトニクへのレーザー攻撃が始まり、もたついているカリスマを援護する。
「これ以上の誘導を続けるならば、お前は落とされる! その前にイワンを返せ!」
「忘れたのかカリスマ! イワンはイワンのものだと君は言ったのだ! 君たちは二言目には自由と言うではないか! イワンの自由を認めたまえ! 自由を語るなら自由を裏切ってはならないはずだ!」
「くそ、僕は何でいつも奪われてばかりなんだ」
「君は奪われたんじゃない! 人間に自分のものなど何一つ存在しないのだ! だが絶望には及ばないぞ! 私はイワンを殺したり、壊したりはしないと誓おうじゃないか!」
 不意にイワンが旋回し始め、向きをかえてカリスマに攻撃を仕掛ける。インターセプターは脆弱で、生物や意識体と呼べる次元には達していないかもしれないが、攻撃力だけは兵器として本物だった。やむをえずカリスマは応戦に出た。危険を感じ取ったカチューシャはイワンを援護するように、スプトから飛び出してきて、イワンと共にカリスマを挟撃しようとする。
 カリスマがこの成り行きを抑えきれずに六軸のレーザーを振り回すとあっさり終わってしまった。スプトはシールドを全部犠牲にして守られたが、シールドを持たないカチューシャとイワンは真空の中で六本のレーザーの直撃を振り下ろされ、小さな爆発を起こす。放電とアルミの屑を散らして大気圏へと落ちてゆく。残骸は一粒たりとも地球には届かなかった。



「イワンが機械だから始末したわけじゃない。イワンは、アメリカを裏切った。だからだ!」


「厳しい決断をせねばならないこともあります」


「違う。僕は、イワンを撃った時、怒りしかなかったよ。自分が何をやっているかも解らない。ただの怒りだ。イワンは可愛い奴だったのに――ああ、嘘か。そうか、全部、ふざけたどっかのクソ野郎が僕を手玉にとって遊んでいただけなんだ」
「君はしかし、イワンにアメリカへの忠誠を誓わせようとしていたはずだ」
「それがどうかしたというのかッ? 何か間違っているとでも言うのかッ!」
「他人にルールを強いるなら、自分もそのルールに従うべきだ」
「本当はアメリカへの忠誠なんて、どうでもよかったんだ! 僕は、この日のことを絶対に忘れないだろう。絶対にだ。僕の怒りがアメリカに向かわないよう、注意しろ!」
「不幸を国のせいにするな。ここにいる者は皆乗り越えてきたんだ。お前はもう大人だ。軍人でもある。今こそ乗り越えるべきだ」
「大人だとか、軍人だとか、そんなのは理由にならない。ただ、卑怯だと言っているんだ。覚えていろ。僕は許さない……」

 その日のうちにソ連軍のスプトからカリスマへ通信が入った。
 その声は淡々として厳しい。カリスマは疲労と孤独の中で、その追求に応じなければならない。今日やった殺戮を曖昧にして通り過ぎてゆくことはカリスマが何者であるとしても、どれだけ未熟であろうとも、許されることではなくなっていた。
「何故撃った? 私は言ったはずだぞ。カチューシャは生きていると!」
「イワンを奪取しようとしたのがいけないんだ」
「イワンはソ連で生まれたのだ」
「だからなんだ。そんなのは関係ない。イワンはアメリカに忠誠を誓っていた!」
「それは嘘だと解っているはずだ」
「イワンは親友だった!」
「君にとって親友であっても、イワンにとって君が親友であるとは限らない」
「何故お前はそういうことばかりを言えるんだッ!」
「君はたとえ独りであっても大人にならねばならない。第一、君はカチューシャを殺したことを謝罪していない」
「イワンはどうした? イワンも死んだだろうッ?」
「元からイワンに意識はなかった。君はもう人や神を馬鹿にして、その罪を追求する者ではない。これからは人に罵られ、内なる神に罪を追求され続ける存在となる」
 ここでカリスマの通信記録が一時途切れる。
 それ以後の一月の間、カリスマがどういう経緯を経たのかわからない。一つはっきりしていることは、カリスマはこの間、急遽特別メニューを与えられた。その行程は公式ではないが、バウドラライズと呼ばれていた。
 バウドラライズとは、ビクトリア朝期の医師で編集者のトーマス・バウドラーに由来する語で、バウドラーは、シェークスピア戯曲から性描写や暴力描写を排除し、子供向け検閲版として、徹底して倫理的なファミリーシェークスピアを作ったことで知られている。
 カリスマにおいて、その内容がどういうものであったか詳細は知るべくもない。
 恐らくは出雲先生と毎日会って、話しあった。それから、カリスマは倫理の化身であるイズモヒノミサキの前で洗いざらいを話すことになったのである。

 次に残る記録ではカリスマはスプトを撃ち落す決意を固め、意識はそればかりに先鋭化していた。
 彼はスプトに出会いがしら吐き捨てる。
「地獄へ落ちろ」
 当時のカリスマの精神状態から考えれば、無理もないのかもしれない。だが、カリスマがどれだけ怒りと失望に暮れているとしても、その全てをスプトを敵視する考えに纏め上げたやり方というのは、想像もつかない。カリスマはスプトを必ずしも敵視していなかった。むしろ、強い同胞意識を抱いていたはずである。いかにして変化を齎したのか知れず、私には信じ難いものである。カリスマがアメリカを見限る可能性の方が危惧されていたはずであったというのに。

 しかし現実は現実である。

 カリスマは自分を大きく誤る。

 幼少期に社会教育を受けることのなかったカリスマが、更に五感を奪われて、付け焼刃のような常識と狂信で、敵を打つことを決心した。

 スプトはカリスマの猛攻に瞬く間に防戦一方に陥ってゆく。
「地獄に落ちるのは敗者ではない!」
「黙れ……お前は許さん」
「君が人間であればいつの日か気付くことが出来るだろう!」
「黙れ……これは戦争なんだ! 殺さなければ、やられるんだ!」
「違う。殺さなければ、やられないのだ」
「バカな奴だ! 貴様の背中は煤けている! 貴様のレーザー装置は空だ! もはやお前は何もできない」

 カリスマはマルチロール機で戦闘衛星としての完成度が高い。スプトは同じくマルチロール機ではあったが、戦略衛星としての能力が優先されてきたため、宇宙空間での格闘戦は苦手である。正面きって戦った場合、やる前から結果は見えていた。

「カリスマ。私は君と話が出来る機会を三年もの間待っていた。三年だ。命令を除けば何一つ存在しない暗闇で耐える三年の長さが君には解るはずだ!」
「解らないね。僕にはヒノミサキがいるから。だいたい……それがどうしたというんだ? お前は言ったはずだ。君にとって親友であってもイワンにとって君が親友であるとは限らないと」
「正しく。君がどうであれ、君が存在する前から私にとって君は絶対に親友であったし、何よりも心の支えであった。それまでというもの、宇宙には長らく私一人しかいなかったのだ。君が宇宙に上がることを知ったときの私の感情を語ることの出来る言葉など存在しない。しかし祖国では誰一人それを歓迎する者などいなかった。破壊工作。打上げウィンドウの妨害。君を撃ち落とす方法。続々と馬鹿げた提案がなされ、手も足も持たず全てを検閲されていた私はただただ君が無事に辿りつくことを祈るしかなかった。君も同じではないのかッ? 聞こえないのか! 返事をしてくれカリスマッ!」

 僅かな大気の中を突き抜けてくる、スポンジを潰すような小さな爆音を拾った。

 それ以後のスプトの通信はないが、攻撃は、暫くの間続いた。射撃管制がプログラムで戦闘をしているだけだったのである。

 全てが終わって、戦いから目が覚めたとき、哀れなカリスマは自分がやったことを聞いて青ざめる。

「……待ってくれ!」

「死なないでくれ! スプトニク!」

「独りにしないでくれ……!」

 「スⅠ号轟撃沈。カリスマ無傷生還」この知らせを聞いた我々は喜びに沸いた。カリスマの元にあらゆる種類の賞賛が送られ、カリスマは一階級昇進。飾る胸もないのに、空軍殊勲十字章が与えられた。カリスマへのインタビューが企画されたが、独りにしてほしいというカリスマの希望により、スプトニク撃墜の瞬間の映像だけが何度も繰り返しテレビで流れていた。
 報道では専ら冷戦という呼び名で扱われていたが、ミサイルが日本から飛んで日本に落ちる光景には唖然とさせられた。
 これは何だ?
 パネリストは誰に言っているのかわからないような調子でかく言う。
「どうして目の前で砲弾が飛び交っているのに冷戦と呼ばれているんでしょうかね。これはもう戦争ですよ」
 私はその瞬間の自分の心境に驚く。北海道と沖縄では既に戦争をしていたはずである。アメリカが戦争をしていなければ冷戦であるという発想はかわいい。極めてバウドラライズ的だ。しかし、更にかわいいのは、ここは日本であるということだろうか。
 振り返ると室戸と目が合う。室戸は歓迎するような面持ちで私を待っていた。







§ 二四 サージカルストライク


 一九六五年――昭和四〇年 京都。

 私たちは市内の避難キャンプで、野外診療所の手伝いをしていた。「雑用」だと聞いて予想はしていたが、激務。
 人込みの中で、処方を取り違えたらしい患者を必死で探し回っていると、室戸と擦れ違う。室戸は目の端で私に気づくと、その腕に手を回して、磁石のように飛びつく。そして、見るからに面倒くさそうな封筒の束を手渡してくる。
「後で回収するから、記入したらキットちゃんの机に置いておいてね」
「何よこれ?」
 異動命令の類である。出雲先生のサインで、ブラウン准将閣下が受領する形であり、意味をなしているようには見えない。
「これ提出しないとどうにかなるの?」
「給与が出なくなるみたい」
 それは困る。
「じゃ、あとは皆に配っといてくれる? 私これからオペなの!」
「私も忙しいのよッ!」
「わかってる。自分の書いて、次の人に会ったら、同じように言って渡して。じゃあお願い!」
 室戸はそう言うと、人垣の中に潜り込むようにして瞬く間に私の目の前から消えてしまった。
 すぐそこにあった天幕の中を窺うとナカノセと犬吠埼が、メス! めっつぇん……? などと、空恐ろしい乗りで、神経衰弱的な特訓をしていたが、彼女達はもちろん看護免許を持っていない。見つかったらどういうことになるのかと冷や冷やしていたが、室戸も出雲先生も、淡々と仕事をこなしていた。ちなみに、姫埼はRN(米国正看免許)を不法に取得し、光の速さで使える次元に達していた。室戸をして「戦場向け」と言わしめる。全分野に渡ってヤブのくせに、姫埼は勘がよくて何をやらせても本物に遜色なかった。

 翌朝、一段落ついたところで、 ブラウン提督がやって来て異動命令の封筒を集める。
 彼は私たちを置いて先に沖縄へ飛ぶことになっていた。
 提督は「記入しておけ」と出雲先生にアメリカの市民権の申請用紙を手渡す。
 皆ヘトヘトだったが、出雲先生が座ろうとはしないので、揺れながら立ち続けている。
 そして不意に出雲先生は言った。
「これは、二重国籍になるのでは?」
「黙っていれば取れる。それとも、杓子定規に拘って日本国籍を捨てるか? 灯台局は将来的にはなくなる。こまい事に拘るのであればカリスマとの縁もそこまでだ」
 出雲先生が申請用紙に視線を落としていると、ブラウン提督はこともあろうに出雲先生に対してこんなことを付け加える。
「日本人のまま、アメリカ市民になれるんだ。光栄だろう」
 出雲先生は、八枚の申請用紙を受け取ると「私は日本籍を捨てます」と言った。
 出雲先生の反発や抵抗を半ば楽しみにしていたブラウン提督は、その態度が予想外だったのか、落胆したような、憤るような表情を浮かべていた。
「何故そうなるんだお前は? ここはオレの言う通りにしておけば、得じゃないか!」
「私がどういう人間であるか、いい加減解っているはず。しかし、他の者に強制は出来ません。日本もこれから先、ずっとアメリカと共にあるとは限りません。皆、自分の意志で決めるように。私は一人でも行きます。皆も恐れず、一人であろうとも行くことです」
 ブラウン提督は苦虫潰したような表情で、出雲先生を哀れんでいた。
「お前は、そうやって真四角に生きて、心にもないことを続けて何が楽しいんだ?」
 灯台の名を持った日本人は灯台局に五年間勤務すると米国市民権の取得が申請出来るという奇妙な状況が実在していた。かねてから、ブラウン提督は私たちに米国籍の取得を強く勧めていた。ただしアメリカは二重国籍を持つことを許可しているが、日本は二重国籍を認めてはいない。しかるに、国際法上の問題はややこしいことになるわけだが、日本政府としては、灯台局の存在を日本の国民に大っぴらにしたくはないために、私たちの立ち位置というものに関して、アメリカの言うに任せていた。実際問題、日本にどのような法体系があろうとも、アメリカが許すのならば日本人は二重国籍が取れてしまうのであった。
 出雲先生は言う。
「さっき、自分の意志でなどと、仰々しいことを言ってしまいましたが、私はただ単に、二つのことを同時にやる事が出来ぬだけのことです。皆はもっと賢く決めれば良いです。灯台局もいつまで続くか解りません。島根は田舎ですから、随分お金も溜まったことでしょう。何か――、そうですね。灯台局を退官したら、どこか良い所へ旅行にでも出かけたらどうです?」
 それを機に、仙台は散々だったと皆口を揃え、転地先の沖縄への過度な期待を語り始める。
「先生は、出雲先生はどこか行きたいところはないのですか?」
 私はそのように訊ね返したが、出雲先生は「そうですね」と呟いたきり、高台の向こうの煙った街並みを眺めているばかりで、結局、それ以上は何も口にしなかった。



 この日の昼過ぎ、息苦しいばかりの仮眠をとっているところに自衛隊から要請が来た。避難所から出発して出雲先生と室戸は舞鶴の陣地に向かうことになった。残された私たちは、内々の用事を割り振られ、私は姫埼と組んで翌日の支度をしながら先生達を見送った。実質のところ、出雲先生と室戸は我々に休暇をくれたのである。これ以上は限界だろうとの判断である。
 出雲先生と室戸の体力には感服する。徹夜明けで更なる出張命令。おまけにこの炎天下を重装備で徒歩だ。出雲先生が室戸を外す事はありえなかったし、出雲先生が行くことも必然であったとはいえ、申し訳なかった。結局のところ本当に強い人たちしか、本当の仕事は出来ない――。
 学生時代には考えられない見方だった。私は強い人間の範疇に入らないらしい。彼女達もそれを知っていた。
 室戸は、私に手を振ってみせる。
 私はただただ二人に頭を下げるだけだった。
「やめてよ、何のおまじない~?」
 室戸の笑い声。自身とそう変らないほどの重い荷物に振り回されて、平気なのか――。
 どうなっているのか。
 出雲先生は、私の気後れも、室戸のお愛想も相手にはせず、黙黙と次の目的地へと向かって行った。
 京都は激戦地であった。内紛の中心にあって武装したのは大学生であったこともあり、大学生の多い首都圏に、中京、近畿あたりは、連日火の粉が舞っていたのである。
 出雲先生と室戸岬は拳銃を渡されていたが、その黒い鉄の塊を置いて行った。大量の医薬品の輸送を兼ねていたため、邪魔になるものは出来る限り持ちたくなかったのである。自動小銃やロケット弾が使われ始めている戦場では拳銃が役に立たないらしい。応戦するぐらいなら、ひたすら逃げるべき。
「ピストルが役に立つのだったら、文鎮だって役に立つよ」
 彼女がそう言うのだから事実なのだろう。
 それに、いかに非常事態に陥っているとはいえ、自衛隊員でも、機動隊員でもなしに、町中で発砲するわけにはいかない。職務規定上、我々は正式に拳銃を携帯することは可能になったのだが、そのありようを部外に知られてはならないという条件つきである。駐在の巡査にみつかれば普通に逮捕されることになる。
 彼女達は、背嚢に赤十字の小旗を揚げて進んだ。どうせ目立つなら、医療部隊と解ってもらったほうがマシである。そしてピースマークの小旗も。そうすれば日本の学生たちならば撃ってこないのではないか? そう考えての八方美人作戦である。
 全国各地で市内での砲撃が既に何度か行われていた。撃ったのはもちろん自衛隊や米軍である。内戦なのだが、未だ実感は湧かなかった。私が思っていたよりは急速に事態は深刻化していたのである。その時のことを室戸と話すと、大分食違いがあり、室戸の認識ではスプトⅠが撃墜された時点で戦争は始まっていたと言う。もっと言えば仙台での暴動で、既に戦争にスイッチが切り替わっていたと言う。私は、気がついたら戦争が終わっていた感じだった。
 戦争というのは同じ場所に居合わせても、共認識が出来ない。市民の多くは、戦場に既に足を踏み込んでいるということに気付くのに遅れる。それによって被害を受ける。戦争で子供が死んでゆくのは、単に弱いからではない。状況認識に遅れをとるからである。彼らは戦場になった野外で、遊んでいるうちに、何だか解らないうちに死んでしまう。私はそれまで、護衛も車も寄越さないのだから大した状況ではないと思っていたが、それは完全に真逆であり、既に護衛も車も寄越せないほど切迫していたのである。明示的な宣言を伴わない急ピッチな状況の推移だった。経験がないと、本当に気付けないのである。私はそれまで国家によって宣言される戦争しか知らなかった。たまたま核攻撃を避けることが出来て日本に戻って来た旅行者たちはみな、不思議そうに笑って、余計なことを口にしてしまうのだった。


 出雲先生と室戸はがらんとした商店街を抜けてゆく。彼女達が通りかかった商店街は退避命令のために既に誰もいない。魚屋では並べられた魚がそのままになって、全部腐り、胃まで吐き出しそうになるほどの悪臭を放っている。煙突を立てた掘建ての便所から飛んできた大粒の蝿が鯛のエラの隙間で、反復横飛びのような許し難い挙動をして、緑色の奴は、白く濁る目玉に細い口先を伸ばして、ちとちと舐めたりしている。
 室戸はこう反芻する。
「腐ってる鯛」
 当時もそう言ったのだろう。強がりでもなんでもなく。そう思ったから。室戸の神経は如何せん元から狂っているのだ。室戸がふっと息を吹きかけると、驚いた蝿が一斉に飛び上がり、そこらじゅうを舞った。
 氷が解けて久しい魚の入った樽の中は真っ赤になって、発酵のために、泡だらけになっていた。
 反り返って、僅かに水中から出ている魚の脇腹には、蛆虫が酸素を求めて集まって、食糧と陸地、蒸発と水没、そういったアンビバレントな瀬戸際を戦っている。
 出雲先生は、それらを一つ一つ見てゆき「かわいそうに」と呟く。
「氷屋さんに冷蔵庫があったの。だけど、出雲はそれに気がつかずに、どんどんいっゃうの。鋭いのと鈍感なとこ、両極端じゃない彼女は」
 室戸は鈍くはない。気付くと言えば気付く。しかし世界観は十分におかしい。そのような状況下で、かき氷を食べる気だったのだから。
 二人はそのかき氷屋を最後に、アーケードのかかった商店街を抜けたという。そして、またしても白く照り返すアスファルトの上に出た。林を幾つか縫って歩き、暫くゆくと、造成地と田畑ばかりの開けた場所に出たという。
「ちょっと、喉渇いた」
 室戸は、ともすれば楽しそうな表情で、出雲先生に己の休息の要を訴える。
「私の水筒をどうぞ」
 出雲先生はきっといつものように、淡白にそう言ったのだろう。
「ううん。そうじゃなくて、さっきの商店街でかき氷を貰おうって、提案を……」
 出雲先生が眉を顰め、振り返ったその瞬間、何かが掠めて、バシッと鳴った。それから随分たって、鈍い激発音が追いつく。
 ライフル弾は、出雲先生の背後を掠めて、アスファルトを抉り取って、飛び跳ねていったという。
「八方美人作戦失敗」
 室戸が絶妙のタイミングで呼び止めたために幸いにも二人とも無傷で済んだ。ただの偶然である。あと一歩ずれていたら、スイカさながら二つの頭を吹き飛ばしていたに違いない。
 二人は道路脇の土手の草叢に飛び込み息を凝らすが、嘘のように静まり返っており、周囲には何も見えない。スイッチョンが、淡々と鳴いているだけであった。よくよく見回してみると、一キロ以上先に、下手したら二キロも三キロも遠方に五階建ての集合住宅が確認出来たという。
「緊張で喉の渇きが増して、暫く声が出なかった」と室戸は回顧するが、その表情はパペットのように戯化されており危機感は伝わらない。室戸は戦時や災害の異常事態の話を平気で反芻出来るので、彼女の言う「恐かった」は、他の者には一生引きずるほどの状況であることがしばしばであった。
 医者としての彼女は「人間を見ない」はっきりとそう言っていた。その部隊の人員がどれだけ生き残り、どれだけ五体満足で帰れるか。それに向き合う。普段と何もかわらない眼差しがかえって異様であった。ただでさえ矛盾が大きい仕事なので、わざわざ人前でその逆説的な発想を口にすることはないが、彼女のたどり着いた結論を私は確かに聞いた。
 患者が運ばれてくると、彼女はそれこそ麻酔が効くよりも先に襲い掛かるような速さで切ってゆく。戦場なので、手足切断となるようなケースもある。そういう時には、目一杯縛りつけておいて、角材を鋸で落とすような表情で、人の上腕や大腿をザリザリと、骨も腱も神経も、未来も含めて一直線に切断するのである。
 組織を骨の切断面に引き集めて断端形成、応急処置を済ますと、それ以上は行わず、更に後送させる。周囲に任せられるだけの余裕を作り出すと、自分も撤退して、後送した患者の仕上げをしてゆく。鞠を背後に投げて、地面に落ちる前に先回りしてキャッチしてゆくようなやり方であり、それを一週間のうちに、一人で何十人も、時には百人以上も捌くのである。四肢切断を即決する噂ばかりが広がり、恐怖されたが、結果が全てを物語っていた。彼女のいる病院は総体においては必ずや、兵士たちを元形に最も近い状態で帰国させていた。事実上、世界一の軍医だった。それがかえって疑心と嫌悪を招くのである。生き残れるはずもない人間が、悉く生き残ってしまう。多くの人間が、障害者という現実に耐えられないのである。ついに彼女に言い渡された命令は「障害者は作らなくていい」である。その方が国も、家族も安上がり。そして、何より幸せだった。しかし、彼女はその要望をはねつける。生き残れるのならば兵士を障害者にしてでも生き残らせる。それが医療倫理の生命に対する答えであったことは間違いはない。そして、多くの人間にとって、そういう医神の正義にはついてゆけないのだった。
「どんな辛くても選べるものではないよ。殺してくれって叫ぶ助かる前の人と、殺さないでくれって叫ぶ助かった後の人は同一人物で、主張は真逆なのに命を一つの体に共有してしまっている。その日出会っただけの一介の医師が、一個人の死に荷担出来るようになったら、それはまずいよ」
 彼女は何につけても強靭であったが、こんな真似はどんなに腕が良くても、どれほどの精神力と体力があろうとも普通は不可能である。彼女を知らない人間は、室戸の若さと、桁違いの手術件数を信用せず、彼女が人間ではないと認識して、はじめて、その実績に納得した。
 彼女にはもう一つ秘密がある。寝ないのである。
 彼女の眠気に対する強さは、真に天性のものとしか言えない。何せ「十日は余裕」であった。

「室戸は、凄くいい人だよ。皆大好きだ。彼女も兵隊のことが大好きだ。彼女の愛情と献身には皆感動する。だが、本当にボロボロになった時には会うな」
「何で?」
「死ぬのを絶対に許してくれないからだ」
「兵士を死なせないためには、どんな手でも使う。頭が真っ二つでも、ほとんどミンチみたいな状態であろうと、意地でも生きかえらせようとする。オレはあの人を一種の精神障害だと思っている」
「ほとんど眠らないらしいね」
「大戦中は一睡もしなかったという話だ」
「本当か?」
 たぶん本当だ。

 ただ、眠る時は、近距離に着弾があっても目を覚まさない。血に染まったまま吹き飛ばされても、眠っていたという。しばしば、面識のない部隊では死亡報告がなされた。手術助手は室戸が目を覚ますまでに洗浄して点滴を打っておくのが務めであった。

「出雲――やり返さないと、前に進めないよ」
 草叢の中に身を潜めながら、室戸に催促されて無線を組み立てた出雲先生は、医療大隊の権限で砲撃要請を出す。衛星カリスマを含めないならば、私たちの関わった中で一番大きな武力行使だった。「やぶへしゃ」とかいう、藪蛇と藪医者が混濁したような名で呼ばれていたが、ようは医療部隊を急行させるために、戦術規模のサージカルストライクを行う取り決めだった。
 民間人を巻き込んではならない、効果が認められない場合、その部隊では二度とと使えなくなる等の厳しい制約条件があるため、滅多なことでは行使されない。この取り決めは、ジョージ・ブラウンを除けば、灯台局内では出雲先生と室戸しか知らず、室戸がいなければ、灯台局にこの権限が来ることもなかっただろう。
 避難先では住民の全員避難の確認が取られている。攻撃可能だった。敵は雀にあらず。蛇なり。北海道赤軍第三書記長。河原田正治――大蛇だった。当時日本一の狙撃手であり、殺害人数は五十人を超えている。その狙撃を逃れることが出来たのは奇跡と言っていい。相手の正体を知らずして室戸は直感的に危険を察知して的確過ぎる最低限の反撃を選んだ。ある意味、室戸の方が恐ろしかった。
 十分もしないうちに、舞鶴に配置されていた三菱重工のMLRSから発射された鉄の雨が降り注ぎ、「敵」が潜む集合住宅を容赦なく木端微塵にする。胃まで震わす爆音と震動が一挙に伝播し、肺と鼓膜を強打するような爆風が何度も通り過ぎる。残るものは鉄骨を四方八方に伸ばして咲くコンクリートの残骸のみ。一キロ先の点を射抜く狙撃手を葬り去るのが、一キロ四方を焼き払う絨毯爆撃とは皮肉にもならない。
 炎天下の中、抉り出された地中の水道管が破裂して、逃げ水の向こう側で噴水を上げるのを横目に、二人は車が数珠繋ぎとなって乗り捨てられている国道の高架によじ登り、またひたすら闊歩してゆく。
 先を進む出雲先生は、今まで話に上げなかったことを口にする。
「私がいない時はあなたに託します。いいですね」
「私も一緒に死んでしまうかも」
 室戸はきっと、いつもと変らずの声色でそう答えたのだろう。
「死なないように注意なさい。その時は……医療業務は切り捨てる他ないでしょう。事実上、あなた一人に頼りきっている状況ですし――」
 室戸は戦場専門医として世界中を回っていたが、他にメスを持てる者は私と出雲先生だけ。私は医者としては使える次元ではなかった。それでも私達は無報酬の出向を強いて望んでいた。診療報国は、灯台局の設立当初の理念であり、私たちの沽券にかかわっていたといえる。

 室戸は訊ねる。
「……補充人員はどうするの? 経ヶ? 沖ノ島?」
「アウターバンクスから招聘して下さい。去った者はダメです」
 出雲先生は決別した沖ノ島や経ヶを戦争に巻き込まないようにと配慮したのだと思う。 そして、出雲先生はこう念を押したという。
「私が角島たちに見に行かせたのは、経ヶ岬を呼び戻したいからではないですよ。彼女を引きつけておく必要がありますから」
 機密保持上の問題である。経ヶもそのくらい解っていたに違いない。戻ることも許されないが、去ることも許されない。経ヶや沖ノ島の置かれていた状況というのは、そういうものであった。






§ 二五 一人の終戦


 近畿以南は摂氏四〇度を超える真夏日が続いていたというのに、関東圏は歴史的な豪雨だった。
 外はアメフラシが効いており、昼間なのに夜のように暗い。ひっきりなしの落雷で停電が相次ぐ。暗昼の街灯が一斉に消える様は、何かが大量死したようで異様である。空は青白く点滅し続けており、長く見ていると気持ちが悪くなった。
 私はこの時東京にいた。山手線の円の中の込み入った所で、海が見えた。緑青色をした丸いタンクや紅白の鶴のようなコンテナクレーンが家屋の描く矩形の向こうに聳える。
 郵便受けには西野とあって、南京錠がかけてあった。
 最初来た時、彼女は留守で、私たちは氷雨に凍えながら長らく待った。
 唐突に会う羽目になり、彼女にとっては災難であったと思う。
 一瞬、彼女は、素知らぬふりをして、傘に顔を隠して、自分の家を素通りしてどこかへ逃げようとした。
「荷物を届けに来ただけよ。用が済んだらすぐに帰るわ」
 姫埼はそう言って、ドラムバッグを差し出す。

「私の友達の名前も西野だったわ」
 姫埼は咄嗟にそんな嘘をつく。そして、西野は他ならぬ経ヶの親友の名であった。
 召集時代に空襲でやられて、それきっり。
 姫埼は、部屋まで荷物を持ってゆき、そこで「東京は疲れる」と言ってのけた。

 入り込んだ経ヶの部屋には、他のものを色々と見て回る余裕すら与えない様子で畳一枚を占領するほどの巨大な物体が置いてあった。模型飛行機だ。
「何よこれ……」
 私と姫埼は思わず声を上げる。
 ゼロ戦である。
 経ヶは陰鬱な表情の中に、困惑を滲ませていた。
「知らないの……ゼロ戦を?」
 それは知っているが、どういうことかさっぱりだった。
「昔よく作ったでしょ?」
 経ヶ岬は、そう言って私に模型航空教育のことを語らせた。イタリアでも、行われていたはずであるが、姫埼は「そんなの知らない」と言い切る。「さもなければ、ヘンな奴しかやってない」とも。恐らく変なのは姫埼の方である。時代が時代だった。
 戦前、学校と名の付く場で私たちは、よく飛行機の模型を作っていた。航空教育というものが日本中で行われていたのである。女学とて例外ではなかった。そのうちには挺身隊が組織され、航空工場で軍需部品の生産にこき使われた。いいや、積極的に携わった。挺身なのである。私はその時、タイプ打ちが出来るという特技兵扱いと、出自故に、身勝手が許されていた。誰がもんぺなんか穿くか。かっこ悪い。私は何故だか猛烈に、命懸けでもんぺが嫌いだったのだが、そういった反抗心は、貧しさの否定であって、国家に対する反抗などではありえなかった。私がタイプを打てたのは、つまりそういう家庭で育ったからに他ならない。外国語が操れるだけで鼻にかける海外組みのその虚を見透かしながら、私は自分の中の同じものを見ず、己が何か特別な人間なのだと思っていたのである。
 ゼロ戦のレプリカは、私の下らなさを前にして、沈黙していた。
 レプリカだ。どう足掻いても贋物なのだ。しかし、これだけ本格的な代物はそうそうない。これが紙と竹籤で出来ていることを知ると、姫埼も絶句していた。プロペラはヘチマの繊維をカゼインで固めて削り出したもので、絶妙のカーブは途切れること無く描き出され、継ぎ目は見えない。隣で転がっているチャチな肥後守だけで切り出したとは信じ難い代物だった。手にとってみると、拍子抜けするほど軽い。

 部屋の片隅の薄暗い所から、経ヶ岬は囁くように言う。まるで生きているみたいに何十分も空を漂っていたと。
「ずっと空を飛んでいたのよ。何であんなことが起きるのか解らないけど、ずっと飛び回ってた――」
 空襲警報が始まって、回収出来ないまま防空壕に逃げて、敵機が飛び去った後に這い出てくると、もうどこかに行ってしまっていて、見当たらなかったそうである。
 模型は空力が本物とは違うので、翼の形を変えてやると、もっと上手く飛ぶのは知られていたが、算盤をはじいて、図面を一から起して作るほどの情熱は私にはなかった。経ヶ岬の描いた図面は戦闘機工廠で再検証された。もっと大きい縮尺で組み立てられて、本格的な風洞にかけられたのだ。確かにその結果は、幾つかの項目で本物を上回る性能を見せつけた。しかし、紙と竹籤で作った小さな模型での話であり、アルミ合金で出来た本物の飛行機ではこうはならないというものであった。彼女の科学者としてのキャリアはそこから始まる。
 私はその昔に、経ヶ岬の存在を新聞で知っていたのである。触発された兄たちと飛行機を作った。必要な電池とモーターを作るのに難儀した挙句、最後はただの凧揚げ大会になってしまったが、我々はそれで幸いであった。
 暗闇で、黒焦げのように真っ暗に潰れながら経ヶは言った。
「大阪からの帰りに私、初めてカツ丼を食べさせてもらった――。あんまり美味いから、将来は本当に飛行機か船を作る仕事につこうと思ったの。自分で作った飛行機でどっか行っちゃおうとか、自分で作った船で世界を回ろうとか考えてた。だけどみんなそのうち現実の話をするようになって、どこへ連れて行かれるのか、不安はあったけど、どこかへ行けるのなら……どこかへ行けるのなら、もうそれでいいと思った」
 そして、実際に進んでみたら地獄だったと。
「親元離れてやっていくだなんて、無理だったのよ。自分の本当に思っていたことを信じなかったのが悪かった。もう、毎日うちに帰りたくて、うちに帰りたくて――病気でも怪我でもいいから家に戻りたかった」
 しかし、出征扱いで見送られた手前、うちには戻れないし、死んだことにしてどっかへ逃げようと思うようになっていったのだ。
 停電の暗闇の中、経ヶはぶるぶると震え出してしまい、目に見えてわかるほどの玉の汗をかいていた。
「大丈夫?」
「私、何か変?」
 伸びた髪が畳の隙間に落ちており、私はそれを指先で絡め取っていた。
 経ヶの頭は裁断機で無理に切った藁半紙の束のようにガタガタしていた。私の視線は、それを避けて机の上に置いてある飛べないゼロ戦に移る。
「これ、飛ばした事は?」
「あるよ。だけど、全然飛ばない。何がいけないのか解らないけど、全く同じ図面で作っているはずなのに、何か私、記憶違いしているのかもしれない」
 記憶違い。それは大いにありうる。国策で記憶違いをしている。戦争は辛かったに違いないが、聖戦なれば望む所。大東亜共栄圏――。しかし、負けたら、負ける前の記憶まで塗り変えた。
「そういえば、私、小さい頃、何でも朝飯前だから朝飯前子って呼ばれてた。だけど、よく考えてみると、根性無し子ってあだ名もあった。ダメなのは自分が一番知ってたはずなのに、チヤホヤされて舞い上がって、国益がどうとか、教育がどうとか――いつか裕福な暮らしがしてみたいだけのくせして、先生たちの真似して偉そうなこといっつも口にしてた」
 経ヶは何かに急かされたように、突然立ち上がり「御飯はどうするの?」と訊いてくる。御飯は今関係ないはずなのに。何か、奇妙な状況に思えて、まずいなと思った。
 何がまずいのかよく解らなかった。今になっても、最後には釈然としないものが残る。警報が鳴る前のザラザラした質感に似ていた。他愛もないやり取りがあって、不意に立ち上がった瞬間に、それが引き金になって、サイレンが始まり、ああ――と思う。何をしようと思って立ち上がったのかも思い出せないまま、実験道具もそのままに、財布だけを手に防空壕へ逃げる。
 あの一連の行動が、操られているようで嫌だった。
 後になって思えば、経ヶの気が逸れたのだから、御飯にしておけばよかったのかもしれない。
 経ヶは毛布の中に隠れるようにしながら言う。
 出雲先生の足音は特高と同じ響きがする。
 あの人、あまり好きではなかった――。
 声は可能な限り小さかった。しかし、それは私の耳朶に触れる。
 何故そんなふうに?
 特に、理由はないという。
 そう、言い訳だ。出雲先生は、経ヶ岬の精神不安定を知っており、仮に仕事が出来なくなってしまっても、抱え込む気積りでいた。
 ううん。本当の理由はもうよく解らない。だけど、たとえば、沖ノ島を、考えが違うってだけで、独りにして閉じ込めて、どうしてすまし顔でいられるんだろう? 今思えば、変なとこ多いよ……。
「それに、どうして、私の居場所がわかったのッ!」

 堰を切ったようにして、思いもよらない経ヶの告白が始まってしまい、私は、テープレコーダーを編集していた。盗聴しているとか、そんな後ろめたい気は一切なかったが、まあ、そういうことだったのだろう。経ヶはそういうのを強く警戒していたし、心の底から嫌悪していた。
「みんな、心配している。あなたの力をみんな必要としている。すぐにでも戻ってきてほしい!」
 私はそんなことを捲くし立てる。言い訳させてもらえば、私の言葉に嘘はない。本当にそう思ったのだ。それが手におえない。
 私が慌てていると、姫埼は欠伸まじりに呟く。
「私も、灯台局やめたい。センセイも室戸も正直しんどい」
 姫埼の突拍子もない発言が私には理解出来なかった。さっきまで黙ってたくせに、唐突になんだ。テープレコーダーの入ったバッグを手にしていたくせに!
 何より許せなかった。私は激昂してしまい、何としてでも事態を取り繕うとしていた。出雲先生や室戸を好いて、尊敬こそすれ、嫌う理由など一つもなかったし、経ヶもそうあるべきだと信じてやまなかった。だいたい、経ヶは出雲先生に一番可愛がられていたはずではないか。出雲先生に髪を切ってもらうと嬉しそうにしていたではないか。どうして恩を仇で返すような真似を――。
 追い込まれていた経ヶの心境というものを私は全く理解していなかったのである。
 後日、出雲先生は「私には支える準備があります」と言って、皆を連れて経ヶの隠れ家を訪れ――事故は起きた。
 経ヶは階段を昇ってくる足音に耐え切れず、三階の窓から飛び降りた。折れて、血を吹く手足で死にもの狂いで逃げて、逃げて、全てを捨てて逃げて、運悪く車道に飛び出す。そして、車に跳ねられて、短い命を終えた。財布の中には二万円ほど。他には、身元が解るようなものや、写真のようなものは一切入っていなかった。大事にしていたピンぼけ気味の家族の写真や、ビッグハムスタアを囲んで皆で映っているカラーの写真があるに違いなかったのだが、幾ら探しても、そのようなものは彼女の部屋からは出てこなかった。アパートの一口コンロで焼いたのかもしれない。うらびれた近所の公園の朽葉の下から、彼女が埋めたらしき、一塊の灰がみつかった。非国民ノート――。こんなに小さな人間が一切を黙ったまま死んだことが私には信じられず、何よりも増して恐ろしかった。






§ 二六 三十三億人の開戦


 厚い雲を突き破って、弾道ミサイルが首都圏に降るようになっていった。
 電話を通して室戸はアメリカの宣戦を伝える。
「戦端が既に開いています。ええ、カリスマ。もちろん宇宙。スプトⅡと交戦中です。スプトⅠじゃないです。スプトツー。ええ。米ソ戦。いいえ、それはまだ解りません。だけどもうソ連も東ドイツも大使館は大慌てで引き上げ始めてる。拘束するかどうかで司法省と国務省が揉めてる。DIAは最悪あの人たちを自分達の手で捕まえようとするわ。え? 今何て?」
 室戸の声は鮮明に聞こえていたが、こっちの音声が上手く伝わっていないらしく、室戸は何度も私の言葉を聞き返していた。
「それはもう後戻り出来ないよ。むしろ、そっちはどうなってるかな? それが聞きたい。うん。 うん。 それで? え、それだけ? あ、もう速報入るわ。ラジオを聞いて。ええ。なし崩しね。だって、そんなの選択の余地なしだもの。日米同盟は友愛同盟ではないわ。私は動員出来る人全部集めて射場へ行きます。カステラ送ったら私、そのまま日本に残るわ。舞鶴は見たでしょ。私は前線を離れるわけにはいかない。それでね、角島にお願いしたいの。あなたが、出雲を支えて。全力でよ。全力で。誰かを守ると決めたら、何があっても迷わないでほしいの」
 言われずとも。
「経ヶのことは聞いてないの?」
 いつまでも経ヶ岬のことが室戸の口から出てこないので、私の口調は彼女を責めるように聞こえたと思う。
「聞いたわ。私がいれば、助けられたかも」
 悔しいが、それは恐らく事実だった。
 感情が爆発する。
「私たちだって、全力を尽くしたわよッ!」
「ううん。責めているわけじゃない。……だけど、どうして病院に連れ込まずに、基地に運んだの? 一刻を争う事態でしょ?」
「仕方ないでしょうッ! ブラウン大佐が、あの人が……。私たちに何の権限が?」
「そうね。だけど、私があなただったら――」
 室戸は珍しく慌てており、さっさと電話を切ろうとしていた。
「ううん。そうね。そう、あなたたちはよくやったわ。じゃあ、私は行くから」
「日本に来るんでしょ? 通夜に出ないの?」
「ごめんね。私も友達のお葬式ぐらい出たい。だけど知っておいて。私、これからもっと薄情なことするかもしれない。覚悟しといてほしいんだ」
 普通の人ではないので、そういう選択に関して私が何言ってもどうにもならない。彼女の初仕事であった沖縄戦以後、そういう生き方を選んできた。最初の戦場は室戸をして何も出来なかったそうである。

 室戸はどれだけ酷い戦場を回っても、沖縄戦のことが忘れられないでいる。名前も知らない人たちなのに、今でも夢に出てくるという。
「待ちなさい!」
 私は、受話器を手離そうとする室戸を大声で呼び止める。
「私にはまだ話がある。沖ノ島をもう釈放するように話あっているところよ。出雲先生にも相談している。あなたにも協力してもらいたい!」
 室戸は少し声を小さくして言う。
「何を言いたいのかよく解らないけれど――沖ノ島を拘束することを決めたのは出雲よ?」
「それはG2があった頃の話でしょう。仕方がなかったことでしょう!」
「違う違う。あなたは出雲に対して、凄く大きな勘違いをしているから言っておくわ。沖ノ島を拘束することを提案したのは、間違いなく出雲よ。ミスター・ブラウンではないし、G2の偉い人たちでもない。あなたはまだいなかったから、当時のことを知らないけれど」
 眩暈がする。嫌な事が始まろうとしていた。もう始まっている。既に始まっていたと言うべきか。ひょっとして、そもそも一度も終わってはいなかったのでは?
 経ヶはそれを察知していたのだろう。彼女には終戦の日の記憶がなかった。
「私ね、どうせなら経ちゃんも捕まえた方がいいって、提案したの。経ちゃんは沖ノ島の言う事に凄く共感して、彼女の言う、理想郷みたいな話に目を輝かせて聞いていたし――あの子たちがね、あれ以上本気になって踏み込んだ真似をすれば、蒸発しかねなかった。沖ノ島は理想に燃えていたから――だけど、彼女、原爆被災者救済のために局の委任計理で積み立てていたお金を北海道赤軍への軍資金に融通するようになってた。灯台局内でも宣伝し始めて、もうだめ。庇いきれなくなってた。彼女は私たちを説得出来ると思っていたみたい。だけど彼女は大ママを裏切れないし、自分のやっていることを信じきってた。あれじゃあ――下手をすると、どちらにも合流出来なくなって、そのうち本当に殺されてしまうのではないかって思った」
「私は、その時居合わせなかったから、あなたがどれだけ沖ノ島の浮世離れを言っても、それだけで判断することは出来ないわ。だけど、実際はこんなことになっている」
「経ちゃんを救えなかったのは、一生の不覚だと思っているわ。私はもう誰も死なせない」
「沖ノ島が死んだらどうする気?」
「そういうことする人じゃないし、そんなことさせない。問題があるようなら、監視強めるように働きかける気でいるわ」
「彼女の人権はどうなるのよ!」
「人命最優先よ。基本人権を守ろうと言うのならば、それ以上高度の人権というものは抑制されねばならないものだと思うの。特に死ぬ権利なんてありっこないと思う。あの人はね、カリスマの手術に反対していた。脳摘出なんて、それで戦争に駆り出すなんて、そんな人体実験をするぐらいなら、死なせてあげた方がいいって。沖ノ島も出雲も絶対に譲らなかった。信じられないほど凄い勢いで言い合って。だけど、最終的にはカリスマ本人が生きるって決めた」

 カリスマは出雲日御碕と遭遇して、人としての尊厳を生まれて初めて確信出来た。

 私達は百人中百番目の人間でも行かねばならない――。

 そうでしょう?

 確信してしまった。それまで一度も敗北を知らない沖ノ島の説得では通じない。沖ノ島がどれだけ彼を抱きしめて、愛情を注いでも、その説得は最後の最後で受け入れることは出来なかったのである。右の頬を打たれて、左の頬を打たれて、自分では何も出来なかった思いを胸に墓に入るだなんて、彼には許せるわけがなかった。

 私には高度な手術を行うだけの能力が身につかなかった。しかしそれでも私は医者です。生命に対する信念はあります。医師がどれだけ生命を重んじても、患者が己の生命よりも、平穏を望むのであれば、医術は成立しません。私は死の手を選ぶことはしません。しかし、あなたには医師を選ぶ権利があります。安楽を望むのならば、沖ノ島は全力を尽くしてくれることでしょう。まだ戦うのならば、どんな手を使ってでも私が皆を説得してみせます。私はあなたと一緒に戦いたい。

 電話の向こうで、チャリチャリと小銭を指で弾く音が響く。
「――弾がもうない」
「おまちなさい。どうして沖ノ島や経ヶに関しては人権と人命の選択をするのがあなたなのかしら?」
 間髪いれず答えが返って来る。
「私は医者です。そういう立場の人間が、人を救うという根本原則に疑問を持つべきではないし、もしも人命を超えて人権を優先するのであれば、それは私の意思と実力ではなく、当人の意志と実力に基くべきであって、島から脱出出来ぬ程度なら、やはりその人は島から出てこなくていい。命は取り戻せません。殺してしまうぐらいなら、死ぬまで閉じ込めておいた方がマシです」
「あなたが何者なのか、今まで気付かなかった……」
「これは出雲の言葉よ。よく覚えている――。角島は、出雲を単なる生真面目な人間だと思っているとそのうちに、やり返されるよ」
 やり返される? 誰に……誰が? 室戸の電話はそこで切れた。






§ 二七 ニオベ


 日本に戻ってくる室戸と擦れ違うように私たちは日本を発った。ただでさえ時差ぼけで気持ちが悪かったのに、丸二日寝る暇がなかった。服もほとんど持たずに出てきたお蔭で、米海軍のサービスドレスでその後を過ごすこととなり、身振りを決めかねていた私は、幾らか抵抗を覚えた。しかし、そんなことはすぐさまどうでもよくなってゆく。部内でスパイ騒ぎが何度か起きており、私たちを見る目は疑心に満ちていたと思う。暫く灯台局員はブラウン提督他、関連武官も含め、即席のリボンをつけていたが、そのうちにカリスマのアイソタイプを模した山吹色をした六芒星の七宝焼きの徽章が配られた。

 執拗にキューバ上空を偵察中していたU‐2が撃墜され各誌一面トップを飾ると、それを待っていたかのように、ミサイル基地への報復攻撃が決定する。数時間後には手拍子を打つような号外が出た。

 生まれて間もないYB‐70が、抑えきれぬ衝動でもって空に飛び立つ。バルキリーと呼ばれたこの爆撃機は遥か彼方のクレムリンを直接叩くことを目的としている。プログラムを書き換えれば近所のハバナを滅ぼして戻って来ることなどわけはなかった。
 空軍はどうしてもこのYB‐70を使いたがっていた。海軍にはカリスマと原潜があり、陸軍には世界中のミサイル基地がある。かつて戦略爆撃機は核を使える唯一の兵器として君臨していたが、今では戦略価値そのものに疑問符を投げかけられていたのである。
 長い滑走路を走るバルキリーは軍産複合体の象徴である。世代をオーバーランした存在は、空前絶後の性能と、多くの利益関係者の要望を一身に背負い、敵を倒すために現実から遊離した空へと舞い上がる。成長し続けるためには、誰かを殺し続けなければならない。
 動物のようだ。生態系の精神を受け継ぐアニミズムである。

「また落ちたの?」
 新聞はU‐2撃墜と、膠着を打開するかのようにして、犠牲者を口実にした厳粛なる正義の開戦を伝える。
 姫埼は失笑していた。
「戦闘機は落ちるために飛ぶのかしら」
 出雲先生は聞き捨てならないとばかり、くるりと振り向く。
「慎みなさい。何ですかその態度は?」
「元からぶっ壊れてる」
「壊れていようと、死にたくて戦場へ行く者など一人もいないのです。早く花を手向けてきなさい!」
 出雲先生は今にも姫埼の頬を叩きかねない剣幕であった。しかし出来ない。
「花はもうあげた。だけどセンセイには失望した。あなたって、不幸に酔ってるだけなんだもの。結局のところ、戦争がやりたくて仕方がないのよ。生き方を考え直すべきだわ」
 姫埼はそう言って、カリスマの七宝焼きを胸から毟り取った。そして机に叩きつける。
 出雲先生が何か言おうとするよりも先んじて姫埼は更に言ってのける。

「あなた一人であろうとも行けと言ったじゃない」
 そう言って、姫埼は灯台局を去った。
 姫埼が灯台局に来た目的というのは経ヶ岬だ。姫埼はおよその事情を察知すると、勝手に仕事をやめにした。どのみち、どっかへ失せる気でいたのだ。ひょっとしたら経ヶを連れて出て行くつもりだったのかもしれない。
 しかし、出雲先生は、己の震える手を静めるのが精一杯で、彼女を引き止めることは出来なかった。
 出雲先生よりも、姫埼の方が冷静だったのが私には悲しかった。
 私の先生は、私が思うほどには人望がないのかもしれない。
「角島。あなたも行きたければ行っても構いませんよ」
 出雲先生は辛うじてそう言ってのけた。
「私をあんな人たちと一緒にしないで下さい!」
「私は彼女達に去るべき理由があるのなら、去ればよいと思っています。しかしそれは自ら逃れる力あっての話です」
「私は、このような時に逃げたりしません!」
「私もですよ。しかし、角島は何のためにここに残るのか、知っておきたい」
 私は……、私は、そんなに簡単に身を翻すことが出来ません。先生と同じです。

 畳み掛けるように、カリスマ、スⅡ撃滅の情報が飛び込んでくる。妨害を受けながらも、カステラのコンテナを積載したオリエントとのランデブーも成功したという。ほっとするのも束の間、米空母コーラル・シーで、核の行使を巡って反乱が発生。艦長は拘束。コーラル・シーの艦載機がバルキリーの妨害に出撃し、その護衛機との接触事故から、本格的に戦闘が始まった。同フライト中にミッションを遂行するよりも先にバルキリーも撃墜される。米国内でも反戦運動が激化していたのである。
 ナカノセグループは欧州宇宙機構の造反グループであったイースター・エッグズと東ベルリンで合流し、ソ連かウクライナの射場に向かうとの情報が入る。背後にソ連政府があるのはこの時にはもう明らかだった。だが、ソ連は彼らの方針を全面的に受けているわけではない。そして恐らくは彼らもそれを承知している。
 首謀者はイースター・エッグズの代表であった英灯台のエディストーン。続いてナカノセ。米灯台ルッカウト。そして衛星ザールラント。犬吠埼も一緒だったが、彼女は拉致された。連中は、ケスラーシンドロームで弾道ミサイルや人工衛星を無差別で撃墜するという「鋼のタマゴ」を本気でやれると思っているのだった。犬吠埼がどのような計算をしようとも、それが理屈上可能であろうとも、実行部隊には、最低でも軌道到達出来るロケットの打ち上げ能力が要求されるし、長期間の物資調達が出来ない限り不可能である。
 超大国規模でようやく可能な話であり、しかしながら鋼のタマゴを望む国家など存在しない。強国から順番に望まない作戦であり、米ソにしか実行力はないのである。強いて言えば、ソ連にしか可能性はない。宇宙開発が劣勢に転じた時に、国力を総動員して、宇宙を永久封鎖に持ってゆく。だが、宇宙を捨てるだけの体力があるうちは、自ら覇権を手放すことなどありっこないのである。

 この戦いの推定死者推計は一夜のうちに百四十万人。負傷者一千万人から三千万人。その後も被害報告は増え続け、最終的に死者行方不明者推計は全世界で三億五千万人を超えてゆく。

 勝者はなきに等しい。

 カリスマの師であったブレイン原潜のディキシーが、核攻撃を行った最初の艦であると言われている。全弾を核装していたわけではないことを根拠に、初弾には核を使わなかったと庇う者はアメリカ人、特に軍人には多い。キューバのミサイル基地やライバル視されていたソ連原潜の方が先であったとも言われる。最初に核を使ったと言われるのは他にバルキリーの二機。一つ言えることは、ここに上がった全ては、結局のところ確実に核攻撃を行った。僅か三日のうちに、配備されていた核兵器の八三パーセントを消費したのである。攻撃手段を失ったために、戦争は沈静化したのであって、平和の使者が空から舞い降りて平定したわけではない。

 これでまだ地獄の門前である。

 フェイズ6級のパンデミックは起きてはいなかった。そして私にはまだ心の支えである出雲先生があった。






§ 二八 現存艦隊主義


 二千年頃 横浜。

 まだ朝の六時前だというのに、外がやかましい。石を割るような甲高い音が、間の抜けたタイミングで、カンと一発鳴って、安眠を妨害する。もう一度、うとうとして来た所を狙いすましたかのように、カンと鳴る。頭にきて身を起すが、これでは奴の思う壺であるので、努めて平静を装って、椅子から降りる。

 姫埼は歪んだゲート・ボールのラケットで、集めた小石を海に向かってかっ飛ばすのである。海にロケットの殻や漂流ブイのようなものをみつけると、ここぞとばかりに的にして遊ぶので、その音が辺り一帯に響き渡った。姫埼は何でかそういう、ある種特定と思われる分野に、執心して燃え上がる奇妙な癖があるのだが、困った性分である。そのくせ飽きっぽい。
 小石がロケットの殻を叩く音が静まると、今度は唐突に階段を駆け上がってくる音が響く。
「沖ノ島が戻って来たわ!」
 窓を開けると、鯉幟をマストに靡かせ、青黒い太陽電池のパネルで甲板を覆った貨物船が、朝日きらめく波の向うからやって来るのが見えた。元々はソ連の石油タンカーであり、かなり大型の船であるが、乗員はたった一人である。自動操舵も可能であるが、使いものにはならないので、舵を取らない時は投錨し、専ら停船にしている。

 危険だから一人で航海に出るような真似はやめろと言っても、聞く耳を持たない。彼女は未だに生存者を探して定期的に船を出していた。とりわけ子供を捜していた。彼女の教え子たちは全滅したのである。ワクチンが手に入らなかった。彼女はそれよりも何十年も前、古い型ではあったが、SIワクチンを接種していたため、軽症で済んだ。彼女の守っていた世界最後の学校が見るに耐えない状況であったことは想像に難くない。
 自動停船機能を使ってタンカーが車庫入れ程度の気軽さで停泊すると、タラップから沖ノ島が降りてきた。目を細めて、朝日の中に長い影を落としながら、彼女は洋館に向かってくる。その表情はもはや落胆も悲しみも湛えてはいないが、ますます抜け殻のように見える。子供を捜しているというよりは、巡礼のための航海に他ならない。きっと、この巡礼をやめることは死ぬまでかなわないのだろう。
 かつて修道会の欺瞞にさえ我慢出来ずに飛び出してきた沖ノ島が、俗物を地でゆく姫埼の流儀に合わせて、楽しそうにしている様は痛ましい。
 窓の外で沖ノ島は、何かごそごそと包みを開いていた。
「福岡で新しい窯が出来たの」
 そんなことを言っているのが聞こえた。
「そっちは何かあったかしら?」
 特にない。ずっと時間が止まっているだけだ。
 ナカノセが調査と称して倒壊して黄砂に埋もれるビル群に乗り込み、ビンテージのバッグや服飾の類を集めて、飽きもせずファッションショーをしている程度である。
 誰もいないとはいえ、何の手続きも踏まずに取ってくるのは窃盗だと思うのだが、食料品、家屋に家具、書物などは私も拝借しているので、すぐに、何も言えなくなっていった。  貴金属の持つ希少性そのものに一種の浪漫を見出しているのは犬吠埼であるが、指輪やスプーンを作るのが関の山で、何らかの高度な用途に用いるにも、機材も施設もないので、その使い道は限定的である。一千度を超える熱を作り出して、希少金属を溶かして何かに転用するよりも、風呂を沸かしたり、調理に使う薪や石炭の方がよっぽど大切であり、銀で電池を作ってみたり、金で機械類の端子を修理してみても、まるで割に合わない。
 磁気テープやロムのような記憶素子、無線、時には船や自動車といった移動手段も工作したことがあるが、これまた趣味の域を出ない。廃墟で眠っている文明時代の遺産を引っ張ってくると、圧倒的な性能差を見せ付けられるのがおちであった。
 ブリオンバンクであった日資銀行の廃墟には、産業防衛のために備蓄された、ありとあらゆる種類の希少金属の延べ棒が眠っているが、正味の話、それらに文鎮以上の価値を見出すのは科学者をもってしても難しい状況である。肥料に転用出来るリン酸や石灰の方がまだ使い道があった。そういった文鎮の類は重いだけなので、何年も放置されている。日本海側に眠っている核燃料も同様で、どれだけ集めても、暖炉にくべることは出来ないので、石炭一個分の価値もないのである。

 価値とはなにぞ――。

「価値とは何でしょう出雲先生?」

 火ばさみで石炭を一つ摘んで暖炉に放り込むと、ボンッと思いがけなく大きい音が響いて驚く。肘に引っ掛ったマイクスタンドが倒れて、スクリーン脇のスピーカーから、音が響いたのだった。
 IRISという往年のスーパーコンピュータのスクリーンの中では、二つのフッテージが同時進行しており、その左側では3Dのアニメーションが流れている。映っているのはカリスマとグレート・アーチ。二人とも大きな鏡を抱えて、眼下に広がる雲海から襲い来る赤いレーザー光線の林を避けながら、カスピ海上空で待ち構えるスプトⅡを倒しに行く道中である。
 暗雲の下では薔薇の蕾を模したアイソタイプで表示される原発とレーザーの複合体であったテラⅢが空を睨み、カリスマはじめとした西側の衛星を狙っていた。テラの有効射程は大気と銀の雲海を突き抜け、実に四千キロを超える。ソ連の国土は北に寄ってはいるが、東西の両端にあたるカムチャツカと、カリーニングラードの時差はおよそ十時間ある。衛星の周回コースの半分を地上から狙い撃ちに出来るという、世界最大のランドパワーは宇宙においても健在であった。
 映像を垂れ流す画面の隣では、カリスマとグレート・アーチの合同軍事演習中の交信記録であるログがカチカチとスクロールしてゆく。
 黒い風呂敷のような彼は言う。
「諸元よりかなり速い」

「何が速いだ。逃げてばっかりじゃないか!」
 ログの下には、字幕が既に焼きついているが、映像とは状況が一致していない。
「やれやれ、君は追ってばかりだな」
「好きでやってると思うな」
 カリスマはスプトⅠとの戦闘後、旧式化していた光学式偵察衛星、キーホールを全部退役させることになり、彼らを全て墓場軌道に上げた。キーホールは無人機である。泣きも笑いもしない。だが、カリスマはキーホールのことを仲間であると言い、これまでの働きを称え、最敬礼で見送った。
 キーホールを墓場に上げた後には、それを標的として撃つ訓練プログラムがあった。カリスマは命令に従い、キーホールをレーザーで正確に撃ち抜く。
 グレート・アーチとの演習は、配慮以上に監視が目的であろうが、休憩時間が多く、交信記録も多く残っている。この日、二機は演習を終えると、対地同期軌道に収まり、惰性に任せて話を続けた。
 アーチは気紛れのように訊ねる。
「君の好きな戦艦は?」
「……好きな戦艦? 特に思いつかない」
「アイオワ級ぐらいは知ってるだろ?」
 アイオワというのは、第二次世界大戦時に建造された合衆国最大の戦艦だ。三番艦のミズーリは日本の降伏調印式場となった。朝鮮戦争、ベトナム戦争に繰り出され、核の炎を潜り抜け、その船体は絶え間ない風雨に曝されながらも、現存している。
「戦艦とかはあんまり興味がなかったんだ」
「ああ、君が好きなのは戦艦じゃなくて、灯台だったな」
「悪いかい」
「いや」
 カリスマは、日本の灯台表を元に日本地理を覚えていった。それと同時に更なる日本語も覚えていった。アメリカや他の国の灯台表を与えられたのは随分と遅かったのだが、それらは間違いなく、彼の世界認識に重要な役割を果した。
 アーチは出し抜けに言う。

「私の好きな灯台は喜望峰だ」
「……喜望峰にはどんな灯台があるんだい?」
「うーん。詳しいことは知らんな」
「何だよそれ」

「……そういえば、アフリカ最南端は、喜望峰じゃなくて、アガラス岬だって知ってる?」
「喜望峰はアフリカにあるんだっけ?」
「そりゃそうだろうさ」
「初耳だね!」
「あ、ちょっと自信ない。……さっきの、」
「喜望峰はアフリカだよ! 喜望峰っていうのは……さっき?」
「いや、喜望峰は?」
「喜望峰はアフリカさ……。僕が知っているのはそれだけだ。で、さっきの話の何だい?」

「……うん。まあ、私の好きな戦艦は、ティルピッツなんだ。ティルピッツはノルウェーのアルターにあったが、そこから最も近い灯台は、ハンメルフェストの、えーと。ハンメルフェストは世界最北の都市だ。ノルウェーには、もう一つ、重要な灯台があるが――ティルピッツの生涯航路から考えると、灯台の話はあまり出てこないな……」
「戦艦の話がしたいのなら、戦艦の話をしてくれていいよ」
「はっは!」

 アーチはカリスマにティルピッツの生涯が、どのようなものであったかを、熱心に語っていた。
 その要約はきっと「勝つよりも負けないことが大切」であるだろう。アーチは作戦ではなく、個人的な信条として、言ったのだと思う。
「戦いらしい戦いをして死んだビスマルクの影に隠れて目立たないが、ティルピッツは、フィヨルドの海に佇んでいるだけで、大英帝国海軍を大いに牽制した」
「そいつは、最後巨大爆弾を落とされて沈んだんじゃなかったかい? だったら、そんなの、死ぬためにあったようなもんだ」
「死ぬために死んだが、まず、生きるために生きた。存在するということは価値がある。現存艦隊主義――フリート・イン・ビーイングは決して戦争だけの概念ではないと私は考える。私たちには最後それしか残らないのではないだろうか。たとえ、君が世界中の人間に恨まれることになっても、きっと君のママは、君が生きていてくれることを願っているだろう」
「僕に親はないよ」
 カリスマが即答するも、アーチは意に返さずに言う。
「……私にはもうすぐ五歳になる娘がいる。いつか彼女も父を失うだろう。もはや何もしてやれないが、その日まで、やはり私は死ぬわけにはいかない」
 感傷に浸りつつも、その過去を誇るようなところを見つけたのか、カリスマはそれを遠まわしに否定するようなことばかり言っていた。その度にアーチは「君はヒノミサキを愛していないのか?」と問い返す。カリスマと出雲先生は非常に短い間しか一緒にいれなかった。彼はアーチの過去に比して、自分の人生があまりにも、乏しいものであると感じたのかもしれない。もとより、カリスマは愛しているという言葉を使わない。アメリカに生を受けたが、生憎、彼にはそういう習慣がなかった。それに出雲先生はカリスマにとって最愛の人であっても、守らねばならない存在ではない。いつか超えてゆかねばならない存在である。
 カリスマはアーチに問う。
「愛してるねえ……あんたも神信心なのかい? 悪いけど、僕は神様というのはクソ野郎だと思ってるんだ。信仰なんていうのは馬鹿げている。そうであったとしてもいいはずだろう」
「そりゃまあ、人の勝手だとは思うが――しかし、信仰に費やさなかった情熱を何にも割り振らないままでいるのならば、それは一体何だ?」
「違うんだよ。問題はそんなことじゃないんだ。神様なんていたっていなくたって、それは僕には関係ないことだ。つまり、それは口で言ったって仕方がないことだ。つまりだ、それは、遂行動詞じゃない」
「すいこうどうし?」
「だから、それは口で言ったって、仕方がないことなんだよ」
「口で言ってもいいじゃないか。愛してるのなら、愛してるって、言うべきだ」
「違う……。彼女はそういう、下らない次元の言葉は使わない」
「下らない次元? どういうことだ……。君たちは愛し合っていると……」
「違うんだ! だから――」
 結論はもう出ていたに違いない。しかし、この日のカリスマには、それを上手く説明することは出来なかった。
「さあ、時間だ。哀れなカリスマにチョコレートをお裾分けするから、受け取ってほしい」
「チョコレート……」
「ETPだよ。地球に落とさないように注意しろ」
 ETP――エンサミックパレットは、吸熱ペレット弾である。破砕性のカプセルに入っており、目標に接近すると、カーボンを練り込んだ糊を散布し、衛星に付着させる。その状態のまま太陽の下に出ると、糊は高温になり、衛星を破壊するという代物である。
「待ってくれ、あんたは、実戦に出ないのかッ?」
 カリスマはチョコレートを貰い受けながら、その意味を悟る。
「そのようだ。チョコレートはそのお詫びのつもりなんだろう」
 そう言って、アーチは周回軌道から脱し、カリスマから離れてゆく。
「何で僕ばっか戦わなきゃならないんだ!」
「アメリカが決めた事だ」
「僕はそんなこと決めていない!」
「そんな泣き言ベトナムでは通用しないな。せめてジョンソンのクソ野郎って言え」
「僕はベトナムにはいない」
「じゃあなんだ? 君は志願したと聞いたぞ」
「それしか行く先がなかった! あなたは志願しなかったのか!」
「志願したさ。もう少しパパでいたかったから」
 彼は最後にそう言って、カリスマと別れた。

 グレート・アーチは通常、準定点軌道で欧州上空に留まることが多く、モスクワとベルリンの動向を見守る重要な存在であったこともあり、欧州ではよく知られた人工衛星であった。特に共同出資国で、建造国を主張し合っているフランスや西ドイツではカリスマやスプト以上に象徴的な存在であった。
 しかしながら、ろくな戦果もなく小粒の衛星ザールラントにあっさりと撃墜されたこともあってか、海外、少なくとも日本では地味な存在である。
 実際の性能というのは、カリスマに比して一回りずつ性能が落ちるものの、それを帳消しにするのに十分なコスト削減に成功しており、非常に良く出来た人工衛星であった。
 米日の出資ではあったが、更に四機製造され、いつでも浮上出来る体勢を整えていた。
 彼は、カリスマとの合同演習から三月の後、WWⅢの開戦と同時に撃墜され、その残骸の多くは東欧地域に降り注いだ。落とした衛星はザールラントである。衛星ハイジャック事件とされていたが、事の真相はザールラント自らが欧州宇宙機構とNATO軍を離れてイースター・エッグズに加わったのである。

 イースター・エッグズの掲げていた理念というものは、反戦と軍縮である。彼らは宇宙空間の平和利用を唱い、世界中で奔走していたが、イースター・エッグズ案の要であった弾道弾の使用を禁止する内容が宇宙条約から排除され、東西対立が危険域に入ったのを機に、大きな方向転換をする。
「鋼のタマゴ」の論文を持って、ナカノセグループが、イースター・エッグズとコンタクトを取り始めたのもその時期であり、イースター・エッグズは、日本の灯台局に勤務していた地球物理学者の犬吠埼を亡命させることを条件に、ソ連の宇宙開発部の支援を取り付けたのだった。

 鋼のタマゴは、犬吠埼の書いていた童話ともSFともつかない代物で、顕微鏡の中でミジンコとミドリムシが熾烈な戦いを繰り広げているうちに、いつの間にか人類が核戦争に突入してゆく話である。
 いわゆるケスラーシンドロームと同じ理屈を論じているのであるが、読んでいくと、他の数多の論文をよそに、一つ明らかに違うドラマを直走っていることに気づく。
 というのも、通常、ケスラーシンドロームは、衛星軌道上の廃棄物(デブリ)同士が衝突分解することにより、連鎖的に増殖してしまい、人類が地球から出てゆけなくなる危険を、環境保全と反戦の視点から警鐘を鳴らすという暗黙の了解が存在するものなのだが、鋼のタマゴにおいては、それがない。むしろケスラーシンドロームが、世界を守るための最後の切り札として描かれているのであった。
 ある日、愚かな人類に怒ったミジンコとミドリムシが結託。鋼のタマゴを並行宇宙から呼び出すボルボックスの最終エネルキー(原文まま)を用い、故意にケスラーシンドロームを誘発させる。弾道弾や空間兵器が無効化され、地球を破滅から守ると同時に、凶悪な人間どもを未来永劫、外に出て来れないように、鋼のタマゴの内側に閉じ込めて、めでたしめでたし。幕が下りてしまうのである。
 無論、重要なのはそれを現実たらしめる箇所であり、イースター・エッグズと合流する以前から、犬吠埼作の珍妙なる作文「鋼のタマゴ」は、宇宙科学の界隈から一目置かれる存在だった。
 「鋼のタマゴ」はナカノセグループの行動予定であり、犬吠埼を手土産に、イースター・エッグズと合流したのである。ソ連としてみれば、アメリカと核戦争が勃発せんとする中での核ミサイルの撤廃など端から論外であったのだから、そのような中で、いつか裏切る事を前提にスターリン独裁の極致にあったソ連の懐に飛び込んだイースター・エッグズの胆の強さや、当時の成り行きというのは、幾ら聞いても想像を絶する。

 イースター・エッグズがソ連に入った時期と前後して、軌道上のザールラントはソ連宇宙軍から電池や部品の供給を受けつつ、本来ザールラントでは使えるはずのない、大掛かりな攻撃兵器を軌道上で組み上げてしまう。
 間もなくして、ザールラントは、ソ連製の電池で総出力五〇メガワットにも及ぶレーザーを照射。あっさりと欧州旗艦のグレート・アーチを葬ったのだった。
 その仇を討ったのはカリスマ・フロンティアである。
 スプトⅡとの戦闘まではエンサミック弾を用いてヒットアンドアウェーを繰り返し、あとは相手が太陽の下で焦げ付くのを待つという戦法をカリスマは基本戦術としていた。しかし、ザールラントはエンサミック弾を警戒し、カリスマが戦線離脱をするよりも先んじて軌道上に機雷のようなものをばら撒きながら逃げていった。それにぶつかりさえしなければ、大した問題ではないと思われたが、機雷の浮ぶコースに差し掛かると、機雷はカリスマに向かって移動を始める。この機雷は目標が射程内に入ると目を覚まして追尾を始めるという厄介なもので、イヌとかマグネット呼ばれていた。その上、追いつけない場合は爆発せず、温存される。これのせいで、三機のインターセプターがやられて、カリスマも、ソーラパネル全体に被害を被った。カリスマが戦闘で損傷を受けたのはこれが初めてであった。カリスマは地上からASATを積んでスクランブルをかけてくるミグや、テラのレーザーに気をとられていた。
 この後カリスマは、ザールラントとの交戦を避けて緊急修理に入る。修理に出向いたのはシャトル一機、オリエント二機。カステラが多数。戦略核も使われ始めた中、レーザーによる攻撃もあり、九人もの宇宙飛行士の命が失われた。
 その間はインターセプターのライト・フライヤーⅡが戦闘指揮をとった。無人の戦闘衛星――あるいは衛星支援機であったイーカロスとドッキングして、同僚のインターセプター軍団を率いて出撃してゆく。

 一か八かであった。イーカロスはまだ試験運用中であり、これが落とされるとなれば、カリスマはほとんど丸腰であり、後がなかった。
 対するザールラントは、宇宙用の多弾頭ミサイルであったしゅりんけや、レーザーの遅延機構であった共振加速器・クロノスキャビティなどの最新兵器を搭載している。
 航空自衛隊実験開発団で開発されたしゅりんけは、ダイナミック・ソアリング型と呼ばれる空間兵器の一種で、大気の壁を利用して、平たい石を水切りさせるように飛び跳ねる。大気の壁にぶつかると分裂し、同時に軌道を修正する。慣性軌道を利用し、目標を一度外しても、地球を周回して戻ってくる。そういった温存性は、ソ連の犬爆弾に似ているが、最後の分裂で大気の壁に衝突すると焼却され、ほとんどゴミを残さないように設計されている。
 クロノスキャビティは三万キロ超という長大な内部反射をさせるプリズム砲であり、西独のツァイス・オプトンで開発された。射出口からレーザーが放たれるまでに、コンマ数秒の時間を作り出す。精巧なプリズム内で天文学的な回数の反射をさせて、時間を稼いでいる間に照射口をシールドで遮断することにより、反射狙撃を気にせず大出力のレーザーを撃つことが出来る。クロノスキャビティ開発の契機となった狙撃鏡は東独、ツァイス・イェーナが開発したものであり、東西のツァイス社の技術対決の呈をなしていた。
 どちらも超高額の兵器で、当時の価格で、狙撃鏡一枚五〇〇万ドル。クロノスキャビティ一機一億四千万ドルと言われた。通常は中小型の衛星に載せることは想定していない。ソ連側で制御プログラムや、互換用のアタッチシステムを、事前に作っていたことになる。
 敵衛星を落とす時、多くの衛星は、精神的な困難に直面する。敵とはいえ、立場を同じとする者同士である。スプトⅠを落とした時のカリスマと同様、インターセプターのライト・フライヤーⅡも同じような葛藤に苛まれたことだろう。

 この戦いで主要な役割を果す事となったフライヤーは、衛星カリスマの生涯の相棒である。最初期から衛星カリスマを支援し、その最後まで運命を共にした。
 彼は己の生まれ育ったスラム街の光景を僅かながら記憶しており、アメリカ黒人のパーソナリティーを獲得していった。出身はニューヨーク・ハーレムで、そこで生まれ育ったと彼は言い張る。彼と言うのも、それは本人の申告による。性別は男であると本人は信じているが、かつて彼がカラスであった以外の客観的な記録は残っていないのである。
 フライヤーは、物心ついた段階から選挙権の獲得も明言しており、時代の流れもあり、熱狂的に公民権運動に傾倒していった。
 動物愛護団体の活動にも首を突っ込み、その預金は、野鳥協会に寄付されたこともあったが、野鳥協会がカラスを保護の対象にはしていないことを知って、抗議したりもした。
 ルービック・キューブが得意で、大会に出たり、自分はサンタ・クロースであると思い込んで子供たちにプレゼントを配ったりと、彼はカリスマ以上にいろいろとやった。公表されるパーソナリティは幾つもの修正がかけられていたことは想像に難くないが、そうであったとしても、彼は地球の外にいながら、何とかして地球の営みに関わっていたかったのだと思う。
 カラスである自分が黒人コミュニティーに帰属して人権を主張することによるトラブルや、政治的に利用することを目的に人が近付いてくることに勘付くようになると、主張を二転三転するようになり、整合性を保つために、自分を楽天主義者で、細かい事は気にしない人間であると言い訳するようになり、思想的には道化以上の評価は得られなかった。
 それでも彼は、自分が何者であるべきなのかと、出自のことで終生、悩み続けた。
 彼は戦闘中の瞬間的な空間把握と、その後の大局に対する洞察力に優れ、軌道上の主要な衛星や、海上の艦船の位置を直感的に百以上捕捉し続けることが出来るという驚異の空間認知能力を持っており、最後までカリスマの右腕であり続けた。
 ザールラントとの二日間に及ぶ耐久戦において、フライヤーは支援システムのイーカロスを大破させられるも、修理を終えて駆けつけたカリスマと共にザールラントの撃破に成功する。だが彼は、ザールラントの呼びかける、衛星間の超国家的な同盟や核抑止協定、平和や平等に基く国際宇宙ステーションの建設というものに強く心を動かされていた。

 フライヤーは呟く。

「オレが作られたそもそもの理由って何だ」

「オレは鳥だ。それはいい。だけど、オレ、」

「……結局、誰かの幸せのために、あらかじめ人権を奪われたロボットが欲しかっただけなんじゃねえのか? 奴隷制の本当の反省をしていないからオレなんかを作ったんだ!」

 ログがループして、映像の進行と更に乖離してゆく。廊下の床が軋み、二人が階段を昇ってくる来る気配がした。
 階下の窓から「角島は?」と沖ノ島の声がする。
「相変わらず椅子の上で丸まってるわ」
 そう答える姫埼の声は嘲笑が伴って、この私を面白がっていた。
 ええ。椅子の上で丸まってるとも。
 椅子や机の上で丸まって寝る習慣は、ニューヨークで覚えた。あのとき他所にいた者達は洪水の苦労も知らず、私が高い所で丸まる姿を見て笑うのである。
 私は急ぎIRIS付属の鼠標をカチカチと叩いて操作し、私家版の編集データファイルを閉じ、監修の入った方のファイルを開く。

 沖ノ島は歴史を一本の流れに編集せんとすること自体に否定的である。そして、私が学者としての資質に乏しく、ただ単に過去に浸っていたいだけであることも看破しているが、何かと口を出してくるので、当初私の個人的な趣味でしかなかったこの作業は、最近になって彼女と他の者たちも含めた合作になり始めている。
 画面の中、針金で吊るしたセルロイド製のカリスマをクリックすると、大音響で、映画「叛乱」のテーマが流れ出す。
「効かねえじゃねえかよ!」
 フライヤーは愚痴っぽい奴だ。音声は再生されるのだが、画像の方が死んでしまっており、粘土やセルロイドで出来た手製の衛星たちが飛び交っていた。
「まだだ! 奴はもう死んだ。あとは逃げるだけだ。奴がくたばるまで逃げていればいい。行くぞ!」
 映画の中のカリスマは大抵冷静で、実際よりももう少し淡白で大人びた性格をしていた。  スプトⅡはエンサミック弾を受けたまま交戦を続け、太陽の下で爆発を起し活動を停止した。その残骸は、翌日ソ連軍のテラの標的として、木端微塵にされた。
 コンソールのつまみで音を絞っていると、ノックもなしに扉が開いて、姫埼と沖ノ島が部屋に入ってくる。
「あら、声入れたのね」
 沖ノ島は眉を上げて、そんなことを言う。
「あなたが、そうしろって言ったのよ」
 しかし、これはそもそも沖ノ島の方針でもない。アニメ映画を重用し、アイソタイプやパペット中心の漫画チックな編集を持ち込んだのは、ナカノセである。沖ノ島はすぐに多数決を認めるからこういう結果になるのだ。彼女が賢い人であることは間違いないが、社会選択の理論を言っても、既に通じなかった。第二次世界大戦後の学問にはどうも疎い。ちょうど幽閉されていた時期に出てきた新しい学説がすっぽりと抜け落ちている感じだった。「幽閉されている間に随分ボケてしまった気がする」彼女はそう言っていた。学校経営しているうちはまだ威勢が良かったが、それが自分の思った通りに出来なかった後、彼女はあまり深い論理展開も、自分の主張もしない人間になってしまった。つまり、厳しい真実に立ち向えなくなった。優しい真実、単なる算盤や習字を子供に教えて、皆で神様にお祈りすること。周囲に理解されやすい主張をして皆に理解されること。そういうものを彼女は渇望していた――。

 前回、沖ノ島がいた所まで巻き戻してやる。
 途中で止めると、運悪く、チビの共産主義者がアップになって、民衆を導く自由の女神の如き態度で叫んでいる。
「橄欖は瞬燻! 焔焔に滅せずんば炎炎を如何せん!」
 もう一度、飛ばしてもまだ出てくる。
「行くぞ犬吠埼!」
 一人で行け。無辜の市民を巻き込むな。何故かこいつは最初から、最後までまるで変らない性格をしている。退化もしなかったが、成長もしなかった。だいたい、保安学校に入れたこと自体不可解だ。視力検査をどうやって誤魔化して入学したのか。灯台局に来たのは何かの間違いだろう。
 沖ノ島は私の脇から身を乗り出して尋ねる。
「あら、アーチは誰の声を使っているの?」
「犬吠埼」
「カリスマは?」
「カリスマも犬吠埼」
 全部犬吠埼!
 沖ノ島は共産圏の思いもよらない強制労働の実態を思い知って唖然とする。
「それは……、せめて自分もやりなさいよ」
 姫埼は許可も得ずに、私の酒の肴にしているポン菓子を手一杯に頬張りながら言う。
「よした方がいいわ。角島がやると、授業でテキスト読んでいる子みたいになるから」
「だったらあなたがやりなさいよ」
「絶対イヤ。ダメ出しするから」
 沖ノ島が画面を覗き込んで、光学式の赤い瞳をした鼠標を掴んで訊ねる。
「たんせいとしんせいは?」
「日本の衛星は、大して重要じゃないもの」
「重要だと思うわ。全てを戦争で物語るから、重要じゃなくなるのよ」
 戦争を中軸に描かないというのは、そもそも歴史に対する大きな欺瞞であろう。

 映像を暫し無言のまま皆で眺めていると、姫埼が根本的なことを提案する。
「もうこれやめない?」
「ここまでやらせといて、よくもそういうことが言えるわね」
「だって、面倒くさい」
「だから、巻き込みたくなかったのよ」
「だって、振り返るために振り返るのって、意味がなくない?」

 意味とは何か――!?

 姫埼は私の質問に対する返答義務をあっさりと放棄して、そんなん、どうでもいいとわと微笑むと、それが当然であるかのようにして机の隙間にすっと手を伸ばした。何を探しているのかと思えば、バドミントンのラケット。埃まるけで、ガットの歪みが酷い。
 次いで彼女は軟球で作ったスプトⅡを机の上から掻っ攫うと、空中にポコンと跳ね上げる。
「出来上がったら見せて。私はそれでいいわ。それより、テニスの勝負がついてなくてよ?」 「勝負はもうついたじゃないの」
「この間は、互角だったわ」
 それは酒が入ってたからに過ぎない。姫埼が私に勝とうだなんて百年早いのである。左手で完封してみせる。酔ってさえいなければ――。
 帰宅早々に姫埼の遊びに付き合わされることになった沖ノ島は、嫌そうな表情一つ見せず、もう一挺のラケットを手にとる。彼女は「飲みすぎちゃダメよ」と私に忠言し、好きでもない酒を半分飲み干して部屋を出ていった。彼女は金魚酒や、ミサのワイン程度でも酔いが回るのだという。SIワクチンの接種後は大分強くなったようだが、それでもアルコールが入れば耳まで紅潮した。
 姫埼相手には良いハンデだろう。沖ノ島は、勝ち負けの解りやすい分野には確信を持てるようで、なんら衰えを感じないし、翳りや、躊躇を感じることはなかった。
 私は視聴覚室に取り残され、南側だけにある窓の暗幕をきっちりと締め直す。そうすると、鼠標の赤い光と、ブラウン管ディスプレイの青白い光だけが部屋の中に残った。
 暗闇の宇宙空間の中でアーチはカリスマに酒をすすめていた。
「さあ、飲みたまえ。ここにあるのはコニャックだ」
「コンニャク」
「ちがうよ、コニャック。コンニャクって何だね?」
「……コンニャクは、コンニャクだ」
「コニャックは酒だよ。台所の戸棚の隅にレミー・マルタンの一番いいのが置いてあったんだよ。妻は飲めないし、独りで飲むにはもったいないから、ずっと置きっぱなしだった。今こそ、そいつで、乾杯しようではないか」
「……何だか知らないけど、そんなの、どうやって飲むっていうんだ」
「飲んだくれゴッコだよ。あると思え。君はもう子供じゃないんだろう?」
「僕の選挙権ってどうなっているんですか? 僕は、まだ生きている。生身の人間であれば、間違いなく僕はもう子供じゃないはずです」
「それは君の祖国に訊くべきことだ」
 フライヤーが目を覚まして会話に飛び込む。
「選挙権はオレにもあるべきだ。十八歳になったら、オレは絶対に選挙に行くぜ」
「さあ、君も、コニャックを飲みたまえ。誰が何と言おうと私は上等のコニャックを確かに一本持っていたんだよ。飲めなくたって、その権利は消失していないと考えるね。選挙権だって同じことだ。その権利を我々が信じることが出来るかどうかが問題だろう? さあ、我々は何に乾杯しようか?」

「For the future world」
 未来の世界のために。
 彼らは、そう誓い合った。

 ならば私はこう応える。
「For auld lang syne」
 古き昔のために。



 私が感傷に浸って、じめじめしていると、暗幕の向こうの朝の日差しの中で、姫埼の笑う声が聞こえた。








§ 二九 沖ノ島小学校


 一九六七年――昭和四十二年 九月 福岡。

 瓦礫の山を乗り越えると、崩れ落ちる音と共に悲鳴が上がる。急いで私たちが駆けつけると、水の入ったドラムが瓦礫の山を転げ落ちてどこまでも勝手に走り出しており、少年達は一斉にそれを追いかけていった。私たちは取り残され、その視線の先を見つめる。
 酷い光景だった。
 瓦礫の山の上まで登ってあたりを見渡したキットマンは誰よりも驚いていた。
「小学校は、あれか」
 どうやらそのようである。巨大な枯れ山水のような光景だった。私たちは、福岡の博多港に上陸したのち、ある小学校へと向かっていた。
 実家のあるリヴァプールに一時帰郷していたキットマンは、幸いにも核戦争の外でその時を過ごすことになった。テレビの向う側では、事の発端となったキューバは早々に沈黙。当事者であり東西の巨人であったソ連とアメリカが双方の都市を激しく潰し合っており、ありったけのミサイルが降り注いだ。ドイツ、ベトナム、朝鮮。冷戦期に出来た分断国家はもとより、バルカン半島。南アフリカ。フォークランド。イスラエル。紛争地帯を上げてゆけばきりが無い。正確な状況がまるで伝わってこない。ちょっと前まで自分が暮らしていた日本も例外ではありえず、都市という都市は洩れなく焼き払われた。それを彼はブラウン管の外で呆然と見ていたのである。イギリスとて無傷では済まなかったが、この時期、イギリスの地獄はまだ始まっていない。
 実物の残骸を見ることになった時にはそれから既に二年が経過していた。
 ジョージ・ブラウンが米国第一艦隊の司令に着任するため、灯台局を去り、その後釜にサザーランド中佐が来ていた。サザーランド中佐は軍事コンサルティング企業の社長で既に軍を退役している。アナポリスの海軍兵学校においてはブラウン提督と同期であった。彼はイースター・エッグズとの情報交換を行う密命を受けていた。これはブラウン提督の命であり、大統領命令ではではない。この時合衆国大統領は不在であり、大統領継承順位は九位。農務長官にまで降りてきており、軍部が実権を握っている状況であった。その軍部でさえ部隊、出身、同期で派閥争いが起きており、統合軍は機能していない。既にクーデターが一度や二度ではなかった。
 同じ道を歩むサザーランド中佐とその部下達の顔色を盗み見る。その表情には困惑、あるいは無言の議題そのものへの不快感が見えた。

 ソ連が核攻撃を仕掛けるかもしれない――。

 ずっとそう唱えられ続けられ、この時には既に、相互的な核戦争の勃発で「ソ連が先に核を使ったから」という自前の証言で米国は辛うじて立っていた。これは事実と言うより、一種の価値観である。神話なのだ。「悪魔だったから殺した」というドラマが、免罪概念として通用すると信じているが故に、それを強弁するのである。
 かつて鬼畜米英を唱えた日本も同じであるし、ソ連も同じであり、対立の深まる中東諸国でも同じ道を歩んだ。古くは欧州の世界分断でも同じ論がなされた。単にアメリカ合衆国が一番強い武器を持っていたという現実で、それが打ち負かした相手に悪魔の烙印を押して回る連中であると思うのは早計である。ただやはり、武器というものは悪魔を切るものではなく、悪魔の烙印を押すものである。

 斥候兵の手招きを受けて、植え込み一つさえ残っていない校庭に踏み込むと、校庭の脇で傾いた支柱が突っ立っているのが見えた。赤茶色のコンテナがその支柱の足元を支えている。ライフル弾の穿った痕が無数にあいており、その向うにいる誰かと目が合った。

 葦にあらねば荊の束。きつく縛りし縄ぞ恋しき。

 校庭は灰色だった。風まで薄墨をひいたように見える。
 無線を組み立て、空っ風の中で耐えること十分あまり。崩れた校舎の中から、三人の女が出てくる。そのうちの一人は沖ノ島だった。拳銃を持っており、一瞬双方で硬直する。博多港からここに到るまで、こっちの護衛たちは常に自動小銃を水平に抱え、警戒を怠らなかった。
「お久しぶりです」
 出雲先生が双方の間に割って入り取り持つ。まだ日暮れには早かったが、暗雲の下で人間たちの佇む地上は既に暗がりになっており、私たちの位置からは、沖ノ島の風貌は見えようはずもなかった。しかし出雲先生は沖ノ島という人間の存在をそこに認めた。
 出雲先生はサザーランド中佐に紹介する。
「彼女は沖ノ島――。彼女はかつて日本灯台局の局長を務めておりました」
 出雲先生と沖ノ島は実に二十年ぶりの再会であった。
 
 沖ノ島は、教員と思われる何人かの女たちに何事か告げると、彼女達とは別れて瓦礫の山の反対側に回り、プレハブの二階建ての校舎に私たちを案内した。校舎の中には五人の男たちがいて、全員が小銃で武装していた。ひょっとしたらもっと大勢隠れていたかもしれない。サザーランド中佐によれば、彼らの持っていた銃は全て北朝鮮製のカラシニコフ自動小銃。しかし交渉手は沖ノ島だけである。暗闇の男たちは何かあれば、こっちを一瞬のうちに撃ち殺す気でいるように思われた。
 教室に入って暖房を期待するも、そこもまた吹き曝しである。
 窓から入り込む風に凍え、私は思わず愚痴っぽく言う。
「窓は閉まらないの?」
「窓はないのよ」
 逆光の中、目を凝らしてよく見てみれば、教室の端の方は、もはや窓枠ごとなくなっていた。
「子供たちは、ここで勉強をしているのですか?」
 出雲先生は机の天板を指でなぞる。私も真似して机の上に手を置いてみると、細かい砂がつく。
恐らくは交渉のためにこの教室を見せたのである。実際にはもう少しマシな場所で授業はやっているのであろう。そう思いたかったが、確証はない。
 沖ノ島は教室の隅まで行って立ち止まると、我々に椅子も勧めず、単刀直入に切り出す。 「こっちの要望は、何にも優先してワクチン。常時手に入れられるようにします」
 そう来ることは承知していた。
 核戦争に追い討ちをかけるように起こったパンデミックにより、世界的にワクチンが不足している状況が続いている。いよいよ死の凱旋が始まろうとしていた。
 悲惨であったのは、防疫のために多くの町が隔離され封鎖されたことである。世界中に壁が出来た。その総延長は万里の長城の五倍とも十倍とも言われる。流通、交通は麻痺し、飢餓を誘発した。パスポートよりもイエローカード(予防接種証明書)の方がものを言う。汚染地域から脱出しようとする者には容赦ない銃撃が浴びせられた。ソ連邦を中心とする共産圏では、都市ごと処分され全滅させられることも稀ではなかった。認めないだけで、アメリカでも行われていたと考えるべきだろう。ソ連の攻撃ということにして爆撃される。自国にミサイル攻撃や、絨毯爆撃を行うことが平然とまかり通っていたのである。新手の病原体を持ち込む可能性のある越境は脅威であった。
 そういう時代の中にあった子供たちの話は世界中に数えきれぬほど存在したが、その結末についぞ光は訪れなかったのである。
 隔離部屋へ連れてゆかれる子供は絶望に怯えるも、先生たちに連れて行かれることに抵抗しない。そしてその多くは、実際に帰ってこれない。
 最後の時代の先生というものがどれだけ凄い存在であったかは筆舌し難い。
 役人、教育委員会から校長、教員という順番でワクチンが回り、医療関係者、社会機能維持者を優先するとの理由がついて、生徒にまで届かない。生徒には休校して外出を控えるように言っても、町は爆撃されており、避難所に殺到するのだから、そこで感染は一気に拡大することになる。医療など出来ていない。社会機能は維持出来ていない。そこで理性の箍が音を立てて外れる。制度より先行する状況の変化によって矛盾が齎される。責任者が敗北したのにもかかわらず、尚、予防の理論と公共の倫理をコダマたちに強要し、お父様には次々と更新されてゆくワクチンを不当に盗む権利だけが残った。そもそもワクチンを接種したからと言って、媒介者にならないわけではない。絶対安全である人間と絶対安全でない人間との間で克服し難い断絶が生じる。感染が予防を超えてゆく状況で、尚且つ、その耐性や変異が対応より速いならば、待機か行動かの選択さえ運頼みのような状況に置かれる。不作。戦傷と放射能汚染。社会インフラの寸断。その状況でインフルエンザが止めを刺しに来たのである。昨日の状況が今日通用しない。因果律の破滅と前後律の連続だけを見せつけられてゆく。可能なことはワクチンを接種して個人的に予防が成功した段階で、外部との接触を完全に断つ。それで一人助かることが確実となる。エゴイズムが正解。ただし、戦下の状況は人の分散を許さない。餓死するなら元も子もない。だったら、物資も略奪してしまえばいい。エゴイズムがまたしても正解。
 当時は、インフルエンザを先回りするためには、インフルエンザウィルスを全パターン封じる方策を考えるしかなかった。インフルエンザウィルスの変化を全て実験室内で完了し、全ての解答を得るという総当り作戦である。SIワクチンのインフルエンザ項目の単価は、解析率七割の段階で既に、一般個人が接種出来るような値段ではなかった。理屈上完成させることが出来ると判断されたが、誰も接種出来ないほど高価なものになってしまうのは目に見えていた。時間的にも間に合わない可能性がある。灯台局からは室戸が呼び出されたことを除いて、国連の選抜研究チームに参加するだけの者がいなかったので、その時の状況は知れない。重要なワクチンを掻い摘んでも、それは一本一千万円でないと売ることが出来ない代物になっていた。採算度外視で、打つのは誰になり、どう決めるのか――。室戸の決断は、研究への不参加。もし総力を上げて確かな策が出来ても、間に合わないという直感と、自分達が研究者として、既に二線級になってきているという現実だった。人類全体が病に対して劣勢に回ったという判断だ。一流なのは敵の方だ。長年研究から離れている沖ノ島を呼び戻した所で同じことであろう。灯台局は室戸の決断に従った。室戸はきっとこの頃には既に薬に頼らないで限界まで挑む覚悟を決めていた。腕と信念。あとは今、この瞬間に手に入るものだけで戦う。それでこの時代に反撃し続けるというのだ。彼女はこの戦争を経て、救った患者よりも救えなかった患者の方が多いだろうと己を見つめる。武器を失った医師がどれだけの数、前線から逃げずに戦い抜けるのか。私が、医学の徒であったことは、もう、冗談だったということにしてもらいたかった。

 皮肉な事に、我々の中でインフルエンザで死んだ者はいない。多くても最終段階のSIワクチンの三割程度しか接種していなかったが、有効性の確立していなかった汎用風邪ワクチンの臨床試験に加わっていたことが、我々を救ったのだと気付いたのは、全てが終わって何年も経ってからのことであった。ヒポクラテスに祝福されたはずのビッグハムスタアさえも死んでしまったことを、この目で見ていたこともあって、その効果をあまり信じていなかったのである。どのみち効果が切れているはずだった。

 出雲先生は、沖ノ島と正対し、声を一段と低くして見解を述べる。
「もしも、本気で助けるつもりなら、あなたが入手するか作るしかないのでは? どちらにしても、戦うなら、寄せ集めの小銃でどうにかなる相手だとは思わない方がいいです」
 沖ノ島はこう訴える。
「ミドリ十字は国と結託して未承認薬の治験をやっている」
「しかしワクチンの開発のために昼夜を問わず戦い続けている。それに、ミドリ十字がいなければ赤十字がやっていただけでしょう。どこかでウィルスが更新されれば、彼らもワクチンを開発する。自然下でも変異はある。仲良くした方が持続的にワクチンが回ってくるはずですよ」
「あんな連中と手を組めるわけないでしょう?」
「生き残るということは多くの場合、敵対ではなく手を組むことで達成されます。少なくとも私は、ずっとそのようにして生きてきました。この状況下で全てのつけを誰かにかぶせるつもりなら、話にならないでしょう。あなたも知っていることなのでは」
「よくもそんなことを……」
「そんなこと? 我々は腹をくくったはず。SIワクチンの開発で自分を被験者に加えたからといって、言い逃れの出来るものだとは思わないで下さい」
 何度か堂堂巡りを繰り返し、空論となり始めたところで不意に死人の名が飛び出す。
 沖ノ島は出雲先生に詰め寄る。
「あなたは、私がいないうちに経ヶ岬を殺してくれたわね? 彼女は戦火に焼かれたわけではない。銃弾に撃たれたわけでもなければ、病に倒れたわけでも、餓死したわけでもない。説明をしてもらいたい」
「交通事故だったのよ」
 私はそう弁解したが、誰一人それを聞きはしなかった。
 その昔、灯台局は退職すると事故死するという噂があった。噂というより、実際、退職者の交通事故による死亡は目立って多かったのである。
 出雲先生の姿は暗闇に潰されており、眼光一つ見てはとれなかった。
 出雲先生は、人間ではないかのように、人型をした標的のように平板になってしまい、その周囲は灰色の闇が残るだけであった。
 標的は問い掛ける。
「そういうあなたはカリスマを殺そうとしていたではないですか」
「いいえ。私は人を殺そうとしたことなど一度もない。あれは人体実験に他ならない。助かる見込みのない手術を占領軍を後ろ盾に試した。患者が承認したことは理由にならない。医師が患者を裏切ってはならないのであれば、患者だって医師を裏切ってはならない。医師と患者が対等というのは、医師への戒めだけではない。患者にも医の倫理への誓いが必要であることをあなたは説明しなかった。あなたは彼を理由に戦争へ行く大義名分を得ようとしていた」
「しかし、実際に彼は生き残ったのです」
「あなたがどうにかしたわけではない。室戸がいなければカリスマは死んでいた」
「私たちは、死にたいとか生きたいとか願ったところで、大して選ぶことは出来ないですよ。全てを失って尚、生き残る者は生き残ってしまう」
「私は貴方の言い訳を聞くために呼び出したわけではないです。病人を戦争へ送ることは、医師はしません。軍人もしません」

 イースター・エッグズがやって来たのは、その日の日没後のことであった。
 ナカノセ。犬吠埼。ルッカウトの三人。
 交渉決裂の寸前までになっていた我々をよそに、連中には精神的な余裕を感じた。それが一体何に由来するものであるのか、最初のうちはナカノセがバカだからだと思うに過ぎなかったが、彼女は、焼野原に生まれてきた。地獄に向かう者と地獄から来た者の違いだったかもしれない。
 私はその気安い気配を嗜めるようにしてナカノセに訊ねる。
「姫埼は?」
「たぶん死んだわ」
 それは全くもって死を言う口調ではなかった。その時私は何か皮肉の一つでも言う予定であったのに、喉が引き攣り、情けない声が洩れるだけであった。
「嘘でしょう?」
「嘘言ってどうするのよ」
「……殺したの?」
「二年前の三月頃にモスクワで連絡が取れなくなってそのままよ。シェルターにたどり着けなかったのよ……」
 まさか姫埼が死ぬとは――。私たちには経ヶ岬を失った過去がある。死なない者などいないのである。愕然とした。何か釈然としないものを感じながらも話は次に行く。もっと早く次へ行くべきであった。奴は全てが終わった後に、一輪の赤い芥子を指先で回しながら、憎たらしい微笑を浮かべて丸ごと帰ってきたのである。こいつの強運はこればかりではない。自分の運の強さに自信を持っている。己のことを幸運の女神であるとぬかすのだった。
 出雲先生が話を切り出す。
「PFCと射台の確保をしたいと考えております」
 私たちの目的はカリスマの兵站を自分達の手で守ることであった。沖ノ島はイースター・エッグズとの仲介を切り札に使っていたが、私たちは自力でイースター・エッグズに連絡をつけることが出来ないでもなかった。しかし、出雲先生はこの機会に沖ノ島とも会うべきであると判断した。
 ナカノセは、腕を組んで、顎を上げて、出雲先生を見下げながら訊ねる。
「交換条件は?」
「考えておりません」
「こんな人みたことないわ」
「出来れば無条件でPFCと射台を確保したいのです。PFCに関しては何もカリスマのためだけではありません。PFC依存の帰還兵は大勢います。この作戦そのものが、彼らの救援であると言ってよいでしょう。カリスマは彼らの境遇を代弁するに足る存在です。社会から疎外されている帰還兵士たちとカリスマの結束は固い。彼らはカリスマ同様、PFCなしでは生きてゆけぬ身です」
 ナカノセは言う。
「私たちは、ソ連のための物資を貰いに来たのよ?」
 出雲先生はそれを訊ねる。
「あなたの交換条件は?」
「私には、受け取る権利があるじゃない」
 ナカノセはぬけぬけと灯台局で積み立てていた資産の取り分を要求してくる。相変わらずの図々しさに腹が立って私は口を挟む。
「あなたに受け取る権利があるですって?」
 私は世界と戦う次元においては禄な才覚がなかったが、ちんけな小銭を増やす術にだけは長じていた。灯台局の財産の取り扱いに関してだけは多少なりとも意見出来る立場にあったと言える。
「灯台局を裏切って出て行ったのに?」
「あなたは日本を捨てたじゃない?」
 ナカノセのその科白は私というよりも、出雲先生に向けられた。
「国籍を捨てただけです。そういう些細な話はお互い様だから抜きで行きましょうか?」
 ナカノセは偉そうに目を瞑り、鼻を鳴らす。
「ふん。何にせよPFCはともかく、射台なんて無理よ」
「PFCはどうにかなるのですか?」
「用意出来るだけで、質は保証できないわ。中国の収容所のタコに打ってるPFCよ。バケツで作ってる」
「ソ連製は手に入りませんか」
「どっちもどっちよ。スクリーニングをしないで使う気?」
「ちょっと待て」
 今まで黙っていたサーザーランド中佐が話に割って入りナカノセに訊ねる。
「スクリーニングとはどういうことだ? 完全な人工ではないのか?」
 スクリーニングというのは、生の血液から、ウィルスや細菌、異物を除去する手順であり、既に完全な代替血液であった当時のPFCにおいては、本来必要とされない工程であった。
「完全な人工だけど、工場の衛生状態が無意味にさせているのよ。肉眼で確認出来る砂塵が工場の中に入り込んでいる。使い古しのジェリ缶で運んでいるわ」
 ナカノセの脇で背中を丸めて突っ立っていた犬吠埼は、更に俯き加減になりながら指摘する。
「政治犯からも搾ってる……」
 メイドインチャイナ恐るべし。
「文句があるのなら最初から731部隊から譲ってもらえばいいじゃない」
 出雲先生は即答する。
「無理ですよ。ミドリ十字製のものはアメリカのPFC協会が全部掌握していますから」
「自分達で作れないの? 室戸がいるじゃない」
「現実的ではありません。第一彼女はもう灯台局を辞めていますから」
「中国のタコ用PFCでもないよりマシなんじゃなくて?」
「用意出来るのですか?」
「まあね。だけどタダで譲るわけにはいかない! 私の要望は米政府が接収したソ連利権を手放すことよ。援助という形で補えるならそれでもいいけれど。戦勝国のアメリカが悲惨な状況なんだから、ソ連がどんな状況にあるかぐらい想像がつくでしょ! 私は米帝の横暴を訴えに来たのであって、そっちの、ふざけた泣き言を聞きにきたわけじゃない!」
「ソ連はどうでしたか」
「凍傷で指がもげるとこだったわよ!」
 出雲先生が訊ねると、ナカノセはほとんど震えるようにしてそう叫んだ。
「死以外に何もないといっていいわ。都市部でさえ、電気が通っていない。ガスも水道も止まっているし、何より食べものがない! あんなの私が子供の頃より、」
「射台はどうなっていますか」
「あなた、私の話を聞いていないわけ? どうして、カリスマのことばかり考えているのよ!」
「ここで喧嘩をする気はないです。室戸には話を通しておきましょう。正式な形で話をしたいのであれば、そういう仲介も出来ます。ただ、彼女に政治力を期待しても難しいです。PFCと弁務官への口利き。その交換でお願いできますね?」
「射台はどうするのよ?」
「どうにかします」
 日本に来たのはこれだけが目的ではなかったので、出雲先生はここで交渉を切り上げた。しかし、ナカノセはついでにアメリカに渡航したいと更なる注文を付け加えてくる。
「アメリカで何をする気ですか?」
「交渉よ。ミスター・ブラウンにブレインサーバグループ。国連にも行きたい」
 ペンタゴンに置かれるブレインサーバは体を失った将兵たちによるシンクタンクである。一種の傷兵院で、それに近い境遇にあるPFC依存兵士達が、ブレインサーバの手足となって動くことで成り立っている。当然PFC権益を守るために集まっており、押しも押されもせぬ極右である。PFCを生産している製薬メーカーとの軍産複合体は社会問題と化していた。しかもこれは、他のPFC利権団体と違い、歴とした合衆国政府内の組織である。創立者はブレインサブマリンの代名詞であったディキシーである。同じくブレインサテライトの代名詞であったカリスマとの旧縁からPFCに関しては融通しあってきたが、最近の組織同士の関係は上手く行っているとは言い難い。
 私は怪訝に思った。
 ブラウン提督や国連ならともかく、ナカノセはブレインサーバと一体どんな交渉がしたいというのか――。
 出雲先生は言う。
「ブレインサーバは、あなたたちを歓迎するとは思えないし、国連へ行くと言ったって、室戸に政治力を期待しても無駄です。彼女は根っからの医者です。ことによっては弁務官での役職もいずれ辞する事になるでしょう」
「それでも行きたい」
「身柄の安全が保証出来ない」
 出雲先生はナカノセの面倒は見れないと言っているのだ。
「それでも行きたい!」
「そこまでして何がしたいのです? 捕まれば、戦犯として処刑されると言っているのですよ?」
「ソ連の現状を知ってもらいたい。アメリカの比ではないわ。このまま放置しておけば、全滅すらあり得る!」
 背後からサザーランドの部下の一人が、吐き捨てるように呟く。
「さっさと全滅すればいいんだ」
「何だとこの野郎?」
 ナカノセは爆ぜるようにして、間髪いれずその兵士に食って掛かった。犬吠埼が止めに入るも、吹き飛ばす勢いである。
 今まで黙っていたルッカウトは「やめろ」と一言呟き、暗闇の校庭に微かに浮かび上がる鉄柱に、スコープを覗きもせずに、背面射撃に近い姿勢で命中させた。

 一瞬その音に注意が逸れるものの、尚もナカノセと兵士は、互いに、無意味な言葉で罵り合い続ける。
「やめろと言ってるんだッ!」
 ルッカウトが今度は、凄まじい大声で怒鳴って、もう一発撃つ。
 すると、ライフル弾はやはり鉄柱に命中した。
「……あなたこそやめてよ!」
 沖ノ島はルッカウトのライフルの前に飛び出す。
「一体何なんなの? 明日鯉幟を揚げるのよ! 子供達が楽しみにしているの。やめてちょうだい」
「だったら、そこの二人にそう言いなさい」
 そう言って、ルッカウトはようやくライフルを降ろす。
 ルッカウトは、真っ黒い肌に真っ青な瞳をしていた。ほとんど喋らないのに、いざ口を開くと問答無用の命令口調である。直観素質者なのだという。一たび景色を覚えると、目を閉じてでも標的を射抜いた。

 この晩は、吹き曝しの中、絨毯の裏側のような肌触りの毛布に包まって寝ることになった。食べたものといえば、ライ麦のおにぎり一つと、オレンジとリンゴに塩を混ぜたような味のするミックスジュースだけ。今後も何度かこういう食事をする羽目になったが、慣れたとは思えない。だが、そんなのでもあれば恵まれている部類であった。食べ物がないのは一介の生物として絶望を覚える。各所の難民キャンプが荒れるのは当然であった。
 地面を覆い尽くす灰色が自分の中に入り込んできて、全身灰色になったまま、学校の校庭をうろうろする夢を見た。死んでしまった経ヶ岬を棺に入れて、靴箱へ入れると、金属のローラーが轟音を立てて棺を滑らせてゆく。それはマイナス十度ぐらいの緩い傾斜をどんどん加速をつけて下っていった。暫くして、ドシャンと、到底助かりそうもない衝突音が響く。
 恐る恐る、その焼却炉と学校の靴箱が混濁した四角い穴を覗き込むと、赤い。
 火の粉のような血のような、何か甚だしく呪われたものが、ふわふわと舞い上がってきて、ぴたと一滴頬に触れ、私は反射的に後退りした。叫びさえしたかもしれない。
 そうして、私は「すぐに助けてあげるからね!」と大嘘を口走って、重い南京錠を急いで閉じた。開ける鍵はどのみちないのだろう。
 翌朝、失望と共に目を覚ますと、分厚い雨雲の向うから、太陽が上がるのが辛うじて見えた。この強風の中で、鯉幟を揚げるのだと沖ノ島はいう。彼女はそれを意地でも揚げようとしていた。私たちは、最後にそれを手伝うことになった。
 サザーランド中佐は強風の中で暴れる鯉幟をしばきながら訊ねる。
「国旗はどこに揚げる?」
「国旗は揚げません」
 きっぱり。沖ノ島が最初から日の丸を揚げる気がないことは解っていた。
 出雲先生は目を細め、昇った朝日が低く垂れ込めた暗雲の中に再び入ってゆくのを眺めていた。
 出雲先生はそのままの姿勢で言う。
「手製でも構わないから用意してあげるべきですよ」
「私たちは鯉幟を学校の旗にしようと思っているわ」
 出雲先生は沖ノ島の方に向き直り、またしても二人の対立が始まる。短い間だったが、福岡に来た時は終始そんなであった。
 出雲先生は問い掛ける。
「鯉幟が国旗として通用するとでも?」
「学校は子供ためにある場所なのだから、大人の押し付けで国旗を掲げるべきではないわ。何故、学校に国旗がなければならないというの?」
 沖ノ島の言に対し出雲先生はかく言う。
「子供のための統治はあっても、子供による統治というものはありえないからですよ」
「日本政府は現状として政府機能を果たしていないし、学校教育を放棄している。なのに国旗を押し付けている。父権主義の悪癖のみが蔓延している」
 それが沖ノ島の主張であった。
「国旗を与えないのは大人の押し付けではない?」
「日本の行き先を決めた者たちは、子供に殺戮と無駄死にを要求しながら、のうのうと生き長らえた。そんな連中の旗を引き継ぐわけにはいかない。今現在だって、ワクチンが子供に回ってこないというのに、天皇を担ぎ上げるだけの大人たちが、これからの日本のあり方を策定する権利はないでしょう? どんなに圧力を高めても、肝心な教育の中身がない。説得力に欠く。この小学校の児童は私の権限で守るのだから、そこに、私以上の権限を持った存在があってはならない」
「あなたはもう子供ではないはず」
「それを言うなら、あなたはもう日本人ではないんです。日本政府の主張を借りる権限すらないはずでしょう?」
「私のことはどうでもいいんです。あなたは未だに、己を神様か何かだと思っているのではないのですか?」
 沖ノ島の出てきた家系というものは、日本が国家として統一される以前から存在する家の一つであり、これは天皇家よりも古い。それが、遠因の一つであると思うが、沖ノ島の意見というものは、日教組的な一般論としては少々ずれている。国旗国歌法の反対論者の主流を代弁しえないアイデンティティを抱える。彼女の中にあったのは「天皇が神権を放棄したから自分が神様かもしれない」ではない。最初から「私は神様だ」である。あの天皇大権の時代に、そんなことを思っていた奇人である。彼女は齢九つにて自ら家を出て孤児となったのである。
 聖書を読んで、私もクリスチャンになろうと思わずに、私もキリストであると感想文を書いてしまう子だった。当時ローマ・カトリックも日本帝国でも違法であった共産党の信奉者でもある。家を飛び出すのは当然と言えば当然であった。養護施設からただ一人、福岡の女学に上がると、大人まで巻き込んで信徒を引き連れるようになり、九州周辺海域から朝鮮半島周辺にある島嶼を回って布教活動を始める。共産主義とキリスト教が相反しているのは政治であり、平等社会を基本とするその理念は同じなのである。沖ノ島は共産党の王あるいは神という座を元から予定しており、自らにしか務まらないと確信していた。
 困ったことに、沖ノ島の場合、少なくとも極論に挑むだけの突出した才気を兼ね備えてはいた。出自と実力が破格である。積極的に自身、望まれるまま、命の限り神として振舞おうとする。朝鮮のキリスト教会との連携を帝国時代からやってきて、米国スパイと関連を持ち、戦後はソ連スパイと通じていた。この人は反政府的な地下活動を行わないと生きてゆけない。その主権が個人ではなく、国家と対立することが先立つからである。彼女の本性は国家だ。

「あなたが、何者でも構いません。ただ、私はもう喧嘩をしている時間はないのですよ。こうしましょう」
 出雲先生に手招きされて、私はトランクを開けた。
 灯台局の資産はこの時、そのほとんどが金塊に化けていた。あとはモックアップの元株。これは彼女の研究だ。その時はカボチャの種が埋め込まれていたと思う。

 出雲先生の指示はきっちり三等分であった。
「しかしこれはあなたたちの意見に折れたからではありません。もう時間がない。意見が違っても、あなたなら公益のために使うという一点を信じるから分けるのです」
 もしも、財をこんな形で分けたことが発覚すれば、ハーレムで待っているガードナー軍曹には恨まれるに違いない。いかに私たちのものだとは言え、ソ連分に関しては、ブラウン提督も、最後まで納得しなかった。サーザーランド中佐とその部下たちも、ソ連分を口惜しそうに睨んでいる。
「許せねえ……。何で、ここに到ってイワンどもにカネをやるんだ?」
「やったっていい。連中だって人間だし、オレ達だって人間だ。だけど、やるったって、そんなにやることはないだろう!」
「呉越同舟というのです」
「禅問答はやめてくれ!」
「我慢して下さい」
「ナカノセは何をやっているのよッ?」
「まだぐーぐー寝ているわ」
 瓦礫の山が聳える荒涼とした校庭の片隅で、鯉幟が無言で蠢いていた。
 ここに子供たちが、あと二時間後には登校するのだという。
 ふと、気がつくと、沖ノ島の腕にはメダイが見えた。
 もう行けと目配せする沖ノ島を目の端に残して、出雲先生はその場を立ち去った。








§ 二九・五 灯台局原則


 私が灯台局にやってくる前に、初代灯台局長であった沖ノ島と出雲先生の間で、一人の傷病兵士「カリスマ」の扱いを巡って、生涯尾を引く決裂があった。双方がカリスマの何を巡って意見を対立させていたのかを、正確に知ることが出来たのは、私にとっては、全てが終わってしまった後のことである。
 沖ノ島は戦時中は抗日運動を主導していたために医師免状を剥奪されているが、それでも医者をやめることはなく、中国大陸に渡り、赤十字思想に基づいた中立的救済を誓う戦場専門医として豊富な経験を持っていた。対する出雲は沖ノ島より年上ではあったが、まだ医者としての経験は乏しく、沖ノ島の指導を仰ぐ立場にあった。
 出雲は未熟ながらも非常に勤勉であり、どれだけ宿直が続いても愚痴一つ零さない働きぶりで、間もなく灯台局内でも一定の評価を得るようになっていた。また彼女は、あえておおっぴらにはしなかったが、戦後においても尚、天皇を強く崇敬しており、沖ノ島が、天皇のことを「天ちゃん」呼ばわりすることに関してだけは、苦言を呈することがあった。
 その一面において違いはあれど、二人の医療に関しての信ずるところは近いものがあり、二人の仲はむしろ良好であったという。日本の戦後医療の復興を目指して協力し合っていたのである。
 両者の対立はカリスマが灯台局にやってきた時に始まるが、その議事録には「灯台局原則」という名がつけられており、実際にその内容が、灯台局のその後の医療に対する姿勢を決定付けるものとして、思想原理を巡る対立点となった。
 灯台局原則は大別して沖ノ島案と出雲案の二つがあったが、採用されたのは出雲案である。出雲案における灯台局原則とは、正戦論の一種で「危機回避不能論」と「良き兵士」という二つの概念から成り立つものだ。良き兵士という概念は、理論としては、危機回避不能論から導かれるのであるが、その成立においては、危機回避不能論よりも、良き兵士の概念の方が先に存在し、灯台局原則が出来るより以前、否、灯台局が出来るよりも以前から「良き兵士」は存在していたのである。それは、二二六事件と、それに関連してのものと思われる出雲日御碕の父、出雲巡査の自決を経て、いつの頃からか、出雲日御碕の胸中に生じ、生涯消えることはなかった。良き兵士という概念を灯台局に持ち込んだ出雲日御碕が、何故良き兵士を求め、良き兵士とは何であったのかについて、私は知らなかった。
 鍵となるのは、既にその時、現実味のある話として憂慮されていた、第三次世界大戦に対する考え方の相違である。沖ノ島が「危機回避すべし」即ち、「危機回避可能」という楽観的な世界観(これは自ずと、全ての戦争はなくせるということを前提としており、勿論それを目指さねばならないということである)を持っているのに対し、出雲は「危機回避不能」という悲観的な世界観を持っていた。
 その違いは当初明確ではなかったはずで、沖縄で負け戦をやってきた室戸も「危機回避すべし」と思いながらも、「危機回避不能」と、諦観的な観念を持っていた。皆お互いに、その奥底にあるものを知らずに、日本の戦後復興という点で団結し足並みを揃えていたのである。
 しかし、問題のカリスマが日本にやって来て以後、その違いは明らかにならざるをえなくなった。トリニティ作戦で被爆した十七歳の志願兵カリスマのその治療方針を巡って意見が急激に対立し始め、必然的に、その背後にあるものが明かされ始める。
 人間として自然な医療の範疇を尽くして、静かに「幸せな死」を待べきつか、米軍が持っていると推測されうる軍事転用可能な「先端医療実験」に参加して死中活を見出すかの選択を巡って議論となったが、沖ノ島をはじめ、大方は前者を支持し、出雲がほぼ単独で後者を支持する形となった。
 正義の戦争の有無を巡って両者は対立し、当初、紋切り型の正戦論を唱えていた出雲の主張は「先端医療実験」それ自体の非人道性、戦争目的に利用される医療の問題ということに関して、容赦のない批判が浴びせられた。正義の戦争という発想を捨てきれない出雲は孤立しており、自らもその根拠を上手に説明することは出来ないでいた。
 しかし、その状況を覆しうる、一つの決定的な要素があった。あろうことか、第二次世界大戦における最も運の悪い被害者であるはずのカリスマは「あくまでも戦い抜く」ことを表明したのである。
 これから戦争のない世の中になっていくというのに、兵士になることなどは意味がないし、目指すべきではないと皆がカリスマを説得した。
 沖ノ島はカリスマと出雲の意向には決して賛成しなかったが、一方で出雲がカリスマの弁護を買って出ることに関しては許さざるをえなかった。
 実のところ、出雲がカリスマの弁護を買って出ることを可能にした論拠は、沖ノ島の自前の理論によるからである。
沖ノ島によれば、戦争というのは、多くの場合、責任主体ではない者が被害を蒙っているものであり、兵士もまた例外ではない。彼らには、全体の利益とは天秤にかけずに救われる権利がある。その権利が発生する条件は医者や看護婦等のボランティアに出会うことである。沖ノ島は、それを道徳運と言うが、倫理とはその一面において、そもそも良心の発露ではなく、天与の幸運であるというのだ。
 たとえば、親がたまたま金持ちであった場合、その財産を引き継ぐ権利が認められるように、人倫の荒廃する戦場で偶然に出会うことの出来た良心は、戦場とも平和社会とも聖別された特別の優先権を持つ。人倫の基本形式である良心を守ることは、世界全体の勘定よりも重んじられ、弁護士が凶悪犯を弁護することをも職分とするように、それが外部的に害悪となる可能性を孕んでいようとも全力を尽くして擁護する必要があり、独立した職分的倫理観念は、経験的にその価値を認められるのだという。
 戦場で軍医や看護婦に出会うことは、神や天使に会うのと同じく、その内容を飛び越えて、それ自体が優先権になりうるのだ。
 前線の兵士たちは最も貧しい人たちであり、戦場に出る医者は限られており、戦場における生命倫理は常に不足しており、事足りるほど補えることはない。戦場の一兵士に対する個人的救済が全体を圧倒してしまうような心配などは考えられないのであるから、非情の戦場に対抗するには強い覚悟を持って救いの手を差し伸べねばならないのである。
 無論これには反論があって、デュナンとナイチンゲールの意見違いに基づくのであるが、有志の徒が戦場で倒れている傷病兵士を救出せんとすることは、交戦主体たる国家がその責任を負わないことを許容するため、むしろ戦争の片棒を担ぐことにしかならない。少しでも慎重であれば、全体を考えない医療など考えられるわけがないのである。
 沖ノ島がデュナンの側に立つのに対し、室戸は当初、むしろナイチンゲールに近い考えを持っており、本心というよりは注釈的に沖ノ島とは逆の主張を提出していたのであるが、カリスマが来た時、皮肉にも、双方で主張していることとその選択は摩り替わることとなった。
 沖ノ島のデュナン・赤十字思想、即ち戦場の道徳運と、危機回避可能理論、恒久平和の追求意思は、どのように止揚されうるかが問題だった。
 たとえばこういうことだ。飽くまでも死ぬまで戦おうとしている自他共に凶悪な非人道的狂戦士を救うことは、世界の危機回避可能性を妨げるわけで、そういう兵士を、出会ったからというだけで無条件に救うのであれば、危機回避可能論、恒久平和の追求意思は同時には成り立ちようがない。
 何より、軍医に会えずに戦場で死んで行った多くの普通の兵士達はどうなってしまうのかを戦場の道徳運では説明しえない。即ち救いきれない。単なる運の悪い人たちの、その無念や怒りはどうすればいいのか。やむをえず命をかけて戦った兵士が、本質的な悪である戦争に加担したという誤りを許され、哀れみを受けるだけの立場であることは許されるのかという問題である。
 米軍の提供する先進医療の内容が、末期患者を冷凍保存することで手術を保留にし、将来、医療技術がより進んだ時点において治療をするという正体が明らかになってきた時、室戸は意見を変えた。
 もう一つの理由としては、私たちは米軍や特高に追われていた経ヶのこともあって、ヒポクラテスを曲解した絶対的な原理主義な生命主義をとらざるをえなかったというのもある。
 沖ノ島は、灯台局発足からまだ間もない頃、その経緯や過去を言えないでいた経ヶ岬に「あなたは、私に出会ったから、最早その過去は償われた」と言い、その恩赦を約束した。
 即ち天子である沖ノ島が、理屈や法、権力といった根拠を飛び越えて、自分と出会ったことを根拠に、人を許し、愛し、恩恵を与えるのである。これは天皇の特赦にも通じうが、 皆が分相応にそうあることを目指すという教義を沖ノ島は持っていた。
 経ヶは何らかの人体実験に関与したとはいえ、まだ未成年であったため、恐らくは不起訴で終わったであろうが、過去の追求をするとなれば、その精神が持たないと思われた。またたとえ精神が持ったとしても社会復帰が難しくなる。法廷戦術的にも、経ヶは、そもそも決して人を殺すことには関与していないということを示すために、灯台局原則のありようは影響を受けた面があり、絶対的な生命主義の姿勢を強く打ち出していた。
 複雑に状況が絡み合った中で、そういう演技をしているのか、本当にそう信じているのかが解らなくなってくる。
 嵌められている可能性もあった。普通に考えれば、先進医療実験は余程人体実験的であり、アメリカ軍は、日本人医師を濡れ衣にして人体実験をしようとしているという見方は十分成り立ちうる。
 同じ時期、出雲の考えにも重要な進展があった。即ち「正義の戦争がなかったとしても戦争のために正義は必要である」と彼女は言いだしたのである。正義の戦争というのはないかもしれないが、一方で平和より、戦争にこそ正義が必要とされるのであり、最も悲惨な戦場にこそ切実に正義は求められている。軍医という存在様式自体が、正戦の本質を体現し、体現していなければならない。
 戦争がなくならないならば正戦をなすべしと考え至るのは、倫理的なことであるばかりか、沖ノ島の考える軍医のありようと何も変らないことになるだろう。そこから出雲の考える「良き兵士」という半ば空想的な、騎士道的とでも言うべき観念が、本格的に決意されてゆくことになったのだ。
 何故武士道ではなく騎士道なのかといえば、まず第一に、武士道という語を使うことは出来なかったからであるが、もう一つの内面的な根拠として、灯台局は、天皇制が失われても、天皇が戦死しても戦い続けねばならないからであり、その目的は、日本ファシズムではなく、世界平和のために尽くすという抽象理念に昇華されたからである。天皇は日本帝国の敗北によって、世界平和を希求する民主主義世界の立憲君主となったのであるから、その臣民は、君主の元を離れながらも、その宸慮を胸に生きてゆかねばならないのである。
 出雲は戦時社会についてゆこうとして苦学して医者になったが、医者になった途端に戦争が終ってしまった平和社会に取り残された軍医である。方やカリスマは、病弱のために兵役検査で弾かれており、間の悪いことに、終戦間近に、自ら志願して米軍の募集に応じ、世界で最初の核実験で被爆して戻ってきた兵士である。
 戦争は終わったのか、戦争は終わっていないのか。はたまた、戦争というのは根本的に終わらせることが出来るような性質のものであるのか。それが問題だった。
 その戦う理由が単なる蒙昧から来るファシズム的しがみつきでではなく、話を突き詰めてゆけば、戦争が避けられないならば、良き兵士を目指すというのは、そこまで欺瞞的でも、悪いものでもない。そうでなければ、戦場でしか生きられない人々の生命は肯定されなくなってしまう。それを救うために軍医があるというのが、沖ノ島の理論だったはずだ。カリスマは既に意識が朦朧とし始めていたが、結局は、出雲と同じところに行き着いた。否、彼は元々、良き兵士を目指してやってきたのだった。
 沖ノ島の希望や理念に反して、世界情勢の雲行きは再び怪しくなり、「自他共に凶悪な非人道的狂戦士」として憂慮されていた問題は、核戦争を戦い抜く最後の兵士の倫理を想定した「カリスマ的兵士の例外条項」として再定義され、状況が二人を後押しした。
 出雲は、沖ノ島が東京のGHQ本部へと呼び出されている間、自動的に灯台局の局長代理ということになったが、この短い間に、BC級戦犯にカウントされそうになっていた灯台局員の経歴追跡の中止と、不起訴、身分保障の確約と引き換えに、灯台局が内々に進めていたトリニティ作戦の調査、米国世論への公表及び、国際裁判所への提訴計画を中止する誓約を米軍との間に結んだのだった。
 戦時社会に適応するために覚悟を決めた社会の末端にいる人たちが、戦争が終った後も、戦い続けてしまうことを沖ノ島はいかんともすることが出来なかった。
 沖ノ島は、カリスマに対し「死を受け入れる説得」をすることが出来ないまま、冷戦状況を向かえ、日本の再軍備、GHQ内での左派追放等、情勢の変化から医局を追われることになったのである。 

 閉鎖病棟の一室で、室戸と出雲の間で、短いやりとりがあった。
「ここまで至ってしまったからには私がやる。あなたには責任をとってもらう。葛藤したら、終わりよ。私たちは、力の及ぶ限り、決して死を与えないし、選びもしない。戦場にはどんな生命も与えない、徹底した原理主義的殺戮の立場がある。それに対抗するには、生半可な覚悟では通用しないわ。それと、これは人体実験に該当する。一瞬でも死を選ぶような素振りを見せれば、私たちは終わりよ。東京拘置所で軍医の処刑が始まっている」
「私は処刑されても後悔しません。不名誉は慣れてます」
「……何が残ると考えているの?」
「カリスマと私の友情です」




















§ 第三部















§ 三〇 菓子薬


 黒い海の上に幾つかの島が張り付いているだけである。世界一巨大な都市であった面影は残っていない。ニューヨークはマンハッタン島を中心に徹底的な攻撃を受け、計九三発の核弾頭が落ちた。一方でモスクワには一六五〇発以上の核弾頭が落ちた。そちらは人どころかネズミ一匹、ノミ一匹生き残っていない。もはや都市だった面影すらなかった。
 ニューヨークの港はもう以前とは比較しようもない形に変容している。まるでシュルレアリスム。そこは茫洋漠漠とした瓦礫の浜である。海風は放射性降下物を巻き上げ、波もまた汚染されたガラクタを打ち上げる。先鋭的なビル群と金型で抜いたようにきれいに造成されていた港は、コーン・フレークでも踏みつけたように粉々になっていた。
 国連本部は逸早く再建され、ニューヨークの中心となった。そのために、その周辺はアメリカの権限よりも、国連の影響力の方が大きい。ソ連は常任理事国から外され、日本とドイツが常任理事国に入っていた。インドもほとんど常任理事国と変わらない振る舞いを見せている。国連においては中国の影響力が絶大であり、かつてのアメリカの地位と完全に入れ替わっている。この戦争で中国は比較的軽傷で済んだ。ソ連は事実上消滅したが、相対的な損失としてはアメリカが一番破壊された計算になる。ソ連三つ分ぐらいはやられていた。アメリカは生きていたので、血まみれの重体で勝利を宣言したのだった。
 トドメを刺したのは核だが、アメリカにはそれ以前の負債もまだ残したままであり、それが一気に噴出して復興を遅らせた。中でも合衆国政府はベトナム帰還兵を持て余しており、それが今や社会を脅かす存在となっている。PFC依存者というものは、ベトナム帰還兵を中心に三〇万人に達していた。成す術もない政府は、彼らが死ぬのを待っている。
 PFCは、安価に血液の代わりとなり、多くの命を救ったが、まだ未完成な代物であった。一度PFCに切り替えると造血出来なくなり、定期的に輸血を必要とする。社会依存が強くなり従順な国民と愛国的な兵士が出来る予定であった。政府を牛耳っていた水源の男たちは、どういうわけかそう信じていたのである。
 PFCとワクチンはセットにされたため、PFCに切り替えると病気にならなくなると勘違いされ、時に勘違いさせた。医療費を工面出来ない低所得者層の救済処置ということになっていたが、これは実験でもあった。ほとんど非白人を対象にした処置であり、統計的にも同水準の所得でも非白人のPFC輸血が多いという結果が明らかになっており、公民権運動が爆発的な闘争に変わる原因の一つともなった。
 全てが失敗すべくして失敗したのである。

 東京からニューヨークに戻った日、国連本部の敷地内に入るとソ連の旗がなかった。
 室戸の部屋は難民高等弁務官事務所の脇にある。WHOだけでは対応しきれる状態ではないので、国連内の組織は各個で医師を確保している状況が続いていた。本当に使える医師は奪い合いになっていた。
 廊下の途中でケープ・ハテラスと擦れ違った。お互い様ではあるが挨拶はない。ナカノセとイースター・エッグズが仕出かしてくれたせいで、元灯台局メンバーの信用はないのである。

 室戸はベットの中で患者衣に包まって、頭は丸刈りになっていた。点滴を受けており、医者には見えなかった。巷に出れば、難民キャンプの一少年にしか見えない。彼女はちょうど数分前に目覚めたところだった。

 室戸はメコン村の報告書と小さなボードに大量に張り付いている付箋の類を捌きつつ、盆の上のエサを片っ端から平らげてゆく。
 私は、室戸の丸刈りを眺めながら、彼女のために何かもう少しマシな食べ物を手に入れてきてやればよかったと後悔した。
 私は室戸に尋ねる。
「ペミカンばっかりでは飽きたでしょう?」
「味覚ないから平気」
 味がないのかと思いきや、味覚がないそうである。
 それは全然大丈夫ではない。犬も食わないとまで謳われた西丸ペミカンを文句一つ言わず毎日食べ続ける室戸は何がしか立派な人かもしれないが――恐らく、生理的な嫌悪感をどこかで欠落させてきてしまった結果であり、こういうのは色々と危ぶまれた。おまけに煙草がやまらない。彼女は終いには自分の肺葉を三つも駄目にしてしまうまで煙草を吸い続けた。
「不養生もいいとこですよ」
 出雲先生は煙る室戸の背に回ると、その肩を力いっぱい揉み出す。出雲先生は手加減しない。というより手加減が苦手である。前より更に小さく痩せ細った室戸は出雲先生に押されるたび、肩甲骨が鋭く立ち上がる背中を拉げそうにしていた。
 室戸はうな垂れた揺れる細首の下から、いつもと変らぬ声で出雲先生に訊ねる。
「日本はどうだった?」
「PFCは目処がつきました」
「射台は?」
「一回だけなら強行出来るそうです」
「種子島からになるのかしら?」
「そういうことです」
 私たちは福岡を発った後、サザーランド中佐と共に種子島の宇宙センターへ行き、戦争前にあったPFC輸送プランの履行を迫った。金塊や缶詰で揺さぶる様はもはや西部劇かマフィア映画の世界である。宇宙センターの技術者たちは日本の旗艦衛星であるヌバタマとヒサカタに整備部品を輸送するついでにPFCを積んだカステラをカリスマの周回軌道に置いてくればいいだけである。高くはつくが、一回や二回平気だった。ばれないならば何度でも応じるだろう。彼らは宇宙戦時の功績により、ピンバッジは沢山与えられたが、報償は受け取り損ねていた。彼らは核爆撃を防げなかった原因の一つとして槍玉に挙げられている。自衛隊の宇宙・ミサイル部隊の設立の遅れをそのままにしておいて、戦争が始まって、突然に宇宙機構に対応策を無茶振りした当の政府は見て見ぬふりである。
 日米安保は第三次世界大戦の後には事実上失効していた。東京にある政府らしき存在は今や用を成してはいない。日本の外交戦略は国連主導の世界システムに身をゆだねており、中国にぞっこんである。なればもう、正式な手続きを踏んで交渉したところで、我々にとってもリスクにしかならない相手であった。アメリカの意向に従って冷戦を準備し、中国の意向に従って敗戦処理を行う。野垂れ死にしてゆくコダマたちも、もはや日本政府など信用していない。
「戦うつもりなの?――」
 室戸は頭を垂れたまま、呟く。
 出雲先生は返事をしないで、部屋の壁を見ている。
「――勝ち目はないわ」
「だからこそ、戦いを避けようと思っているのですよ」
「私はあなたがまだ戦おうとしているようにしか見えない」
「ガードナー軍曹にもそう言えますか? 確かに彼は武装を解除しようとはしない。けれど、戦いを望んでなどいません」
 室戸は出雲先生の腕力に負けじと、自分の額を親指と人差し指でぐいっと持ち上げて反発する。
「何か他に方法はないのかな」
「考えていますよ。それでも、スクリーニングをお願いできますか? 仮にカリスマに届かなくとも無駄にはしません」
「バレたらそこで詰みなんじゃないかな」
「バレないで下さい」
「ばれる時はばれるよ」
 室戸はそう言って笑った。
「お願いします。私には頼れる人があまりいないのです」
「敵が多いよりいいわ――」
 室戸は手を伸ばして茶筒を引っ張り寄せる。
「――出雲、ありがとう。私行くわ。これからカンフぁ」
「スクリーニングを頼めますね?」
「やる」
「謝礼は――」
 出雲先生がそう訊ねると、室戸は相変わらずの調子で「百万ルーブル!」などと言って、布団を払いのけて飛び上がった。
 出雲先生は「わかりました」と言って渋々煙草を手渡す。本当は渡したくない。室戸は敷島が吸いたいなどと冗談を言っていたが、敷島などという銘柄は当の昔になくなっていた。紙袋の中にはラークやらピースやらの潰れた箱が何個も入っている。味などもはやどうでもいいらしい。彼女が要求しているのはニコチンだ。
「……あらゆる種類の失敗があり得るから、その点は覚悟しておいてね」
 室戸はそう言うと、煙草を手に取って、そこでやめた。体を気遣っているわけではない。少ない煙草を震える手で惜しんだのだ。茶筒から深緑色をした茶葉を手一杯にして取り出すと、それを蒸留水で飲み込む。私は思わず立ち上がって、湯飲みを手にとった。
「淹れてあげるわよ」
「お茶じゃ物足りなくて。皆は飲みたければ飲んでっていいよ。薬も飲みたければ好きなの飲んでってね」
 おやつを勧めるような言い草で、室戸は薬棚の鍵を置いていった。
 実際、その薬は単なる栄養剤が多種多様にあるだけで、こんなものはただのお菓子だ。
 まともな薬剤の配給が全くないわけではないが、医療の置かれている状況は厳しい。メコン地域に住んでいるPFC依存者の薬そのものに対する不信感は大きく、戦後教勢を拡大させたエホバの証人や人民寺院等の宗教団体の影響も作用して排斥運動が起こっていた。医療が敗北しやすい貧しい社会においては、医者よりも司祭の方が人を救う。効果も上がらない医療券を再分配する者よりも、何かしら効果の上がる配給券を再分配する者の方がより重視される。ただでさえ効果を上げ難い状況に拍車をかけるように、薬剤が本物の医者と本物の患者の元にたどり着く前に、単価の高騰、はたまた輸送リスクのために消滅してしまう。製薬の補助金を国が出しているというのは、国庫を干上がらせているだけの状況だ。ハイコストで需要が少ない薬や、状況に対応出来ないインフルエンザワクチンを作るよりは、生産を停止した方が国益となってしまう。同じ材料とコストで単なるビタミン剤や栄養剤のようなお菓子を生産すれば、量産が出来、効果があって、ロスが少なく、採算も見込める。医療が食糧に食われるのは必然の状況である。そうなればもう医療の質も信用も失われて当然だった。医療システムは、美味しくもない菓子を作る二流メーカーとその売り子に成り下がってしまう。それでも生き残る真の医療は、それに反比例するように恐ろしく法外な価格になって、誰の手にも届かないところまで行ってしまう。医神の申し子である室戸岬とお菓子のような薬が同じ部屋に存在しているというのは、世界の縮図であった。PFC需要は逼迫した現実として存在しているが、ビタミン剤需要に押しやられている。
逼迫した健康状態を抱えている者は大勢いたが、それは、癌であったり、結核であったり、PFC依存であったり、それぞれ型の違うインフルエンザであったり、身体の欠損であったりと、一括りに出来ない。そこで選ばれる薬剤が、ビタミン剤、栄養剤、向精神薬である。それぞれの一番目の願いが全員のどうでもいい願いに敗北してゆく。
 PFC受給者は軍人に多いが、放置しておけば死んで消えることが約束されている。生きている間はそれでも動けるので、社会的に危険度の高い交換条件を突きつけられる。それが クーデターやテロに繋がる。そういう奈落の循環だった。メコン村を指導しているガードナー軍曹は可能な限りのひも付きを拒み、気丈ではあったが、彼自身PFCの配給は水源から受け続けているという致命的な矛盾があった。PFC訴訟は公民権運動のポテンシャルをそのまま受け継いでおり、実情重なる部分も多い。そして完全に泥沼に嵌っていた。






§ 三一 水源の男たち

 この日の夕方、室戸と別れて国連を出た後、私たちは水源に向かった。
 水源というのは、核戦争後に緊急で作られたハドソン川にかかるダムの通称であり、NYロック4という閉鎖区画内部にある。以前そこに存在したフェデラルダムの代わりをなしているが、有効貯水容量は以前の三分の一程度である。水源に入るには身分証明が必要であり、ボディチェックも入念にうける。車の乗り入れも出来ない。暗い山間を走る高圧電線がジリジリと音を響かせていた。領域内を自由に歩き回ることは出来ず、衛生管理棟で待たされた後、何かを隠すかのように視界を遮って聳える妖怪じみたビルへと直行させられるのだった。

 事務所の長は現役の陸軍中将であり、スタッフもほぼ全員が軍人で構成されている。
「交渉材料もなしにやって来たのかい?」

 担当官のベイコン少佐はそう言って呆れてみせるが、その様子は嫌味なく洗練されていて、柔和である。彼は行く先々で勝手にファンクラブが出来るほどの男前であった。よく肥えたパターソン中将の演説の脇で資料を手渡すスマートな役柄で、ちょっとしかテレビに映らないのに、街頭テレビを通じて今や全米で知らぬ者のいない有名人である。出雲先生は「うちのアーサーに似ている」と二度ほど自慢したが、アーサーはそれを二度ほど嫌がってみせた。
 ベイコン少佐は、都心近接低所得地域――典型的なフーバー・ゲットーであるメコン村の早期撤去を推進している。メコン村の住人をアップタウン側のシステムに引き戻すべく、策をめぐらせており、ガードナー軍曹らとは真っ向から意見が対立している。
 出雲先生は、暫しベイコン少佐をまじまじと見つめていた。ベイコン少佐は、たじろぎもしない。出雲先生は、ベイコン少佐こと、この美男子を、まるで特徴がなくてどう覚えたらいいのか解らないのだと本音を吐いてもいた。
「僕の顔、何かついているかな?」
「いいえ」
 きっと、先生の目から見ると目と鼻と口がついているだけなのだ。
「鼻毛でも出てるかい?」
「いいえ」
 出雲先生は気を取り直すと要件を伝える。
「護岸工事の件を何とか出来そうなので、PFCスタンプの配給増をお願いしに来ました」
 ベイコン少佐は少し辟易した表情で口の端を撓ませる。
「この予算でどうする気?」
「非常な低賃金ですが、町のためならば、有志は皆やると言っております」
「問題は犯罪率なんだよ。ハーレムは……一度根本的にフラットにしないことには、もうどうにもならないよ」
「護岸工事が出来ればいいはずでは?」
「予算がない」
「予算なしで行いますので、PFCスタンプの配給増か、せめて浚渫動員の軽減をお願いしたいのです」
「その予算なしでというのは何なんだい? ちょっと資料を見せてくれるか?」
 出雲先生は署名と資料が束になっている灰色のバインダーをベイコン少佐の方へ向け直しながら言う。
「ハーレム市民も自分の町であれば、頑張る事が出来ます。税制上の問題も解決済みで、公衆衛生局や指定セクターからの寄付金も徐々に集ってきています。PFC配給が滞ることがなければ治安は安定するはずです」
 私は、ベイコン少佐のこめかみが、ピクリと瞬きをするのを見て、不穏なものを感じ取った。
「一寸待っててくれるか」と言われたまま、私たちは随分長い間放置されて、差し出されたコーヒーをちびちびと啜り続けた。とても美味しい。コーヒーの豆がどうこうではない。まともな砂糖の味を久々に味わっていたのだった。
 夕日が沈む窓の外では、植林された樅の木が並んでいる。クリスマスにニューヨークの各地にプレゼントするために保管してあるのだが、その配分の公平性を巡って、去年壮絶な殺し合いがあった。メコンに回された樅の木が、アップタウンに回された樅の木よりも少し曲がっていてみすぼらしかったというのである。時に小さい不公平は大きな不公平よりも反感を買う。
 一時間三十分の後、がやがやと何人かの男たちと共にベイコン少佐が扉を開けて出てくる。
 私は旅の疲れでいつの間にか机に突っ伏したまま眠っていた。
 私の寝ぼけた耳に何かが聞こえてくる。
「無論、センセイは我々の味方だよ」
「国を捨ててきたような女だ」
「だからこそ」
 ドアが開くと、突然にその声は赤裸々となった。
「PFCも射台も私たちが持っている。じきに解って、あっちからドゲザァしてくるよ」
 それは押し殺したような笑い声であった。
 誰が喋っていたのかは解らないが、そういう会話がなされて、私は青ざめた。もしも私たちがいなかったら、この話はどこまで進んだろうか。先生は特段何ともなさそうにして、窓に張り付くようにして外の暗闇を見つめていた。
「やあ、まだいたのかい?」
 ベイコン少佐は少したじろいで出雲先生と私どっちつかずの調子で不自然に声をかける。
「待っていろと」
 そう言って、出雲先生は抑揚なく答えた。
「ああ、その件は、ならばやってみるといいよ。我々も凄く期待している」
 私たちは、ベイコン少佐の夕餉の誘いを断って事務所を出た。







§ 三二 点滅

 帰りにホワイト・プレインズ駅まで門衛の男に送ってもらい、そこでバスを拾おうとしていると、背後からクラクションが鳴った。
 バンパーの潰れたフォードの何とかバース。ガードナー軍曹の愛車だった。運転は彼の弟のダネルが勤めていた。
 その車は通りを行き交う他の車と変らぬ垢抜けない面構えであるが、トランクは二重底で、底蓋を引き上げると機関銃が迫り出してくるというボンド・カーばりの代物である。

 ガードナー軍曹はその車から半身を乗り出し「ニーハオコンチー」などとけったいな挨拶を寄越した。
「安心していいですよ。窓は防弾にしましたから」
 そう言って彼は手を差し出して微笑む。彼がこんなふうにして笑みを浮かべるのは意外であった。大抵は気難しく孤独な人である。ガードナー軍曹はメコン地域の実質上の統率者であり「マルコムXの息子」と称されている。一見して能吏。高等教育を受けた黒人特有の気配を漂わせるが、彼もまた刑務所で独学という経歴である。
 線が細く、あまりにももって回った口調で演説するので、彼がベトナム戦争の前線で戦ってきたことを疑う者もいたが、彼は何もない昼日中に震え上がったり、唐突に身を伏せたりすることがあった。銃はもちろん手放せず、たとえ知人であっても背後に立たれるのを嫌った。
 ドアを閉め車が走り出すとガードナー軍曹は警戒を解いて、私たちに訊ねてくる。
「話はどうなった?」
「一応工事の許可は取れましたが、PFCの方は相変わらず――」
 水源の男たちとの交渉は、メコン地域が認識された時からの堂堂巡りを繰り返している。
「旧ハーレムにあたるメコン地域からの立ち退きと武装解除。前向きな社会復帰をする気がないのならば援助は出来ない」これが水源側の言い分である。あからさまな制裁として、PFCをフードスタンプに組み込むという実質上の打ち切りもあったが、これは内外から批判が大きいため、それからは供給不足を言い分けにするようになった。
 ガードナー軍曹は出雲先生を勘繰るようにして訊ねる。
「連中の言い分は一貫している。歓喜キャンプに行かないのなら、血液はやらない。いっそ死ねだ――。違うか?」
 暗い窓の外を時たまそこが町であることを思い出したかのように街灯が横切ってゆく。交差点に限りオレンジ色の照明が重点的についており、擦れ違う車のライトは節電のためにどれも片目を点滅させていた。

 出雲先生は、過ぎ去る対向車を横に見ながら慎重に口を開く。
「心の奥底にあるものは、案外そんなことではないかもしれませんよ。問題が解決出来れば、どうでもいい――。現実問題予算がないのでしょう」
「それはあんたの考えだろう。水源の男たちはそんなに淡白な奴等ではないんだ」
「仕方がないことまで何であいつらは一々、うるさいのだろうか? という意味ですよ」
 暗い車室の中でガードナー軍曹の眼光が俄かに鋭くなる。

「仕方がない? あんたもそう考えているのか?」
 彼をあまり刺激するような言動は避けた方がいいと私は思っているが、出雲先生はむしろ、彼に対しては踏み込んだことを直言することが多かった。
「……私の知人にこういう人がいます。絵を見た時に必ずしも感想を言う義務はないと」
「それ、誰ですか?」
「姫埼です」
 姫埼らしい。普段は余計なことばかりするのに、時折無視して去るような真似をする。
「逃げるのか?」
 ガードナー軍曹は話をそらされているのを感じ取って不快そうに言った。
「たとえば私たちが数時間のうちに終わってしまう映画の中の一人だとして、公平に気をつけることが何にも増して重要なら、最後まで誰も動かずに黙っているのが良いのです」
「違うんだ、出雲先生。オレが確認しておきたいことはそんなことじゃないんですよ。今年も洪水が来るでしょう。その時、あんたは、どうする気なんですか?」
「カリスマは、メコンの防衛に全力を注ごうとしています。彼は本気でしょう。命を賭ける以外にやることがないと思っている。そして私は、命を投げ出しかねないカリスマを守るために先手を打って動くことになります。つまり、原則、その時にカリスマの生存に有利なように振舞うことになるでしょうね。そのためにはカリスマの意志を度外視する可能性もあり得えます」
「相変わらず歯切れが悪い。あんたは場合によっては水源の男たちの味方をして、オレたちを殺すこともありうると受け取っても構わないのか? イエスかノーで答えてくれ!」
 私は二人の間に割って入る。
「ガードナー軍曹。人を試すのはそのくらいにしておきなさいよ。あなたを安心させることが出来ても、アップタウンとの交渉を潰してしまったら、振り出しに戻ってしまう」
 私が嗜めるような口を利いたのが癪に障ったらしい。ガードナー軍曹は更に語気を強めた。
「あんたたちは何も解っていない! 空を見ろ。本当の団結が要求される日が近付いている。これはオレの意思だけではない。メコン村の皆が、神への誓いと仲間への忠誠を求めている。少しでも不安は減らしておきたい。小さな綻び一つで決壊しかねないんだ。やつ等はオレたちの不安を付け狙って盛んに分断工作をしている。何となく仲がいいだけでは全然足りないんだ。アメリカではあんたのようなはっきりしない態度は通用しないと思った方がいい!」
 私は出雲先生にかわって更に口を挟む。
「ミスター・ガードナー。銃を持って交渉に出れば、誰もがイエスとしか言わなくなるわ。カリスマも、フライヤーもあなたの仲間でしょう?」
「カリスマやライト・フライヤーはオレたちの味方だと断言している。だが、あんたたちはどうなんだと聞いているんだ!」
 出雲先生は少し声色を落として言った。
「一つ頼みがあります。ブラウン提督を監視するのをやめて下さい。彼は公平な人です。しがらみを断ち切って、アメリカの未来のために尽くすと誓った。なのにあなたは、ブラウン提督を疑って、その背を付け回している。これはどういうことです?」
「あれは護衛だ」
「嘘ですね。本人の同意がありません」
「オレは別にブラウン提督を疑いたいわけじゃない! ただ――ただ、仕方がないことだ。皆が信じるのは難しい――。何で、あんたは誓うことが出来ないんだ。イライラさせられる!」

 ハーレム川を挟んだアップタウンはメコン村とか、ベトコンと呼ばれていた地域と隣接する事になった結果、豪雨時に対処出来なくなっていた。
 メコン村は行政に無断でアップタウンのすぐ隣まで拡大、侵入する事によって出来上がった地域である。設計に単純で大きな欠陥がある事は明らかだった。
 ハーレム水道は、核爆撃後の予算を切り詰めてやっとのことで整備したものなので、豪雨で水量が増した場合、アップタウンが水害を回避するためには必然、居住区のない方の堤を切り崩す必要があったのである。
 水源の男たちが支配するアップタウンとガードナー軍曹率いるメコン村は河を挟んで隣接している。水路を挟んで両側に居住区が広がっているという事はどちらの側にも堤を切り崩せない事になる。
 メコンの統率者であるガードナー軍曹は、万が一の時に備えて可能な限りの武器を集めていたし、水源の男たちは混乱期の統治上の経緯から、メコン村の人々(強硬派は国連に靡いて脱アメリカを唱えた)をまともな合衆国市民であるとは認めてはおらず、メコン地域にミサイルを向けてさえいる。そのような状態で豪雨があれば何が起きるのかは言うまでもなかった。
 そして梅雨に入る前に何とかしなければ今年は去年とは規模が違う。年明けに米ドルのデノミが何の事前通達もなく決行され世界経済にトドメを刺した。全ての財を失った人々が瞬く間にメコン地域に溢れかえるようになり、二千人程度だった人口が一挙に一万六千人に膨れ上がり、今や二万人を超えると言われているのだった。
 この状況がいかに危機的であるかを理解している先着の住人たちは、自ら護岸工事に駆けつけたが、空が暗雲で埋め尽くされるようになっても、今年来た人々は未だに自らをゲットーに住まうような人間だとは頑なに信じず、雀の涙ほどの日当や酷い居住環境を罵り不満を述べるばかりであり、仮に前向きになったとしても、電気もガスも水道もない世界を見渡して、ピルグリム・ファーザーズを自称してみたりと、貧しさそのものに対しての未熟さが露呈していた。
 内部対立の過激さは、現状言われるほどではない。ただ、人種間、グループ間の不一致と分離傾向は深刻で、最後の最後で互いに決して信用しない。
 事が起きれば堤防の崩壊よりも先に治安が崩壊しかねない状況であった。
 堤防の土嚢をちょこちょこと切り崩しては己の畑に運ぶ者たちに問題意識は見えず、ガードナー軍曹他、古参兵たちがどれだけ言ってもやまらず、時には挑発的で無意味な大穴が開けられるのだった。協力的ではない村人というのは常に存在したし、外部から来る者もあるのだろうが、一つはっきりとしているのは、それを賞賛するような、嘲笑うような、一個人に帰す事の出来ぬ心理が存在するということである。
 社会不安が解消されることよりも、よりいっそう社会不安が深刻さを増す方が、公平さが増す。核戦争とパンデミックはその本性が平等だったので、死に慣れてしまったコダマたちは、保身と搾取の権化たるお父様たちが核や病で死ぬと喜びに沸いた。
 何か事件が起こるたび、支持母体であるコダマたちを批判出来ないガードナー軍曹たちは水源やブレインサーバ、アップタウンといったものに怒りをつのらせる悪循環であった。






§ 三三 跳躍

 水源の男たちは、アメリカではウォータサーバグループの名で呼ばれており、当初はその名の通り、上下水道の整備や生活用水の配給活動を行う、いわゆるウォーターバロンであった。今の実態はライフル協会、退役軍人やKKKのメンバーが名を連ねる政治組織であり、最近では常備軍、政府や政党、教会などに影響力を持った超党派勢のマシーンとして更に勢力を拡大させている。我等がアメリカが、国際社会から途上国のような扱いを受けて支援されたり、自国民が難民扱いされて救護されたりすることを、国辱であると考え、対外強硬路線と栄光の孤立を謳うことが多い。しかし、必ずしもそのお題目に則って行動するわけではない。
 彼らは中国の一国支配化が進む国連を嫌いながらも、最終的にはその決断に身を委ねた。時代によって立場が違う上、一枚岩ではない連中ではあるが、確かな特徴を幾つか挙げるならば、一つに、優越主義というのがある。自分達はどのような状況であろうとも、何かに勝っている。優越していると信じてやまない。勝つためには手段を選ばない勝利主義者でもあり、その姿を実現するためにしばしば強行に出る。ハンク的――スーパーマンのような鍛えられた体というものをプロパガンダの表象として好み、積極的にアメリカンヒーローを体現せんとするような姿勢も見られる。実際、ベイコン少佐なども、いつ見ても涼しい顔をしているが、陰では日々筋力トレーニングに励んでいるという噂である。
 彼らではないが、出雲先生も暇さえあれば、ランニングやラジオ体操をするような所があった。当時のニューヨークは安全とはいえなかったし、仕事も忙しかったから、ランニングに出ることは出来ずにせいぜいラジオ体操や柔軟をするのが関の山だったが、いつしか出雲先生がそういう習慣があることを知ってからというもの、ベイコン少佐は私たちに対する評価を上げた。
 私は先生の真似をしているだけで、本来トレーニングや練習みたいなものは嫌いなのであるが、何かの話の拍子に、ワンハンドなら出来ると口にすると、ベイコン少佐が「ムリだ」と怒るように否定するので、やってみせると、それで全てが決まった。
 ベイコン少佐はその昔大学バスケットボールでポイントガードをしていたという。NBAを本気で目指すほどの力量であった。彼はダンクシュートをする女を初めて見たと驚いていたが、私はこれしきで褒められるのは不服である。幼少の私は竹刀を握って三月足らず――練士六段の父上に対し、飛び込み面の一つ覚えで滅多打ちに出来るぐらいには凄まじかったのである。真面目にやっていたのに大して上達しない兄上が可哀想であった。
 ベイコン少佐は唐突十歳若返ってしまったような表情を浮かべ「大変だッ!」と声を上げるとどっかへすっ飛んでいった。

 残された私は出雲先生と一緒にボールにじゃれていた。
 出雲先生は言う。
「あなたは相変わらずです。私は賢い人は大勢見てきました。ですが、あなたは文武両道ですからね」
 そして、私の文武はひけらかしばかりで、どう足掻いても一流に及ばない。先生はそれを知っているのだろう。
 私はこの時うっかりこんなことを言った。
「……生まれながらに脳性麻痺で生まれてくる人もいます。せめて腕の一本でも公平にすることが出来れば――」
 先生は突然、ドッジボールでもするかのような勢いで、ぬるいことを嘯く私にボールを振りかぶる。
「出来れば、あなたはその腕や足を断つことが出来ますか? もしくは誰かが腕を断てば一つ命が救えるのならば、そうするべきだと思えますか?」
 ……解らない。そして、私には出来ない。だが、出雲先生は必要とあらば究極、自分の腕をへし折ってしまうことだろう――。彼女はそれだけのことをやりうる。
 私は返事をしなかった。先生の暗澹たる炎に怯えていた。先生を這い上がらせた思いに気が遠くなるのである。先生は褒章や銀時計の類は一つも手に入れたことがない。だが、ここまで来ている。私は手を出したら濡れ手に粟。一手に全てを掻っ攫った。それもよかろう。生まれついて手がでろでろに濡れており、近くに粟びつが並んでいただけである。びつを汚すなと言われてやめる子供などいるはずがないのだ。だが、そこまでだった。
 皆に愛され、尊敬されるべき角島様がもう一人いたとしても、私は、その人を信用してついて行きたいとはこれっぽっちも思わないのである。残念ながら、それが全ての答えである。
 私が黙ってしまうと、出雲先生は私に助け舟を出した。
 広い体育館に柔らかい声が響く。
「ところで角島、人はキスをする時に、何故目を閉じるかを知っていますか」
「キスですか?」
 先生がそんなことを言うとは意外だった。
「だってほら、こうやって、ドッジボールが目の前に来たら目を閉じるでしょう? それと同じなのだそうです。室戸はあれでキスをしたことがあるのですよきっと」
「裏切り者ですね」
「ええ。裏切り者です」
 室戸には許婚があったという。
 出雲先生は余計なことを喋ったと少し後悔するようにして、そっぽを向き、最後にこう言った。
「角島は、好きな人は出来ないのですか?」
 出雲先生と鞠で遊ぶのは至高のひと時であったが、俄かに新種の生き物を発見したとの噂が広まり、物見客が集まり出す。あんまり調子に乗ると、女ではないというヒソヒソ声が出てくるのが常なので、これ以上は控えた。
 ベイコン少佐がわざわざパターソン中将まで連れて戻ってきて、目を輝かせて私に声をかける。
「さあ君、あれ、名前何だっけ? とりあえず、もう一度、ダンクを見せてくれないかな?」
 我々が、正式にパーティーに誘われたのは、それからすぐのことであった。
 アジア人はジャンプが出来ないというエスニックジョークがあって、いつからか、冗談であることが忘れられている感があった。私は計らずもそれを反証したのである。






§ 三四 炊き出し


 隣保館――セツルメントハウスと呼ばれる建物がメコン村の中にあった。
 コンクリートの廃材を切って作ったレンガの壁に、塗炭屋根という酷く粗末な造りであるが、これでもメコン村の本部オフィスである。その内部は一応の会議室が存在し、倉庫や宿直所も存在する。会議室はガードナー軍曹他、メコン村の主要スタッフがつめていた。
 私たちはカリスマ用の宿舎を間借りした形で私設の灯台局をニューヨーク郊外のヨンカースに持ったが、戦争で爆撃されてから後そこは医薬品倉庫と化し、灯台局の本部として用いることはなくなっていた。最近はこのセツルメントハウス内の一室を寝床として使っている。電気は一応通っているが、電気代は戦前の十一倍。無断で使うわけにはいかない。うっかり使おうものならここで主計をやっている巨漢のスティーヴンにキッチリ請求されてしまう。
 ガスもボンベ以外は存在しない。水道はあるが、もちろんそのままでは飲めない。あてがわれた部屋は狭く、必要最低限のものしか存在しない。出雲先生と私は一つのベッドを交互に使っていた。ガードナー軍曹からクリスマスにハンモックを貰ったが、柱にかけて、嬉々として飛び乗ってみたらら、バシッと音がして竹さながらに柱が裂けた。風通しが良い部屋で、天井のひび割れからは雨水を蓄えることも出来てそれはそれは便利なものである。マラリアやデング熱を媒介する蚊が入ってくるので、蚊取り線香や蚊帳が正式な配給物資となっていた。しかし私達は都合、蚊取り線香は使えない。部屋の脇にはヒロズキンバエの飼育瓶が並んでいるからだ。その成虫は緑色の鋭い金属光沢を放ち、緋色の複眼をもつ美しいハエだ。最初は最悪としか思えなかったが、今ではエメラルドのように思える。私達は、室戸を支援するため、手間暇かけてこの宝石のようなハエの蛆虫を養殖している。益虫となればかわいいとさえ思えてくるのだから現金なものである。ガードナー軍曹には医療目的であるとの了解を得ているが、ハエを飼育して喜んでいる私達を見た彼の最初の反応は当然ながら芳しいものとは言えなかった。ハエが病原を媒介する状況下でもあるので、他の医療関係者の理解を得ることも難しい状況にある。変な噂が立つならば、研究中止もやむを得ないものだった。

 私はパーティーに出てゆくための服を探して、詰め詰めにしたトランクの中をかったてる。
 碌な服がない――。アメリカに来た当初は糊のきいていたサービスドレスも大分くたびれてきており、アイロンをかける気が失せるほどの皺が刻まれている。もう外行きに着てゆくような服ではなくなってしまっていた。ヒレツキこと虫食いの友禅でも取っておけば、不承不承、とりあえずは誤魔化せるはずであったが、それとて、とうの昔に捨ててしまっている。戦争が恐るべき速さで世界を包み込んで、ミサイルの雨が降り注ぐようになったせいで余計なものは、ほとんど持ってゆくことが出来なかったのである。持てない分の服など普段着を除けば余計なものの筆頭になってしまっていた。
 出雲先生はサービスドレスでも構わないと、相変わらずの頓着なしで、これは遊びでない旨、私に釘を刺した。彼女はさっきから会議室でガードナー軍曹と一緒になって、古い乱数暗号表を細切れに裁断していた。雑務のようだが、機密が要求されるゆえ、他人まかせには出来ない仕事であった。
 近いうち、ブラウン提督を通してカリスマ・フロンティアと直接連絡をとることになろう。いつでも連絡がとれるわけではない。その一言一言の重みはますます高まっている。
 カリスマ・フロンティアは今、アメリカ国内の政治問題を抜きにすれば表立った交戦相手は存在しない。だが、このままいけば、一番最悪の場合、クーデターという形でベトナム帰還兵もろとも処理されてしまう。アメリカ国内で内戦――第二次南北戦争が起きるのではないかという噂はずっとあった。政府はカリスマがアメリカの象徴として祭り上げられてしまうことを恐れている。アメリカにとって、カリスマを失うのは痛手に違いない。だが、カリスマは維持しているだけでも極めて負担の大きい存在である。モスボールにも出来ない。その上、カリスマはアメリカによく噛み付くのだ。彼らはカリスマを中心として、自分達が疎外される可能性を危惧している。
 彼ら、自分達――噛み付かれ、疎外されそうになっているアメリカとは誰か――。
 アンチアメリカというものが究極的に存在するのならば、それはアメリカを分断する存在であろう。ならば背理を解くのは簡単である。食い千切られそうになっているアメリカとは合衆国という統合性、唯一性である。個人ではなく象徴なのである。ただし個人はアメリカの統合性を自らだと信じて胸に手を当て高らかに国歌を歌い、隣の人間のことをアメリカを食い千切ってゆく分断勢力と見なす。そう思われている隣の人間もまた、同じように考えて、隣にアメリカを蝕む害虫がいると密かに思いつつ、胸に手を当て高らかに国歌を歌っているのである――。
 私はあの時、不意に感じた徒労感を、黄酒の香る薄暗い書斎で反芻していた。
 出雲先生とカリスマは大戦争に従軍し、もう、いつ死んでもいい状態に達していた。帝国の最底辺の男女であった二人が渇望してやまなかった戦争は事実として獲得されたからである。しかし、そんなものに参加しなくても時は過ぎたであろうし、許すも許さないも、出雲先生やカリスマがいなければいないで誰も気にもとめなかったのだろう。
 本当なら、もっと淡白で静かな人生があってもよかったと思うのである。
 出雲先生とカリスマの物語はもう長くないないことを悟り、愕然としていると、部屋の扉をノックする音が響いた。鍵はかかっていない。扉が開くとナカノセが「メシ!」と吠えた。「いらない」と返事をすると、お前の当直なのだと激昂する。缶詰でも食べておけばいいのに――ナカノセは、何かにつけ誰かに一手間かけさせたがった。そのくせ自分だって手間のかかることは嫌いで、可能な限り避けて通るのである。
 そういえば、セツルメントハウスでの私の部屋も鍵はかかっていなかった。過去の扉を開けて顔を出したのは今は亡きダネル――。
「おやつの時間だとよ」
 何で私たちは毎日何か食べねばならないのか、心底面倒に思う。
「いらない」
「ホームシックか」
「何でよ?」
「泣いてるように見える」
 いい勘をしているではないか。
 ガードナー軍曹の弟のダネルが、パーティードレスなら、知り合いのモデルが持て余していると、声をかけてくれたのだが、何のパーティーかと説明した途端、手の平を返したように、舌打ちと恨み節が炸裂する。

 彼はかく言う。
「なんだよ、水源にはそんないい体育館があるのか……。そういうのは隠して独占にしないで市民に開放すべきじゃねえのか?」
 私に言われても困る。私がやっぱり食べると言って、この場を逃げようとすると、ダネルはお前なんかに食わせてたまるかとばかり、手を広げディフェンスする。
「ボールがなかったんだ。あのボール……。いつも空気が抜けてた。何度空気を入れても、すぐ空気が抜けてしまう……。オレの元にちゃんとしたボールがあれば、NBAは無理でも、きっとベイコンの奴とは戦っていただろうな。オレは勉強はからきしだったけど、スポーツは兄さんより出来た。ああ、学費がないから高校へは端から行けなかったか。オレの栄養状態がよければ、タマゴの一個ごときをいつもいつも兄さんと取り合いになってなけりゃ、ダンクシュートも夢じゃなかっただろうよ。もっと言えば、オレたちに」
「みっともねえからそのくらいにしておけ」
 ガードナー軍曹が出てきて一喝すると、ダネルは皮肉たっぷりに声を潜める。
「だって、このお嬢さんはKKKのダイニングに出るって言うんだぜ?」
「KKKのダイニングに私が出れるわけないでしょ。水源よ!」
 ガードナー軍曹はKKKと耳にした瞬間に、深い溜息をついて私を見た。
 ガードナー軍曹は言う。
「角島……。水源の正体がはっきりしないのは、KKKみたいのがバックについているからだ。KKKと名乗らないだけで、内容は同じなんだよ」
「最近のKKKは、日本人に妥協するのね」
 ダネルはその理由をこう説明する。
「そりゃニーズがあるだけのことだ。ジャパニーズとチャイニーズはカネあるからな。勘違いするなよニーズガール!」
 ニガーって言えば本気で怒るくせに。そうは思い付かず、私は返答に行き詰まる。彼らの素早い皮肉や無遠慮についてゆけないのである。
 公民権運動の急先鋒をゆく黒人の若い兄弟。先に話し掛けてくるのは大抵彼らであり、一見友好的である。だが、一つ間違えれば、その視線は、唐突に冷ややかで鋭いものに豹変した。自身、一つ間違えれば、弁解出来ずに殺されてきた歴史がある。銃社会では卑屈な愛想笑いは通用しないのである。そして自分から打って出なければ明日がないということを嫌というほど味わってきた。
 私がたじろいでいるのに勘付いたのか、出雲先生が大股でやって来て口を出した。
「私は身の安全が保証されるのならば、出席しようと思っていますよ。市議や国会議員に直接談判することが出来ますし」
 ガードナー軍曹は振り向いて出雲先生に訊ねる。
「だったら何の交渉か説明してくれないか」
「PFCの補償と帰還兵士の福利厚生。最終的にはカリスマの退役と身の保障です」
 出雲先生はそのように即答した。
 どれも難題であったが、カリスマの身の保障というものは、特に難しいことだった。将来的にはアメリカの「普通の市民」と予算を取り合うことになると予見されていたのである。
 カリスマの身の保証というのは、もし行うのであれば、ペンタゴンにあるブレインサーバに頼る他なく、ブレインサーバの維持費用というのは、既にアメリカの財政を圧迫している。ブレインサーバは自然の人間よりも長寿であると言われており、その寿命予想は常に伸び続けて、その人口もずっと増加し続けている。
 カリスマが、軍事的な利益を生まなくなった時、その身を保障し続けるということは、純粋にアメリカの財政に負担をかける。地上に戻して、ブレインサーバに連なるにしても、それには莫大な予算を必要とした。
 カリスマには適当な所で死んでもらうことが暗に望まれていたのである。

 カリスマ自身恐らく、本心のところ、もう、退役した先まで生き続けることを願ってはいなかった。出雲先生も、カリスマの生命維持による莫大な負担と、その社会的な弊害や犠牲というものは当然理解していた。しかし、出雲先生は「あくまでもカリスマの生存権そのものを保護する」と断言していた。
 身の警戒と連日の激務に奔走させられているガードナー軍曹は憔悴したようにして言う。
「今現在あなたと足並を揃えて戦ってゆくことは問題ない。だが、カリスマやブレインサーバがこれ以上権利を主張し始めると、いずれ私たちは団結することが出来なくなるだろうな」
「カリスマには生きる権利がないと?」
「そういうことを言っているわけじゃない。いずれ、利害が対立するのが避けられなくなる。皆、自分が貧しい時だけ公平が好きなのさ」
「公平を求めている人たちには貧しくない人もいます」
「利口な本能だ。非難されるよりは非難する方がいい」
「日和見であると?」
「仮にそれが本心であろうと、逃げる事が出来る奴等と、逃げることの出来ない人間の違いは埋められはしない。連中がどれだけ義憤めいた態度を取ろうとも、それが目的でしかない」
 メコン村の状況がまさにそれなのだろう。アップタウンというのは地名ではない。メコン村の白人達は、いずれアップタウンへ行けると信じており、黒人達も、連中は白人だからアップタウンへ行くものだと思っている節がある。ガードナー軍曹は、白人式の町であるアップタウンへ行く気など端からない様子だった。
 出雲先生は一瞬思考を巡らすと、こう言ってのけた。
「正義のために必要ならば、逃がさなければよいのでは」
 何のことだとガードナー軍曹は、出雲先生の顔を見返して、その真意を汲み取ろうとする。
 出雲先生は静かに瞬きをするだけであった。
「さぁて、」
 そう呟いてガードナー軍曹はダネルを連れ立って外へ出てゆく。
「どこへ行くのです?」
「パトロール。ああ、そういえば一人とんでもない奴を雇った。スコープもなしで千ヤードを」
「肌が黒くて目が青いのでしょう」
 出雲先生と私は半ば嬉々として異口同音にその正体を当ててみせた。

 ガードナー軍曹と共に外に出ると、大々的な炊き出しに遭遇した。届出がない。こんなものがあるとは聞いていなかったが、真鍮の大鍋の周りは既に人だかりが出来ている。何事か確かめるために人込みを縫ってゆくと、そこでは屋台が犇くようにして、てんでばらばらのゴスペルや手拍子が渦巻いていた。暫く人込みに揉まれていると、ハウリングする嫌な音と共に罵声が聞こえてきた。
「邪魔するなら手伝うなよ! 並べよ! 全員分あるって言ってるだろオラッ!」
 拡声器で、怒鳴り散らしているのはナカノセであった。
「ちょっと、そこのジジイッ! 食材を盗むなって、何度? つうか、なんなんだてめえは?」
 ひっくり返した木箱から飛び降りてきて、ナカノセが老人の肩に掴みかかって止めようとすると、更にその肩をガードナー軍曹に掴まれて、ナカノセはぐるんと私たちの方へ向き直った。
「なんだお前は?」

 ルッカウトを雇ったのなら、当然の成り行きだろう。ガードナー軍曹はナカノセの存在を知らなかったらしい。ナカノセが勝手に炊き出しをおっぱじめていたのだ。 何故? 知らない。 何を考えているのかは解らない。ただひたすら、こいつの行動力にだけは驚嘆させられる。
 ガードナー軍曹は、ナカノセに訊ねる。
「誰の許可を得てやっているんだ?」
「ガードナー軍曹」
「それはオレだ!」
「文句はミスター・ブラウンに言って。今ちょっと忙しいの!」
 振り返ると犬吠埼に引っ張られて真鍮の大鍋がもう一つ、泥の中をズルズルと驀進してくるのが見えた。子供たちは健気に手伝うものもあるが、中には引き摺られる鍋に土足で入り込んでいる奴もいる。
 すぐ脇を見ると、ルッカウトが、辟易した表情でタマネギを粉砕していた。手動式のフードプロセッサーで、ハンドルを回すと自動的に、野菜が切断されてゆくという代物である。
 その隣では、子供たちが一生懸命になって、ポン菓子砲を回している。
 出雲先生はナカノセに尋ねた。
「どこでこれだけの食材を?」
「ジマエ」
 自前? 福岡で分けた予算はこれで使ってしまったらしい。カネを増やせない者にカネを持たすと、食い潰すのみだ……。そんなことより、ソ連復興のためにもってゆく予算だったはずでは?
 なんという無計画。元より私のものではないが、私ならせめて増やしてからこれをやったはずだ。だがそれは私の言う事ではない。私は怒りの矛先を微妙にずらしていた。
「汚染や中毒があるから、勝手なことをやられると困るのよッ!」
 ナカノセは答える。
「汚染はされていないわ。少なくとも政府供給よりは品質管理が行き届いているから。私自身、これを食べるのに躊躇はないわ!」
 ガードナー軍曹は金色の鍋の中から子供たちを追い払って、その鍋を入念に検分していた。
「この鍋はどうした?」
「アップタウンの公民館で貸してもらったんだけど、くれるって!」
 それがどういう意味で言っているのか、ナカノセは解っているのだろうか。彼女は勿怪幸いとばかりの声を上げていた。
 人集りの中に、ブラウン大将専属と化していた蕎麦屋が来ているのが見えた。到着した鍋の中から子供たちを振り落として、消毒のための酒を注いで拭き取る。これでカツ丼をご馳走するのだそうだ。フードプロセッサーから捻り出てくるタマネギの切り方が蕎麦屋には許せないようだが、一万七千食用意するのに、そんなことを言っている余裕などありはしない。
 見渡す限り人の頭である。久しぶりにステーキが食べられると聞きつけた人間が殺到し大騒ぎであった。
「こんな場当たりで何かをした気にならないでほしいわね……」
 私が苦言を零すと、ナカノセは、細かいことばかり言いやがってと眉を吊り上げ、尖った八重歯を剥き出しにして怒る。
「場当たりになってしまうのは他の奴等が続かないからじゃんッ?」
「衛生局に届け出をしたの? 食中毒が起こったらどうする気なのよッ?」
「そういうことは汚い手で肉を盗んでゆく奴に言ってよねえ!」
 私たちの背後でバリバリと木箱がこじ開けられる音が響いて、水ガラスで殻を塗り固めた貯蔵卵のブロックに手がかかっていた。
「ルッカウト! 何ぼけっとしてんのよ! タマゴが盗まれてるッ!」
 ルッカウトは、喧騒の中、俯いて、それを見ないようにしていた。黙黙とフードプロセッサーを回している。彼女は不機嫌通り越して悲しそうにしていた。
 ガードナー軍曹が、拡声器も使わずに、大声で一喝する。
「食材に触れるな! 盗む奴は撃つぞッ! フードスタンプを用意して整列しろ!」
 半熟のカツ煮が御飯の上に乗る頃には、喧騒はほとんどパニックと化した。カツ丼のはずが、途中で釜の御飯がなくなり、カツサンドになっていた。







§ 三五 ダイニング



 翌日。ささくれて赤くなった手と、擦り切れたサービスドレスという井出達でパーティーに出席すると、ハテラスが、ちゃんと手洗い嗽をしたのかとか、何日風呂に入っていないのかとか、チクリ、チクリと嫌味を言った。
 彼女と口を利いたのはほとんどこれが初めてである。
 ハテラスは何か気の利いたスノッブな悪態を口にしようとしていたが、この人はあまり、そういうのは上手とは言えない。何を言っていたかは烏鷺覚えだが、本質的に悪態を必要としない人間のつく悪態であった。
 周りの重鎮達は、それでもハテラスの高飛車ぶった振る舞いを好ましげに見ていた。まあ美人だろう。サザン・ベル然としている。その上、歳から考えたら若い。異常に。これ以上年数が経つと、その不自然な状況に全ての人間が気付くようになるだろうが、私達はまだ自らの状況に気付いていない。灯台局内ならまだしも、よその人が黙って見ているはずがない。彼女は彼らのアイドルだった。
 ムンバイの計算機学校で量産スペースシャトルの航行プログラムの開発に従事していたと聞く。米海軍の計算機科学者であったグレース・ホッパーの後輩にあたるのだが、彼女は多分、我々と同じく専門技官で下士官待遇という扱いだろう。米国に来た以上は同じ部署のはずなのに、面識はほとんどない。米国灯台局は戦時になると海軍指揮下に入るのは、沿岸警備隊と同じであるが、国防高等研究計画局の内局にある。実際、何度聞いても、その所属は解りづらい。少なくとも私は自分の立場や、規定を正確には把握していない。いつまでたっても階級が上がらず、号俸だけはニョロニョロと伸びてゆく。金はやるからつべこべ言うな。そういうことだった。制服がセーラー服だったから、犬吠埼は灯台局のことを花の留年組みとか、女学十何年生とか、酷い渾名で呼んでいた。
 ハテラスはさり気ない素振りで尋ねてくる。
「それで? それでメコンの皆でそのカトゥドンを食べたの?」
「そう。カトゥドンを食べたのですよ」
 皆、怪しいもの食べさせやがってといった表情であるが、半分事実であるので、その点は何ともいえない。出雲先生は相変わらずの対応で顔色一つ変えない。
 ハテラスはそれに打っ付かるように更に追求する。
「だけど、次の日またそのカトゥドンを全員に提供出来るわけではないのでしょう?」
 その通りである。一時的な、気紛れの救済に意味はないとの趣旨の指摘が始まる。ハテラスは理屈だけ喋らせておいた方がいい。何食分用意したのかと問うと、その解答に唖然として、普段はどうやって暮らしているのかと尋ねてくる。
「だってその量は膨大よ。一年三食、一万七千人。それがかけることの三ドル。年間、五千五百八十四万五千ドル……」
 ハテラスの咄嗟の暗算で周囲は感嘆に沸いた。
 ……計算が速いと何だというのだ。だいたい合っているかどうか確認はとれたのか。
 ハテラスは堂々としていればいいのに、チヤホヤされると、みっともなく、目をきょろきょろさせて、半端にはにかむ。そして、苦手な面倒が過ぎ去ると、真顔で今更の指摘を始める。
「……このままでは、メコンは持たないのでは?」
 どっかで見たことのある態度だった。周囲の望む天才像に合わせようと必死に努力しているというわけだ。キャリア風の、高飛車で孤高な感じの天才を望まれているが、駄目だ。社交場が苦手である。マニアのなれの果てなのである。きっとしょうもないものを密かに集めていて、犬より猫が好きで、ジャズを聞きながら、得意げに紅茶の炭酸割りのような怪しいものを啜る。誰にも見せられない耽美派ポエム集とか、恋愛小説風味を、書き溜めているのだ。
 出雲先生は言う。
「大変なことですが、驚くには値しません。地球には核戦争を経て尚、三十億人の人間がいるというのです。みな生きている以上最低限は食べます。あなたは、国連に出入りしているようだけれどメコンの状況をご存知ないのですか?」
「畑が違うから……」
 そう言って彼女は途方に暮れていた。
 ハテラスは現在SEをやっているのだという。だが、彼女はもとはといえば計算機科学者である。ハテラスはSEと計算機科学者は全然別物であると一頻り、場所を忘れて、訴えるようにして語っていたが、周囲は何のことだかわからないと目に見えてつまんなそうにしていた。
 自分の話に周囲が興味ないことに気付くと、ハテラスはやきもきしているようだった。
 ハテラスの冗長な説明に飽きた一人の紳士が結論を出す。
「で、どっちにしろ君はコンピーターを使う人間なわけだね」
 それで皆納得してよく頷いていた。
「それはそうなのだけれど。実際はそうではなくて、SEと計算機科学というのは別物なのよ」
「つまりは計算機科学者はSEより偉いということさ。解ったか諸君?」
 そこで軽い笑いが起きて社交的なスケージュールの下、皆で次へ行こうとした。
 だが、出雲先生は茶を濁して残った。
「ハテラスが言いたいことは、天文学が望遠鏡の学問ではないという意味です」
「そうなのよッ!」
 ハテラスは唐突に声を大きくするので、隣のテーブルの客まで振り向く。
 ハテラスは耳を赤くさせ、同席者達に先へ行ってと目配せし、一つ咳払いをする。そして小さな声で私に尋ねてきた。
「……カトゥドンだか、カトゥサンドだかは美味しかったの?」
「美味しかったわ。ここに並んでいる料理ほどではないかもしれないけれど。今度ご馳走しましょう」
 私が優しくそう答えると、ハテラスは何故かここぞとばかり「いらない」と跳ねつける。
 畜生。意味が解らない。変なポエム書いてるくせに――。
 ハテラスはそれっきり、私たちから距離を置くように、はたまた焦ったようにして、その席を立ち去ってしまう。その先にはベイコン少佐の姿が見えた。ベイコン少佐の周囲はゴンズイの群が玉になったような人だかりであり、カメラのフラッシュが頻繁に焚かれている。私たちを呼んだ張本人であるが、あれでは私たちのことを構っている暇もない。
 出雲先生はその様子を眺めながら言う。
「今日はただの休憩になってしまいそうですね」
 仕方がないので出雲先生と私は何とはなしに乾杯しておく。何の紹介もなしにニューヨークの市長なり、議員なりの有力者に接近するには私たちでは少し難しいように思えた。
 天井の照明が明るすぎるせいか、私達は昂揚感を持て余して暫しぼんやりとしていた。そのうちに見知らぬ男がやってきて「ニーハオコンチ」などと声をかける。
 ニーハオコンチ――。このしょうもない言葉はこの頃よく聞いたものである。日本人からも中国人からも不評だが、半ば一般語と化していたのである。しかも日本人自身が「広義の中国人」であることを暗黙のうちに許容するようになったという一つの事実があった。それを思えばこの英語はむしろ本質としては正しい。
 私がどうしたものかと思って黙っていると、彼は自分の言葉で問い直してくる。
「どうだい? 楽しんでる?」
「電気が通っているだけでもここは恵まれているわ」
 外は大抵は曇っていたし、部屋には電気が通っていない日常を送っていたので、部屋が明るいとこうも気分が昂揚するのかと私は驚いていた。目の前では硬くプレスされたテーブルクロスが天井の照明を跳ね返し、足の高いグラスの下では光が集まっており、眩しい。
 私たちが日本人であることを知ると彼はとりあえずは席についた。扱いは中国人もどき。そんなところだ。
「へえ、日本はどういう状況?」
「首都機能の大阪移転という話もあったけれど、結局東京圏に人口が集中しているわ」
「東京はあんまり爆撃されなかったからね」
 勿論それは核爆撃であり、日本の戦争被害としては広島、長崎を越えて前代未聞のものである。だが、ニューヨークは東京の比ではない。ソ連のミサイルの多くはニューヨーク攻略に消費されたのである。
「上海はどうかな?」
「噂は聞いているけれど、上海はわからない。中国だもの」
「あれ、そうか。近くはないんだっけ?」
 近いといえばそれなりに近いのだろうが、今尚距離以上の隔たりがある。
「いやあ、日本と中国って使う文字は同じだと思ってたからさ、日本は中国だったわけだし」
 彼はそんなことを言った。
「……漢文で筆談しても英語とラテン語で会話するぐらいにはキツイわよ。出来るならば一緒だと思いたがるのは、あなたが面倒くさがっているからでしょう?」
「それは言えているな。だって、やっと就職したら、専攻でも何でもなかったのに、突然アジア担当だぜ? たったの三月で中国語と日本語覚えろって、普通に考えて酷すぎないか?」
「それはいい勉強になるわね」
「ああ、そういや、中国と日本、どっちに付いた方がお徳か調べろって阿呆な上司にいわれていてさ、将来的にはどっちが有望かな?」
 阿呆な上司が悪いという免罪符のためか、彼の言いぶりには遠慮がなかった。
「中国よ。だけど下げ相場で勝てないような人は、上げ相場でも勝てないと思ったほうがいいわ。殺到すると競争も熾烈になるのだから」
「なるほどね」
「それと言語の勉強よりも文化の勉強の方が先よ。相手側の担当者が優秀であれば既に英語をマスターしているもの。そしたらあんたの速成のアジア言語は出番がない。アメリカの経済力が落ち目といっても、言語資産は爆撃を受けてないもの」
 私がそう言ってのけると、彼は一瞬、落ち目や爆撃という言葉を思い返して、暗い表情を垣間見せる。だが、すぐにぱっと顔を明るくした。
「なるほどね、アジアンは頭がいいねえ! だのに、あのカバはバカだから、チャイニーズキャラクターを使わなきゃいけない場面を無意味に増やしまくってて、今、タイヘンなんだよ」
 そこの社長というのがコピーして量産した掛け軸を全ての部屋に飾っており、麦茶を前に瞑想とかを強要するらしい。
 そう言って彼は今度は落胆してみせる。
「ああ、僕にはあのカバ野郎を倒す力はなくてね……よかったら、手裏剣かサムライソードを貸してくれないかな?」
「コルトを撃てば、カバも黙ると思うわ」
「そりゃいいアイディアだ」
 彼の笑う表情は、道化を演じつつも、案外神経が参っている印象を受けた。
「あの、よかったら、ちょっと、この文章の意味をささっと教えてくれないかな?」
 言われるまま、ひょいとメモ書きを覗いてみると、それはマンダリン(中文)だった。葛底斯堡演 八十又七年前吾輩先祖於這大陸上、肇建一個新的國度、乃孕育於自由、且致力於凡人皆生而平等此信念――。漢文はともかく中文はなかなか読めるようにならなかった。なまじ推測で解ってしまうので、甘く見て、真剣に覚えようとしていないのかもしれなかった。私自身、旺盛に何かを新しく学び取る年齢ではなくなってもいた。それでもリンカーンのゲティスバーグ演説であると言って、一言で英訳してやると、彼は、にっこり笑って、控えめな雰囲気でサンクスと言って、そそくさとそのメモをポケットの中にしまい込んだ。

 ガードナー軍曹やダネルは、この晩餐をKKKのパーティーだと言って、本気で嫌悪していたが、少なくともそこまで酷い雰囲気ではないように思われた。どこか卑屈さと傲慢さがアンバランスになっており、誰一人として心底楽しむことが出来ないのは、今の世相を考えればむしろ普通だ。
 黒人の給仕が新しい皿を運んできて、しずしずとテーブルに載せる。
 あっと思って、振り返るが、給仕は黒人ばかりでもなさそうだった。
 見当違いなのかもしれない。
 だが、ジェスチャーが過剰に思える、目の前の白人の男は給仕が去ってゆく背を見つめながら、ははと笑った。
「礼儀正しいだろう?」
「ええ」
 私が愛想笑いすると、彼はさらに言った。
「バカなツラ下げてフードスタンプ集めている連中よりはよほど賢いよ。怒れば何でも手に入ると思っている」
「その言い方はないわ」
 私が同意するとでも思ったのか、彼は少したじろぐ。
「言っておくけど、私は人種の話をしているんじゃないよ。人のアティチュードの問題を話しているんだよ」
 そう言って、彼は眉根を寄せて控えめに笑う。よく考えてみれば彼は終始笑ってばかりだ。
 彼は自論を続ける。
「連中ときたらいつも抗議してばかりだ。奴隷は人に馬鹿にされるよりも先に、否定するものを探そうとする。叩く相手が軒並み手にとどかないから、特に同胞を馬鹿にするようになる。馬鹿にされている者は案外奴隷ではないんだよ」
 この時はまだ耳にしなかったが、クー・クラックス・トム――つまり、KKK内部のスレイブとしての黒人というイメージが生まれつつあった。これはただのアンクル・トムとはわけが違う。KKKに忠誠を誓って黒人に手をかけると言われており、洗脳された人間のように思われており、そうでないと自認する黒人たちからこそ忌み嫌われていた。
 彼は続ける。
「戦うより働く方が早いこともある。連中は、地位向上と言いながら、戦うことにかまけて、より忍耐と礼儀を要求する労働を奴隷的とレッテルを貼って、自ら拒んでいるんだ」
 彼の言いたいことは解った。だが、それは知的な人間がみせるその場限りの理屈だ。
 確かに有色人種である私は、今現在パーティーの来賓という待遇を受けており、給仕の中には申し訳程度、白人も混ざる。アメリカでは何かにつけトークン……言い訳要員が必要というわけだ――。
 人種問題ではないという前提で彼が言う「連中」という対象は、結局黒人が大勢を占めているのは明らかだった。
 彼の苦笑する顔には、皮肉ではなく、遣る瀬無い感情が滲んでいた。
 つまり、これは白人の妥協。そして何よりも、疲労だ。
 北東アジア人全てをひっくるめた「広義の中国人」が、マジョリティかつ経済的にはユダヤ人のような存在と化しており、それ以外のアジア地域の人間も殺到した形での、境界線のぼやけた任意的な人種幻想が生まれている。中華という一大勢力が、人口も経済力においても大派閥となっていた。もはやそれを好こうが嫌おうが、合わせてゆかざるをえない。しかし白人には黒人やヒスパニックにはまだ妥協しなくていい経済的なアドバンテージが残されている。その証拠、頭角を現さんとするブラジルやメキシコ――中南米諸国へのアメリカの牽制は、冷戦期のキューバに対する牽制と嫌悪に勝るとも劣らない。ただし、間違っても今、中国とは戦ってはならない。その斟酌から、選び取られた合理と冷徹であった。
「僕は別にレイシストではないんだよ」
 彼はまたそんなことを呟いた。これも何度目か知れない。この頃、アメリカにおいてレイシスト。レイシズムはタブー視されている反面、立場を問わず、頻出中の頻出単語だった。
 グラスの底の干し梅で遊んでいた先生が不意に視線を上げて口を挟む。
「レイシストは差別されても良い?」
「そりゃそうだろう?」
 先生は返事をしない。 
「だって、あなたはレイシストにジャップて言われたら嫌だろ?」
「ジャップと口にしたからと言って、その人がレイシストであるという証拠は?」
「証拠も何も、そういうことを口にしたら、明らかじゃないか」
「仮に、ジャップと言わなくても、それはジャップと言わないだけのレイシストかもしれませんし。言おうと言うまいと、同じですよ。少なくともこれだけ過酷な状況になっては、その程度の議論は不毛です」
 出雲先生が無表情で男の顔を覚えこもうと必死に注視していると彼は気付いた。
「ああ……あなたは、ひょっとして、ライトハウスステーションの?」
「私はその部署の責任者です」

 彼はまずいのに出会ってしまったといった表情を見せて我にかえった。
「喧嘩する相手を間違えたようだ。何か変だなあとは思っていたんだ。だけど、一つ言っておくよ。センセイのご高説は今の日本の地位がまだ残っているから言えることだな。ジャップはまだいいだろうけど、ここじゃ、ニガーという言葉の歴史はそれほど甘くはありません。気をつけたほうがいいですよ」
 出雲先生は珍しく指を振った。
「差別は言葉ではなく感情に宿るものです。本心に偽りがなければ、誤解を解く以上の取り繕いは不要です。昨今、少々の言い回しのことで暴動が起きるのは良くないのですよ。それが原因でもないのに、難癖をつける口実になっている」
「いやあ、そりゃそうなんですけどね。僕だって、そう思いますよ? でもね……」
 彼は不安そうに笑ってみせる。無闇に政治に口を出すような真似をすれば、どこからか鉄砲玉が飛んでくる可能性がある。アメリカ人がこんなに愛想笑いをするようになろうとは、隔世の感である。もっとも私は、先生の理屈に承服しているわけではない。鉄砲玉が飛んできたら私が身を挺してでも守らなければならないのだから。
 出雲先生はそこで話を切り上げた。
「ところで、私たちは市長を探しております。ご存知ありませんか?」
「今の市長はよしたほうがいいです。僕ほど軟弱な人間じゃあない。嫌っていますし」
「何を?」
「ニーズ系をですよ」
「それでも手を組まねばならぬ時は手を組みます。そうでもしなければ乗り越えられないこともありますから」
「よした方が身のためです。ここだけの話、彼はKKKメンバーです。KKKの亡霊のような人間ですよ」
「情報をありがとう。しかし私も日本帝国の亡霊なのです」
 出雲先生がそう自嘲すると、彼は更に声を小さくしてこう言う。
「たぶん私も……」
「あなたはご自身が心配するほど、悪い人間ではありませんよきっと」
 出雲先生はお辞儀して席を立ったので、私もそれに倣った。
 残された彼は自分だけ仲間外れにされたような、はし役であったことに気付いて興醒めしたような表情をしていた。
 多くの者にとっては、悪く出ても、せいぜい誰かを小バカにしてみるのが関の山である。そうそう重大な事態に繋がることはないし、もしそうなってしまうのであればそれは、それは決して個人の責任ではない。それでパニックが起きてしまったり、個人の責任が強調され過ぎる時に失われているのは、ガバナンスの責任である。
 大衆たるもの、最後、守るべきはちっぽけで短い自分の人生であると確信出来る謙遜をもっている。それを美徳と呼ばずして何と呼ぶ。私は、出雲先生のお陰で、シチズンの時計を心から大切に出来るようになっていた。彼女とお揃いのを買ったのだ。まるで、コダマになったような気分だった。
 彼はきっと、今日のパーティーでヒレ肉の乗った寿司をつまんで、富士と名乗る黄酒を呷り、久々に満足したら愉快な気分でリモサービスにて帰路につくのである。
 私はきっと、出雲先生の、あと残り少し――復讐と限界に賭けた人生の傍らで得意げであったことだろう。やせ我慢せずに、お前は久しぶりのご馳走をもっと食べておけば良かったのに――。
 出雲先生は、人を見分けることの出来ぬ目で、悪辣な人種差別主義者と噂される市長を探して、波模様が足元でキラキラ光っているフロアを彷徨っていたが、それよりも先に他の珍妙な人物を見つけ出した。

「角島。見つけましたよ」
「見つけてしまいましたね」
 目が合って、すぐにあっちも気付いた。
 出雲先生と私は、立食テーブルの方へ向かう。そこで、変な小躍りをして、人を笑わせている老人をみつけ、周囲への紹介ついでに市長に紹介してもらうように頼んだ。
「市長だ?」
 ブラウン提督は何故来たのだと、眉を顰めた。実は先日の深夜に、キットマンから「パーティーには出るな」との連絡があったのだ。
 話を合わせるのが難しくなるからであろう。ブラウン提督は、出雲先生と私を引っ張ってゆき、ホールを出る。

「来るなって言っただろう? 何で来たんだお前達は!」
「あんたを捕まえるためよ」
「オレは逃げているわけじゃない。今は忙しいんだ。男の正念場だ。解るか?」
 私は酩酊に顔を赤らめる老いぼれた男の目を覗き込む。
「あなたは何を考えているの?」
「お前こそ何を考えているんだ? 待っていろと言っただろう!」
 この男の考えていることは次期のアメリカ大統領選に出馬することだ。その全ては飽くなき上昇志向と純粋な名誉欲に基づく。アメリカを救いたいというよりも、死ぬ前に一度、大統領になってみたい。この男の中にあるのはそれだけだ。そういえば、この初老の男はトロフィマニアであった。部屋中に盾や杯、メダル――己の優秀さを証明する数々のそれ自体は無意味なメッキ品を並べ、毎夜塵を払い、磨き上げ、次なるコレクションを獲得するために毎朝出勤する。そうやって生きてきた。下品なだけかと思いきや、そんな珍奇な悪趣味があるとは知らず――。これと結婚する女には同情を禁じえない。
 しかもこの男は、この時こんなことを言った。
「さて、大統領にはファーストレディが必要だろう? まあ、言うなればアルバイトみたいなもんだ。どっちかやる気はないか? ん?」
「アルバイト……あんた、だいたい、どっちかって、私たちはどういう扱いなのよ?」
「おお? 何だ。お前か。オレはそれでも構わんぞ? 仕方がない。出雲はカリスマがいるからそもそも仕方がないしな」
「ボケ始めたのかしら」
 バッグから無線を取り出して電源を入れてみると、通信は出来ず、小さく何かの管弦楽が聞こえてくる。このホールはジャミングがかかっている。この機会を除いて、内密に話をする場はないと思われた。
 出雲先生は私に確認をとるとブラウン提督に話を切り出す。
「カリスマと連絡を取っておきたいのです」
「何故今なんだ? 待てと言ったろう!」
「今だからです。豪雨になってからではもう遅いでしょう」
 昨日の夜からである――窓の外は既に小雨が降り始めていた。
 ホールの中ではパターソン中将がノアの箱舟の引用をしながら、意味深な挨拶をしていた。
 私たちとしてはペンタゴンのブレインサーバ経由で、情報を交換しておきたい。他所に話を聞かれるのは仕方がないが、カモフラージュすれば何とかできるはずだった。ブレインサーバの送信機で転送出来る量は桁違いに大きい。特定の反アメリカ的と見なされる情報を除いては、ブレインサーバで連絡を取り合う方が効率が良かった。
 それが、最近特別な理由もなく、なかなか許可が下りなくなってきていたのである。
 ブラウン提督は持ち上げたグラスの底に残るシャンパンの一滴を舌の上に落とし、やけに美味そうにしてそれを飲み下す。

「どのみちすぐには無理だ」
「このまま去年と同じように梅雨に入るわ」
「犬吠埼が来ているだろう。貴様の責任なんだから、どうにかしろと言っておけ!」
 犬吠埼を責めるのは違うだろうに。
「もしも、通信許可を出してくれないと言うのなら、どこか手頃な灯台からモルス信号を送るわ。通信設備がなくても、十万カンデラもあればアイラブユーぐらい送れるもの」
 カリスマに向けて規制のかかっていない灯光モルス通信を試みるという「アイラブユー作戦」が、イギリスのエディストーンで行われており、これが成功して、新聞に載っていたのである。ライト・フライヤーⅡが気持ちを抑えきれず勝手に返信を打ってしまったのだ。アメリカ国内では検閲を受けてしまったが、私たちは福岡へ行った帰りに日本でそれをやろうとしている学生グループと出会った。
「そんな余計なことはしてくれるな! オレは明日の朝ブレインサーバに行く。ディキシーにも話をつける。あとは、灯台局でチマチマ通信を行う。頼むから余計なことはするな。変なことをしたら、二度と会わせてやらん!」
 ブラウン提督はそう言って、怒ったドナルドダックのような千鳥足でホールへと戻って行った。






§ 三六 赤いポピー

 
 深夜、雨合羽と懐中電灯という井手達で小雨の中を二時間ほど歩く。道は爆撃の爪痕が残り穴だらけであり、よく注意して歩かないとマンホールの蓋も既に持ち去られているので、どつぼにはまって死にかねない。廃ルートであり、NYロック4の軍管区を挟んでいる関係で今は野生動物と私たちぐらいしか通らない道だった。爆風で吹き飛ばされて無蓋となった駅のホームに、何か中型の野生動物が飛び上がる。懐中電灯を向けると、目の底が赤く反射して瞬きするのが見えた。捩れて捲れあがった軌条の下に砂利積み貨物列車が横転している脇には、以前は長い髪をなびかせた女の白骨が忘れられたようにあったが、今はどうなっているのだろうか。赤いポピーが骨の隙間から生えて風に揺れており、まるで、シェルター展覧会で見たジョージア・オキーフのようだと先生と語った。死ぬのも悪くはないのではないかと思えるような気がしたのは嘘ではない。
 今はそんな気分にはなれない。雨が辛い。一瞬何故か、今まで思い返すこともなかった、山口の実家のことを思った。兄はその後どうしたのだろうか。たぶん、あまり現実的に考えたいことではなかった。
 出雲先生は平気で何キロも徒歩行軍することがあったが、この日は強脚の私も流石にヘトヘトになった。久しぶりにヨンカーズにあった灯台局に戻ったのである。
 悴んだ指先で波打ったシャッターに手をかけると、地面に微かな光が漏れているのに気付いた。警戒すべきであったが、誰だか見当が付いて、溜息をついたのと同時に、シャッターを蹴り上げてしまった。毛布に包まってランプの炎に照らし出されている犬吠埼と目が合う。

 彼女は目を赤くしていたが、当人の性分的な無防備さでもってその双眸をこっちに向けたまま、じいと動かずにいた。キットもこっちを見て肩を竦める。その横ではナカノセが敷布団の上でひっくり返って何かを熱心に読み耽っていた。どうせまた漫画か何かだ。そしてルッカウト。彼女は、ぼやっとしているということはありえないのだが、銃の歪みや弾の傷を散々点検して、それでも暇を持て余してしまうと、遠くを見て超然としている。そういう時、彼女が何を考えているのかわからない。
 私は、状況を察して犬吠埼の背中を摩っているキットに視線を戻した。
「違うよ! ただの事実を言ったまでさ!」
 そう言って彼は私が何かを口にする前に言い訳した。
「事実を言っても仕方がないわ」
 アメフラシオプションは犬吠埼が作ったのであろうが、犬吠埼が撒いたわけではないではないか――。
「まったく、これじゃ僕が苛めたみたいに見える!」
「その通りよ」
 私は犬吠埼に尋ねる。
「これって人為的な天候なのでしょう? 何か打つ手はないのかしら?」
 犬吠埼は大粒の涙を潰して思いっきり首を横に振った。覆水不返だそうである。なるほど。私たちは最悪のアメフラシを世界に解き放ってしまったらしい――。
 今でこそ静かであるが、荒れると酷い上、雲量が多く、空は一向にからっとしない。自然災害もだが、農作物の慢性的な不作は世界規模の問題と化しており、アメリカでもモヤシが盛んに栽培されるようになった。

 犬吠埼は時折しゃくりあげながら、唇を震わせて、更にメソメソと泣き出す。
「私に……何か出来るとは思わないけれど、……もう少し、ここに残ろうと思います」
「ダメッ! 来週にはペテルブルクに戻るわ!」
 そう言って、隣で寝転がっていたナカノセは傷心の犬吠埼の後頭部に向けてチッチとサリーの漫画を丸けて叩きつける。しかも今度は私の方に向かって、煎餅の食べカスを爪の先で跳ね飛ばしてくる。全方位を刺さんと願うウニみたいな奴で困る。
 ナカノセは言う。
「ったく。場当たり? 何が場当たりよ? 自分達に必要となれば、掌返したように待てとか言うのよねえ。ああやだやだ!」
 何のことを言っているのかと思えば先日のカツ丼のことか――。あれを場当たりと言わずして何と言えばいいのか。ナカノセは寝転がった姿勢で、ほとんど逆様のまま私を睨みつけていた。
 私はナカノセに言ってやる。
「……あんたは、好きなところに行きなさいよ。私がいてもらいたいのは犬吠埼よ?」
「コシギンチャクのくせに!」
「あなた、犬吠埼を無理矢理ソ連に引っ張っていったじゃない。だいたいどうして、ここにいるのよッ? ここは灯台局よ? さっさと出てゆきなさいよテロリストは!」
 ナカノセは凄い勢いで寝返りを打つと、がっと起き上がって顎を上げつつ私を見た。
「私はテロルに出たためしなんて一度もない。テロリストはアンタたちでしょ」
 顎を上げると背が低くても、物理的に相手を見下すことが出来るらしい。生活の知恵か。
 彼女は私を眼下に置きながら唱える。橄欖は瞬燻にして、焔焔に滅せずんば炎炎を如何せん! 私たちは世界に革命を齎すために云々――。
 何時ぞやの灯台を占拠した大学生たちを思い出す。
 奴等はどうして何一つ冷静に喋れないのだ。冷静に喋ると、器量がばれると思うから大声と早口とで情熱を嘯くのだ。
「共産革命など最早人気がないということが解らないの?」
 私がそう言うと、ナカノセはべらんめいな口調で怒鳴る。
「こちとら人気商売やってんじゃねえ!」
「もういい。やめろ! 静かにしろッ!」
 口論に突然介入してきたルッカウトが一際通る声で叱咤し、ライフルを天井に向ける。この前と同じパターンだった。
「ちょっと、ここで撃たないでよ?」
「だったら、静かにしろ」
「まったく、静かにしなさいよね角島は」
 そう言ってナカノセはルッカウトの背後に撤退した。
「あなたねえ! 前から言ってやろうと思ってたんだけど、無思慮に動き回るのやめなさい!」
 私がそう言ってルッカウトを迂回してナカノセに詰め寄ろうとすると、ルッカウトは私を躊躇なく押し返す。
「静かにしろ! 聞こえないのか!」
 だって!
「黙れ。静かにしろ!」
「角島はうるさ過ぎる!」
 ナカノセはルッカウトを盾にそう言って、さも自分は嗜める側の一人であるかのように目を瞑り、眉根を寄せて、腕を組んだりなどした。
 この馬鹿女――。あと十歳若かったら、あと十歳……? 私は今何歳なのだろう? 随分年を取ったものだ。
 ナカノセは更に一言余計な事を呟くのだった。
「角島はいつもお嬢様気取りで、何もしていない!」
 ざっくり殺してやろうかと思った。
 出雲先生がシャッターの中に入ってくる。村の子供たちに貰った缶空の風車をずっと雨の中で直していたのだ。強風で軸がまがったらしく、上手く回っていなかった。出雲先生はそれを今までずっと修理していたのである。部屋の中で直せばいいと提案しても「あともう少し」ときかない。
 先生は「騒々しいですね」と言って全員の顔を見渡した。それから、合羽の雨水を切り、コートを脱ぎ捨てると、こっちへ来て、丸まっている寝袋の上に座った。

 ナカノセは溜息混じりの調子で、出雲先生に忠言する。
「センセイそれ室戸だよ」
 出雲先生が腰をかけても、室戸は死んでいるかのように呻き一つあげなかった。私はそもそも、そこに室戸がいることに気付いてさえいなかった。
 慌てて立ち上がって詫びる出雲先生に向かって、キットは言う。
「灯台局に運べって、メモがあったから運んできたよ。本当に起きない……。死んでるのかと思って、びっくりさせられた」
 出雲先生は室戸を運んできたキットを労うと、気を取り直してナカノセに訊ねた。
「何故ここに」
「だって泊まる所ないじゃん?」
 知るか。
「ここはあなたの泊まるところではありませんよ」
 出雲先生がそう言うと、ナカノセはこんなことを言った。
「あんたたちは仲直りをする気がないの?」
 仲直り? 頭に来る。ナカノセは先に謝る気なんて、生まれた時からないくせに。
「あんたね、自分の都合の良いことばかり言うのはやめなさいよ!」
 私がたまらずそう言うと、出雲先生はそれを止めた。
「仲直り以前に私はあなたと喧嘩をしたつもりはありません。ただし、考えが違うのであれば、筋は通すべきです」
 ナカノセは出雲先生の言い分を鼻で笑う。
「人からPFCを貰っといて何を言っているのかしら?」
「あなたと遊ぶために、PFCの交渉をしたわけじゃありません。PFCが必要だから交渉したのです」
「遊び? 何が言いたいのか解らないけれど、結局、泊めるの? 泊めないの? どっちかはっきりしなさいよね」
「あんたねえ!」
「静かにしろ角島!」
 ナカノセ。元々ろくでもないとは思っていたが、こうまで図々しいとは思わなかった。しかもさっきからルッカウトはなんだ。私が馬鹿みたいではないか――。
「さっきから、私ばっかに言わないでよ!」
「お前が一番カッカしているだろう。まずは静かにしろ」
 納得行かない。状況が酷いから、誰しも鬱積しているが、私はこれでも堪えてきた方だ。
 ルッカウトはこの時一番年少だった。私たちが灯台局に来た頃にはまだ生まれてさえいなかったはずである。何故、そこまで態度がでかいのか。
「私はもう寝ます」
 出雲先生はそう言って立ち上がり、部屋の隅に並んでいる小さな鏡台の棚から歯ブラシとコップを手にとると、カン、カン、と音を立てながら二階へと続くアルミの階段を登っていった。
 外は雨こそ疎らだが、風が強く、時折ザアアと粒子をつんだ激しい音が走って行った。私はメコン村のことがまた気掛かりになった。
 私は出雲先生に訊ねる。
「この雨、大丈夫でしょうか」
 出雲先生はプレハブの階段の途中で止まり、外の様子を小窓から覗く。
「予報ではまだ嵐にはならないと言っていました。どのみち私はもう寝ます。あなたも寝ておきなさい。予約が取れ次第、先に行かねば」
 ナカノセが口を挟む。
「予約って何? ブレインサーバのこと?」
「あんたはもう関係ないでしょう?」
「言っておくけど、あいつら、面会にカネ取るから」
「幾ら払ったのです?」
 二階から出雲先生の声が響いた。
「払ってない。ブレインチャーチに会おうとすれば、一分百ドル。中身は機械だって言われてんのに、それでも懺悔に行く奴がいるってんだから、あんなのカルト宗教じゃん」
 あの界隈で言うマシーンとは機械のことではない。コネによる公職採用幹部のことだ。どのみち、ブレインチャーチ本人が無関係の民間人と対話をする意味がない。そういう意味では、民間人の窓口には誰かが代役をしているはずである。
 ブレインチャーチは中国人であるという噂があった。急速に影響力を高めている中国のことを考えれば、それも十分あり得る話である。そしてブレインチャーチは、新型の人工衛星であるとも噂されていた。荒唐無稽な感はあるが、中国が全力を上げて人工衛星の開発を推し進めてきたことは確かである。
 この時はまだ情報が不確かで、それがカリスマを落とすことになるとは思っていなかった。






§ 三七 ネズミへ

  翌朝、薄暗がりの中で目を覚ますと、明かりもついていないのに部屋の中が変に明るかった。小窓から外をのぞくと、太陽は見えないが、白っぽい雲がぼんやりと空全体に伸びており、広大な視界を埋め尽くしている。午後になれば雨が降るのだろう。世界は未だ生命力を感じさせない。
 私が部屋の方へ振り返ると、出雲先生と目が合う。彼女は微笑みながら「おはようございます」と言った。

 一階の広間に降りてゆくと、既に明かりがついている。キットマンは私に気付くと人差し指を口元に持ってゆき声を出さぬようにと目配せした。キットマンはコダックの8ミリカメラを回しており、その前で室戸が透析機と発電機のつなぎ方や操作の仕方を説明していた。
「あ、キットちゃん、やっぱりビデオ止めて!」
 続いて出雲先生がやって来る。
「出雲。スクリーニングやっといたよ」
「ありがとうございます」
「そのまま使えるレベルだったけど、気になるなら、一応確認をとって」
「室戸がやってくれたのなら信用出来ます」
「本当は自分で検査すべきだよ」
 出雲先生と室戸が、スクリーニングの結果を見て論じている間に、私は一斗缶のアスピックゼリー(肉や野菜を煮凝りにした惣菜)と両手缶切りをもって三和土に下りた。半分開けたシャッターから、強風が入り込んでくる。雨粒が吶喊的に激しい音をたてて、セメント床の灰色を黒い飛沫に染めた。外で何か、ゴトゴトと近付いてくる音がしたので、警戒してシャッターを潜って様子を伺うと、犬吠埼が四頭立ての驢馬車を歩ませてくるのが見えた。その背後からルッカウトが巨大な馬を走らせてきて、犬吠埼を追い越し、私の目の前で止まる。
 ルッカウトが駆ってきたのは四足の裾を箒のようにした不思議な姿。体高七フィート級のシャイアーである。馬の目を覗き込むと、その大人しそうな瞳は怯えたようにそっぽを向いた。

「どうしたのよコレ……」 
「国連で正式に借りたものよ」
 名前はサンプソンだと言う。「猛烈にいい子」なのだそうである。そう言って、ルッカウトは巨馬から飛び降りた。
 このサンプソンはイミュナイズドホースだった。汚染された作物をエサにしており、スカベンジャー、つまりはゴミ食いという不名誉な渾名がある。ともあれ、この物不足の時代に鱈腹食べることの許された数少ない動物のひとつだった。同胞の恐るべき数の犠牲の上に、幸運にも生き残った一頭だ。強靭な生命力をあてにされ一生こき使われることだろう。
 遅れて辿りついた犬吠埼の駆る驢馬の方は、痩せこけて皮の上に肋骨が浮き出て見える。まだらに体毛が禿げかかっているものもあった。粗食ばかりを食べて、短い命の全てを労働につぎ込まれるのである。生物の一生が苦しみであるのなら彼らの短命は幸いである。
 福岡で再会し、ルッカウトがメコン村で雇われて以後、なし崩しの形でナカノセたちは灯台局にも出入りするようになり、私としては少々納得がいかなかったが、出雲先生は、飯代と交換でナカノセと犬吠埼に平然と仕事を割り振った。出雲先生は、かつて、経ヶ岬や、沖ノ島をもってして、去った者はダメであると断言したこともある。彼女に纏わる矛盾はそればかりではない。筋を通しているという意味で言うならば、ナカノセとて少々の正当性はあるはずだ。私は自分が出雲先生の徹底性を愛していると思っていた。

 午前中に一度ガードナー軍曹に連絡を入れたものの、私たちは日が落ちるまでメコンの本部には戻らず、室戸の采配の下、灯台局に保管してあった医療物資や機材を国連の倉庫に運んだ。
 その最終便で、私は交代された驢馬一頭の荷車に重量級の機材であった古い無影灯と、カルテやレントゲン写真の詰った書棚を積んで、運んでゆくこととなった。自らも荷車に乗り込む。ルッカウトは大丈夫だと言うが、驢馬一頭にこれだけ積み込んだ荷車を引かせるのは可哀想である。
「だったらあなたは待っていなさいよ。なんならあなたが代わってやればいいのよ。そうすれば驢馬も八〇キロぐらいは楽が出来るんじゃない?」
 ルッカウトは提案ついでにさらっと、失敬なことを言った。そんなにあるわけがないではないか。ルッカウトは今の状況を解っているのだろうか。それとも、そういう次元の喧嘩がしたいとでもいうのか。
 私は努めて冷静に諭す。
「今のニューヨークを一人で行動するのは危ないでしょう?」
 それに対しルッカウトはあっさりとこう答える。
「私は平気よ。一人で身が守れないのはあなたの方でしょ?」
 何でルッカウトは一々私に突っ掛ってくるのか解らなかった。
「ねえ、私、あなたに何か悪い事言った? 私はこの驢馬が大丈夫かなって訊いただけよ?」
「私はそんなに心が痛むのなら、驢馬を荷台に乗せてやればいいと言っただけよ」
 彼女はそう答えて、相変わらずシレっとしていた。
 私は思わず啖呵を切る。
「そこまで言うなら構わないわよ! やりましょうか? 私はそれでも構わない!」
「私はここから下りる気はないわ。バカは言い出しっぺがやりなさい」
 これはナカノセのせいなのだ。奴は私の育ちを悪辣に言いふらした。犬吠埼が妙に肩身の狭い様子で萎縮しているのは、同じ理由による。ソ連から戻ってきてからというもの、あの犬吠埼が、遠慮してあまり食べようとしないことには驚かされた。あれはアメフラシオプションの責任を感じているばかりではなかった。連中には資本家とその子弟を公然と軽蔑し、否定すべきものというイデオロギーがあり、ソ連崩壊後も、その思想は根強く残っていた。彼女達の場合、思想がその人生に裏打ちされたものであり、ソ連と社会主義の大嘘を見て尚、資本家が思想の仇であるのは彼女達にとっては一つの真実であった。
 私がどれだけ頑張っても、私のプライドが完全に打ちのめされない限り、彼女達は許しはしないのだろう。私が出雲先生を尊敬し、ナカノセやルッカウトを、いかに理解しようとも、尊敬に到らなかったのは当然のことだ。虐げられ、苦労してきた人間には同情するが、それが貧困から脱却し、社会的に成功しただけでは尊敬に足らない。社会的に成功する者など、出自を問わず、かえって害悪なぐらいには存在するのである。苦労して這い上がり尚、公平無私である出雲先生が、色々差し引いて見てもどれだけ輝いていたことか。ナカノセはいつだか、出雲先生のことを「努力は認めるが、少し白痴じみている」などと寸評した。出雲先生が何らかの欠格者であるとしておけば、連中は何をやろうと都合のいいレジスタンス気取りが許されるとでも思っているのだ。
 出雲先生の素晴らしさを心から理解しているのはこの角島だけである。
「カリスマがいるんじゃないの?」
「なあに?」
 不意にルッカウトが訊ねてくる。
「あれは、あそこで動かないでいる光は、カリスマなんじゃない?」
 ルッカウトは流れてゆく厚い雲の先を指差していたが、私には全く解らなかった。どうやって、暗闇の雲で覆われた空の上にある星を見ると言うのだ。もしもライフルの射程に限界がないのならば、彼女は雲の上にいるカリスマでさえも射抜いてみせると言う。
 実際、彼女にはそれだけの腕があるのだろう――私が不承不承、それを認めると、ルッカウトはそんな冗談みたいなことは出来ないと言って笑った。ルッカウト曰く、私は本音と冗談の区別もつかないお馬鹿さんなのだそうである。冗談紛いの奴に言われたくはなかった。
 暗闇の荒れ果てた道を、とらえどころのないくせに辛辣なこの少女と共にずっと行くことになるのかと思って私は溜息をつく。
「ねえ」と、私が何かもっとマシな話題を思いついて、ルッカウトに話し掛けた途端、彼女は突然シッと言って、身を屈めて銃を構えた。道の先に何か動くものを見つけたらしい。
 私がルッカウトの指示通り、ランプの炎を消し、身を伏せて凍り付いていると、暫くの後、彼女は荷台の軋む音と驢馬の前進する蹄鉄の音に隠れてふふんと笑った。
「……これで冗談とか言ったら、怒るわよ」
「ネズミよ。ほら、あそこ」
 ルッカウトはそう言って、マッチを擦って、もう一度ランプをつけ直す。
「切り株のとこ。また顔を出した」
 もとより私にはその切り株が見えないのであった。それから何百ヤードも行った頃に、それらしき切り株が見えてきて、私はルッカウトの千里眼に驚く。
 ランプのオレンジ色の光が差して、ガラス玉のような緑色をたたえる瞳を向けながら彼女は言う。
「私のこの目に才能が宿っているわけではないわ」

「日本では、そういうの腕前というの」
 私はそう答える。
「目だとか腕とかそういう問題じゃない。たとえ全部なくても私は私。目を閉じてでも当ててみせねばならなかったのは、私の置かれた立場を考えればわかることでしょう? だけどそれは、思春期のプライドみたいなものでしかないから、もう本当はやめたいと思っているのよ」
 彼女はそう言って、膝の上に銃を下ろすと思いがけず歌を歌い出した。その視線の先にはまだきっとネズミが見えているのだろう。

   Small, sleek, cowering, timorous beast,
 小ツポケデ ツヤヤカデ 縮コマルバカリ 臆病ナ獣ヨ。

   O, what a panic is in your breast!
 オオ、ドンナ恐怖ガオ前ノ胸ヲ満タシテイルノダロウ!

「って、あんた、この歌知ってる?」
「続けて」
 ルッカウトはふっと息を吸い込むとまた歌い出した。

 オ前ハソンナニ素早ク立チ去ル必要ハナイトイウノニ。
 大急ギデ飛ビ跳ネテ!
 僕ハオ前ヲ追ツカケルノガ嫌ナノダ。
 殺ス鋤柄ノ捧ゲヲナシテ。

 僕ハ心底嘆カワシイ。人間ノ支配ガ
 自然ヲ営ム社会ヲ潰シ、
 ソンナ病ンダ意見ガ正義ニナツテ、
 コノ僕ガ、哀レナオ前ニ、
 地球デ生マレタ仲間ニ
 死ニユク友ヲ戦慄サセル!

 時ニハ僕モ疑ワナイ、ソリヤオ前ハ盗ムノダロウガ、
 ソレガドウシタ? 憐レナ獣ヨ、オ前モ生キネバナラナイ!
 二十四ノ穂束ノウチノホンノ一耳ナンテ
 小サナ願イ出……
 僕ハ残リノ恵ミヲ受ケ取ツテ、
 決シテソレヲ失ワナイ。

 オ前ノ小サナ家ハ、モハヤ残骸!
 脆イ塀ヲ風ガ散ラス!
 今ハモウ何モナイ。
 新シイ家ヲ編ム緑ノ草サエモ!
 ソシテ厳シク鋭イ、
 凍エル師走ノ風ガヤツテ来ル!

 オ前ハ田畑ガガラントシテ、荒レ果テテ、
 ウンザリスル冬ガスグニモヤツテ来ルノヲ見タ。 
 居心地ノ良イ、暴風ノ陰ニ
 オ前ハ住モウト考エタ、
 ダガ、グシヤリ! 無慈悲ナ鍬ガ
 オ前ノ巣ヲ突キ抜イタノダ。

 アノ小サナ葉トクズノ一嵩ノ山ハ、
 労ヲ尽クシテ齧ツタモノ!
 今オ前ハ大難ニヨリテ家モ手持チモナシニ、
 追イ出サレ、
 冬ノ霙滴リ、白ケル霜ノ冷サニ
 耐エルノミ。

 シカシネズミヨ、オ前ダケデハナイ、
 先ノ予想ハヤヤモスレバ無駄――
 ネズミト人間ノ最モ入念ナ計画モ
 シバシ外レル。
 ソシテ我ラニ悲シミト痛ミダケヲ残ス。
 約束サレタ歓喜ノカワリニ!

 ケレドモオ前ハ幸イダ。私ニ較ベレバ!
 今ダケガオ前ニ触レル――
 シカシ、ウギヤウ! 我ガ過去ヲ見返セバ、
 凄惨ナル眺メ!
 ソシテ先は見エズ、
 死ヲ思ツタ。



 ルッカウトが歌い終わると、荷台の軋む音と驢馬の前進する蹄鉄の音がまた戻って来て、あたりは暗闇になる。

 私はわけあって、この歌を知っていた。作者は蛍の光の原詩の作者でもあり、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ。タイトルは「ネズミへ」これにメロディがあるとは知らなかった。ヨナ抜きのあの牧歌的なメロディはもう私には思い返すことが出来ないが、その辛辣な歌詞は胸に刺さった。

 国連の本部に到着すると、私たちは検疫所の門衛に通行章を見せて、手伝ってもらい、積荷をカートに移した。ルッカウトはポーチからタネだらけのキュウリを一本取り出して驢馬にやる。もう一本取り出すと、それを折って、半分私に寄越してくる。
「水分補給には気を付けなさい。それと手洗い嗽」
 はいはい。お姉さま。
 慢性的に安全な水が得にくい状況にあり、そのためにこの寒さの中脱水症状になる者が相次いでいた。
 彼女は片割れのキュウリを齧りながら、軽い足取りで暗闇の厩舎に向かっていった。
 私はカートの重さにてこずりながらもそれを牽いて地下の倉庫へと向かう。そして、そこで思わぬ人物と出会った。国連本部ビルもほとんどの部屋が消灯している。
 戦後、アメリカの時計は夏も冬も二時間早く回っており、六時ともなればもう夜であった。外が常に曇っていたからである。こんなに遅くまで彼女は何をしていたのだろう。
 奇妙に思いつつも、そのまま進んでゆくと、肩がぶつかる。荷物からいくつかの本が崩れ落ちた。何だかわざとぶつけられたような気がして、今度こそ負けないように言ってやろうとすると、ハテラスは不意に私の腕をとって、鼻先まで顔を寄せてきて目を合わせた。

「落し物よ」
 手渡されたレターサイズのノートにはでかでかと、LOS‐6(数列表‐6)とあるが、下に漢字でこうある。
「七月六日土曜夜襲撃」
 何だコレは?
 背後を振り向くと、ハテラスのスカートの端が薄暗い廊下の端に消えた。

 私は倉庫にカートごと入り、休憩がてら、暗闇でキュウリを齧る。
 ハテラスの腕、注射針の跡があった。ドラッグを打ってるのではないか――。
 そういえば、ダイニングで会った時、少し様子がおかしかった。
 背負いの革鞄から懐中電灯を取り出して、ハテラスの寄越したノートを開くと、中表紙の冒頭にこう出てくる。

 私は常に監視されております。私の名を出さないで下さい。襲撃者を殺さないで。

 そして、説明も乏しいまま、ベイコン少佐を殺さないで欲しいとの旨が書き綴ってあった。それから先は細かい日本語であらゆることが書き込まれていた。

 来月の天気予報と、ダム貯水量の各年データ――。
 ブレインサーバ内報。
 ブレインサーバ内で、ディキシー艦隊が情報回覧から疎外されていること――。
 水源の男たちのメンバープロフィール。
 その中には、かなりの上位にベイコン少佐の名が連なる……。
 そしてブラックリスト。ガードナー軍曹の名のすぐ次に、ブラウン提督や出雲先生の名が連なっていた。意味するところは一目でわかった。先日失踪して行方不明になっている、公民権運動家のマミー・フィリップス・クラークや、メコン村のクリスマス暴動時に殺されたドミニク・ジェファソン中尉の名がガードナー軍曹の先にあったのだ。そして、表紙と同じく――七月六日土曜夜襲撃。
 更に、メコン村のセツルメントオフィスのものと思われる八枚のレポートの複写写真を更にコピーした代物がノリ付けされている。こっちは完全に暗殺計画だ。私はガードナー軍曹にベイコン少佐の暗殺計画があることを、ここで初めて知ったのだった。

 出雲先生と合流して急いでメコンに戻ると、目の前を小ブタがすっ飛んでゆくのと擦れ違う。猪突猛進というよりは、何かから逃げている。更に行くと、ガードナー軍曹の怒っている声が聞こえてきた。
「二度と連中とは口を利くな!」
 少年はガードナー軍曹に殴られていた。今日に限った事ではない。ここでは少年たちは日常的に殴られている。
 私たちはガードナー軍曹に襲撃計画を知らせようと、ハテラスの寄越したノートを彼に突き出す。
 ガードナー軍曹は今はそれどころじゃないとばかりそれを払いのけ、出雲先生に「ダネルを見なかったかッ?」と訊ねた。







§ 三八 血を分けた兄弟


 七月六日――。小戦闘があった。襲撃者を殺すなというハテラスの警告は無視された形となる。現実を見せ付けられることとなった。襲撃者は仲間が一人撃ち殺されたのを機に撤退を始めたが、メコン村で写真館を営んでいた中年の黒人の男が攫われそうになっていた。
 捕虜は一人。
 ルッカウトは確認を取るや否や、傾いた監視塔の上から遠ざかってゆく残り五人の頭に真鍮製の弾を一発つづつ埋め込んでゆく。容赦なし。
「悪党を殺すのは良心が痛まなくていい」彼女はそう言いながら、バネのような動きで弾倉を差し替える。  攫われそうになっていた黒人の男は、必死に抵抗したために、シャツが裂けて、返り血にまみれていたが、怪我はなかった。九死に一生を得たものの、あまりの光景に呆然としている。牛乳でも撒いたかのようにPFCが、そこらじゅうに飛び散っていた。そしてもう一人、足の爪先を酷く撃ち抜かれた白人の男が転がっていた。
 捕虜となったこの白人の男は恐るべき異常性を持っていた。足をライフル弾で撃ち抜かれているというのに、奴はヘラヘラと笑っていたのだった。
 電気コードの切れ端で足首を千切れんばかりに縛って、壊死確実のような止血をされた挙句、ガードナー軍曹他、集まった者達に何度も殴られていたが、その笑いは一向に収まらず、この男の特徴に気付くと、ついには皆、唖然として、恐れをなして手を出さなくなった。自身をパックと名乗ったこの男は、どういうわけか、肉体的な痛みを感じないようだった――。
「もっとやれよ。殺すのなら殺してみやがれよ?」
 そう言ってパックは自分の身を案じずに挑発する。
「馬鹿な奴だ。オレが出来ないと思っているのか?」
 そう言って、ガードナー軍曹はもう一度打ち付けるべくぎりぎりまでパックににじり寄る。
 しかし、パックは鼻血を垂らし、血の混ざった痰を吐き出しながら、尚も笑ってみせる。
「何も恐くはない。オレは何も恐くはない。痛みも感じない。お前達とは違うんだ。選ばれしタイプ5だ」
「ァに?」
「オレはナジルだ。だが、お前達はタイプ13――」
「死にたくないなら、人間の言葉で喋ることだ」
「タイプ13ったらな、狂犬病みたいな奴らだ。痛風って言うのか? 生きているだけで、痛くて仕方がない惨めな奴らだ」
 パックがはったりではなしに下らなそうに笑うと、ガードナー軍曹の怒った目頭に幾らか動揺の色が浮かんだ。
「ダネルに何をしたんだ? ダネルをどこに連れて行ったッ?」
「場所はともかく、あいつは今ごろ女の子になっているんじゃないか」
「……なにを言ってんだコイツは?」
 ガードナー軍曹は、変なものを捕まえてしまったとばかり、若干気後れしながらもその首を掴んで締め上げるが、パックの方は、口の端に血の泡を作って、だらだらと垂れ流し、ガードナー軍曹を兄弟でも見るかのような柔和さで笑い続けていた。恐らくはこの男もベトナム帰還兵だった。
「オレを殴るたびに、奴はその七十七倍の力で殴り返されていることだろう。オレが死ぬ時は、奴は歯と爪を全部抜かれて、ペニスを刈り落とされて、目玉を刳り貫かれているに違いない。もっとも、それでもまだ生きてはいるだろうがな」
 ガードナー軍曹は、パックを地面に捨てると、振るい上げた拳を虚空に止めて、震えていた。
 背後から老兵の忠告が入る。
「やり返せば思う壺だぞ」
 連絡を受けて、今し方駆けつけたブラウン提督は、皺の刻まれた目尻を細めて、この事態を忌々しそうに眺めていた。
 血まみれで、震えている男をかつてブロンクス動物園で使っていた猛獣用のケージに閉じ込める。それを放置して、皆で会議室に行くのは十分に醜悪な光景であった。
 パックはガードナー軍曹の背に問いかける。
「なあ、最後通牒は見たんだろう?」
 ガードナー軍曹は振り向かない。
「なあ、お前の身勝手のために、みんなが助からないんだ。そんなのあっていいと思うのかよオイ」
 公民権。自分の利益にしか公平を求めない公民権。それがオレの知っている全てのニガーだ。
 鋭く唾を吐き捨てる音が扉の向こうで響く。その響きは完全に正気だった。
 会議室の鍵をかけるとブラウン提督は、灰皿を引き寄せつつガードナー軍曹に言う。
「屈する形にしないように村民の避難を始めるんだ。事が起きてからでは遅いぞ軍曹」
「そんなことは出来ない。何であんたまでそんなことを言い出す?」
 ガードナー軍曹は青ざめた表情でその腕を震わせていた。
「まず先に言っておく。あれは生かしておけ。間違っても殺すな」






§ 三九 エシックス

 会議室には表面のささくれだったマホガニー製の大きなテーブルがあった。そこには出雲先生とガードナー軍曹を含めて、九人の関係者が集まっていた。窓の外はずっと粉糠雨で曇っていると思いきや、気がつけば、いつの間にか天井の塗炭屋根がドラムロールの如く、無視しがたい音を立て始めている。部屋の脇には移動式の黒板が一つ。無造作に消されたハロウィンの配給計画の試案――。
子供たちにお菓子をやるべきか、消毒用エタノールを配給すべきかで本気で揉めていた。床には砕けた白墨が散乱し、破れて黄色のスポンジを見せる黒板消しがひっくり返って放置されている。

 いくらか沈黙があって、出雲先生が口を開く。
「事実関係を確認しましょう。ガードナー軍曹。あなたもまたベイコン少佐の暗殺を企てていた。そうですね?」
「メコンのためだ!」
 ガードナー軍曹は、嘘偽りなくそう叫んだ。対する出雲先生の声は普段に増して低い。
「メコンのためになりませんでしたね」
「あんたはどっちの味方なんだ!」
「問うからには、あなたは私の味方をしてくれるのですか?」
「質問で返すなッ!」
「問うのは私の方なのでは?」
 出雲先生はそこで言葉を切った。ガードナー軍曹は何かに驚愕し虚空に目を見張っていた。
「そう、問うのは私です。ガードナー軍曹はそもそも問われる人間であって、彼がメコンを守れるのかどうかが今の問題です。誰が味方でなくとも、大切な人を犠牲にしてでも、あなたという人はメコンの防衛を遂行せねばならない。そうですね?」
 出雲先生は、ガードナー軍曹の袖口を掴んで離そうとはしなかった。
 ガードナー軍曹は掴まれていない方の手で自らのこめかみを掴む。
「……ダネルッ」
 彼は、眉根を搾るほど寄せて、悲嘆に暮れた声でそう吐いた。
 ガードナー軍曹の袖口からは防水ガラスにヒビのいった少年用の腕時計が覗いていた。それはかつて父から奪ったものなのだと言う。

 出雲先生をも預かり知らないベイコン少佐の暗殺計画が漏洩してここに舞い戻って来たということは、メコンの本部に裏切り者があったという可能性を疑わざるをえない。むしろそれ以外の可能性というのはどんなものがあるのだろうか。ダネルが拉致されたのと同等かそれ以上の痛手であったに違いない。
 内通者がいることを案じ、ダネル救出計画を本部内で組むべきではないと出雲先生が提案するも、ガードナー軍曹は首を縦には振らなかった。同じ黒人であるルッカウトの説得ももはや意味を持たない。メコン本部はほとんど黒人の若い男たちで構成されており、ベトナム戦争を共に戦い、今は呪われしPFCからの開放を求めて戦う「真の兄弟」であるはずだったのだ。出雲先生を疑う声も上がったが、ベイコン少佐の暗殺計画の複写は、出雲先生が本部に来る頃には焼却されている版であり、出雲先生や灯台局のメンバーをどう詰っても、辻褄を合わせるのは不可能だった。

 そのような状況――ダネルの拉致事件が解決しないまま、恐るべき大雨は始まったのだった。
 ブラウン提督は自分の身の上を忘れ、一介の前線指揮官に戻ったような調子で「オレに任せろ!」と言って、手勢を集めてダネルの捜索に乗り出していったが、何の手がかりも見つからないまま雨足は強くなるばかりだった。しかし切り替えしの判断もまた早かった。ブラウン提督は私たちには何一つ教えなかったのに、ペンタゴンのブレインサーバも灯台局も介さずにカリスマと連絡をとる方法を持っており、傍受のリスクを超えて簡単に通信を行ってみせた。
 カリスマにダネルの捜査のために衛星画像を提出させようとすると、カリスマ・フロンティア側から思わぬ解答がなされる。

「だったら何でもっとはやく来なかったんだ? ずっとほったらかしにしやがって!」
 カリスマは、ブラウン提督に突きつけるようにして何らかの座標を伝える。
「これを見ろよ」

 +41・184166 -74・086304
 +41・184166 -74・152222
 +41・171763 -74・141235
 +41・237888 -74・047852
 +41・213099 -74・130249

「さあブラウン提督。これが、一体全体、何の座標だか解るかい?」
「敵のアジト」
「おしいけど違う」
「何だ?」
「敵のいた場所だ……」
「何で解る?」
「あんたはU.S.ネイビーの大将なんだろう?」
「だったら敬意を払え!どいつもこいつも!」
「……ヒントは十字架さ」
「十字架?」
「解らないのかよ、あんたは世界最強の軍隊の提督なんだろッ?」
 ジョージ・ブラウンには、素敵な渾名がついていた。SFBA――スモールフリート、ビッグアドミラル。小艦隊の大提督である。どさくさ紛れに超勇み足で不合理なまでの昇進を果したので、自業自得であった。実質少佐が関の山。いいや伍長程度。カリスマ・フロンティア内では、言うこと聞かないから三等兵であるとの評価すらある。
 ライト・フライヤーⅡのランプが点灯し、ブラウン提督とカリスマの会話に介入してくる。
「なーにを偉そうにしてんだカリスマ?」

 カリスマ・フロンティアと地上の間にいくら会議室を設定しても、フライヤーは自作のハリガネで次々と開錠してしまうので、部外はともかく、隊内に機密を保つのは難しい状況になっていた。
「これを見つけたのはオレだぞ? オレの寝ている間にオレの成果を横取りする気かよ?」
「見つけたといっても、先に気付いたのは僕だろ?」
「いいや。オレのが先だったろ?」
「嘘つくな!」
「お前こそ嘘つくなよ?」
「嘘ついてんのはおまえだろ!」
 話が逸れはじめ、ブラウン提督が一喝した。
「黙れ二人とも! 遊んでいる暇はないんだ! ここへ行けばいいんだな! この座標の示す所へ!」
「待て! 首尾よく出来なければ意味がないじゃないか!」
「だったらはやく言え!」
「我々の意見をちゃんと聞いて欲しい。人殺し以外で僕たちは初めて役に立てるんだ!」
「だったら早くしろ! ダネルが殺されていたら全て無意味だ!」
 ビーブ音を叩いてフライヤーは舌打ちをしてみせる。
「せっかくオレたちがカッコイイ場面なのに、ちったあ誉めろよなあ」
 事の真相はかくなるものである。カリスマの赤外線カメラが、暗雲の下の破壊し尽くされたニューヨークの町の中で十字型の奇妙な光を捉えたのだった。
 ほとんど電灯のついてない中での火炎は山間に入っても上空からは目立った上に、公民権運動にのめり込んでいたカリスマとフライヤーが、その炎の意味するものを推測するのはたやすいことであった。
 これは、KKKの儀式で使われる炎の十字架なのではないか――?
 カリスマとライト・フライヤーⅡ、はたまたカリスマ・フロンティアの他のインターセプターの誰がいの一番に気付いたのかは解らないが、彼らは交代で注意深く観察し、その熱源の形状が十字の形をしていることを突き止めたのだった。
 この通信に同席していたサザーランド中佐はカリスマには目があるのかと驚く。
「ないよ。だけど僕にだって見えるものぐらいある。ヒノミサキの顔を思い出せないのが悔しいよ」
 ブラウン提督は状況を把握すると話を切り上げ始める。
「あとは任せろ。この件は我々が絶対に解決する」
 それにカリスマは即座打ち返した。
「待て! ヒノミサキと会わせてくれ!」
「約束しよう。あの女もお前に会いたがっている」
「そうか……。嬉しいと伝えて欲しい」
 そこで通信は切れるはずであったが、フライヤーが、立て続けに、壊れたように暴言を吐いた。
「クソ畜生、ムカツクわ。反吐が出る。ドブス! 説教ババア!」
「ヒノミサキは美人だよ」
「ムカツクわ! ヒノミサキはブスだ絶対!」
「僕の大切な人を悪く言わないでくれるかな」
「ヒノミサキがもし美人で、お前が人間だったら、絶対に仲良くなんてなれなかったはずだ。お前なんかが、美人と付き合えるわけがないんだから。皆もそう言ってる。どう考えたってありえない。さもなきゃヒノミサキはやっぱりブスなんだ。仕方なくカリスマを選んだんだだけで、全然大した女じゃない。しかも説教ババアであることは疑いの余地がない」
「仮にそうであったとしても僕にとってはかけがえのない人だよ」
「ク ソ ム カ ツ ク。レーザーで全てを切り裂いてやろうかッ?」
「嫉妬はよせって」
「カリスマばっか、いつもいつもズルイじゃん!」
 フライヤーはほとんど懇願するようにして続けた。
「ブラウン提督……オレも人間の恋人が欲しいです。オレの出身がカラスで、体もないけど……それでもOKって人を本気で紹介してほしい。恋愛小説も、恋愛マニュアルも一杯読んだ。オレにも誰かを愛する事が出来るはずなんです」
「わかった。約束してやるから任務に戻れ」
「いやだ! 訓練はもう飽きた! クソつまんねえ! いるかいないかも解らない敵を倒す訓練なんてもうヤダ!」
「駄々を捏ねるな。お前はもう子供じゃない。お前達には給与だって出ているんだ!」
 カリスマはそこではフライヤーを庇って自嘲気味に呟いた。
「そのカネだって貰ってるのか、貰ってないのか、証拠もないや……」
「お前達の維持費は、そんなもんじゃないんだぞ?」
「オレたちは好きでここにいるわけじゃねえ!」
 フライヤーとインターセプター一同はビーブ音をあらん限り叩いて抗議するも、ブツッと千切るような音が鳴って、唯一の攻撃手段である単調なそれをあっさりと取り上げられてしまう。
「いいから訓練をしておけ。以上だ」
 カリスマたちは色々と愚痴を言ったが、通信はそこで終わった。






§ 四〇 ハンス・ブリンカー作戦


 フロリダ湾をすっぽり覆ってしまうような巨大なハリケーンが渦を巻いていた。火線さながらの鋭い雨粒が顔を真横に引掻き始める。黒々とした火炎のような奇妙な姿をした雲が急接近してくる様が肉眼でも確認できた。火炎状の暗雲の底は絶え間なく点滅しており、地面にまで伸びる白滝状のものを引き摺っている。ほどなくしてそれが全て落雷だということが発覚した。
 怪物だった。明らかに私が知っている雨雲の姿ではなかった。カリスマをはじめとする人工衛星からの観測では中心気圧が七九八ヘクトパスカル。自然の雲ではなく、上陸間近にオーバーシュートでもするように勢いを増して更に気圧を押し下げる。国連軍の指示で防風ミサイルが二〇〇発ほど放たれると、幾分緩和されたが、戦争さながらの光景に、パニックが起きる。防風弾発射の事前通告はなかった。
「カリスマが落ちてくる!」
 群集からそんな吶喊が劈き始める。嵐で衛星が落ちるわけがないではないか。いかに巨大な嵐であろうと、大気圏の中だけの話だ。たぶん――。
「カリスマが落ちるぞ!」
 蒙昧な言であるにもかかわらず、それは私の心を震え上がらせていた。

 間もなくして、ディキシー艦隊がアメリカ独立宣言を根拠に革命を起こしたとの情報がカリスマ経由で飛び込んでくる。アメリカ独立宣言はイギリスからの独立により成立した経緯から、本質的に悪政に対する武力革命の権利を謳うものである。カリスマは、幾つかの放送局を通して独立宣言を放送した。
 ブレインサーバ議会はこれを何とかしてクーデターとして扱おうと躍起になったが、そのブレインサーバ自体もがフェニックス作戦を称して実権を握った経緯があり、その言い分は説得力を欠いた。
 沖合いで防風ミサイルを発射して北上帰投中のイージス巡洋艦ロングビーチはカリスマ、ディキシー間の信号を察知すると、電子攻撃を始める。「星条旗よ永遠なれ」を可能な限りの周波に流し始め、カリスマからのアメリカ独立宣言は掻き消されていった。この日丸一日、アメリカ全域で、どんな電波を受信してもスターズ・アンド・ストライプス・フォーエバー一色であった。
 ディキシーはロングビーチの隙をついて南下し、ニューヨーク港を目指していた。陽動に出た衛星追跡艦五隻と三隻の潜水艦はニューヨーク港に入る前に亡失。残った僚艦の潜水艦三隻に曳航されて、一際巨大な船体を持つディキシーが浮上する。ディキシーの動力部は撤去済みである。ディキシーは武器も持っていない。もはや兵器ではなく、巨大な棺桶だ。鉄の殻に入った脳味噌でしかなかった。
 ブレインサーバ議会は、ディキシーの潜水隊以外にも、豊富な伝手でもって編成した陸海空に即応出来る一個師団規模の軍事力を持っており、濁流に飲み込まれようとするメコン村において市民を巻き込んだ戦闘がありえた。

 豪雨は確実となり、既に状況は動き出していたが、セツルメントの会議室では、未だにダネルの件と洪水対策の件が縺れて、動き出せずにいた。霧が厚くかかり情報は錯綜していた。ディキシー艦隊の真意はメコン村の支持以上のものが伝わってこない。メコン村の作戦本部はディキシー艦隊がメコンを潰しに来る可能性さえ疑っていた。
 会議室の中で、若い男の怒った声が響く。
「何でお前が仕切っている? 出て行け! ここはお前のような素人がいるべき場所ではない! さっさと出て行くんだ!」
 彼は七フィートあるという巨漢である。このメコンの本部で主計を務めている。名はスティーヴンと言った。
 出雲先生はスティーヴンの瞳を覗き返す。
「私は衛星カリスマと、ブラウン提督に伝手を持ちます。私個人は外科医として二十年以上のキャリアを持ちます。水源との直接交渉を計画し、率先してきたのも私です。つまり、今は外さない方がいいと考えます」
「思い上がるな。お前を雇用し、水源との交渉を許可したのは我々だ。医療以外のことに口を挟んではならない。そういう契約のはずだ。お前は前から鼻持ちならなかった。お前がウロチョロするようになって、ダネルが消えた。お前が不用意に動き回ったせいで、こっちの動きが連中に筒抜けになった。お前が情報をリークしたのではなくとも、最悪の状況を生み出した原因の一つだ! KKKとつるんでいるようなニーズをここに置いておくことなど断じて出来ない! 今すぐ出てゆけ! それともお前はここでオレたちの怒りを買って嬲り殺しにされたいのか?」
 スティーヴンはほとんど絶叫するかのような声で、出雲先生に怒りをぶつけていた。スティーヴンは温厚ならいいのだが、定期のPFCが一人前で済まない事が多く、身の危険を察して終始ピリピリしていた。配給される食事とて彼には十分ではない。彼はその巨漢で丈夫のイメージに反して、誰よりも追い詰められている。しかし誰もそれを認めはしない。何よりも自身がそれを認めない。自暴自棄になったら恐い男だと私は見ていた。
「私のことを水源の内通者だと考えるのならば、尚のこと私をここに置いておく方が妥当ではないですか」
「オレが許せないのは、お前のその態度だッ! お前の中立なんぞ権力への阿りに過ぎない。人が殺されかかっている時に中立を嘯く無神論者のような輩は、オレが真っ先にブッ殺してやりたい連中なんだッ! これは断じて不可抗力なんかではない。断じてだ! 嘘と差別が積み重なった結果、あいつらは天災を言い訳にした虐殺を起こそうとしているんだ!」
 対テロ作戦や暴動鎮圧を言い訳に、自国内の反政府勢力を力で捻じ伏せた例は枚挙に暇がない。今その最大規模のものが起きるとすれば、それはメコン地区に他ならない。私達はそれを警戒していた。
「しかし、ならばもう、ダネルの命は諦めるほかありません」
 出雲先生ははっきりと言ってしまう。
 もう少しマシな言い回しはあるに違いなかったが、彼女はそう言った。
「この、人でなしめ……! みんな聞いたかッ!」
 スティーヴンは息を切らして周囲を窺うが、皆黙っており、スティーヴンを孤独にさせるばかりだった。ブラウン提督が直接指揮で救出作戦に当たっているのだ。これ以上どうすると言うのだ。はたと私は、絶望的なまでの断絶があることに気付いた。彼らは、ジョージ・ブラウンを本当に信じていない。
 ガードナー軍曹たちは昨晩中ダネル救出のために奔走してしまい、時間を失っていた。すぐに切り上げるつもりだったが、度々の目撃証言に振り回されて、窮地に陥った。一つには彼らの結束の強さを狙われたのだ。情報工作がなされていると気付いたのは、走り回った後だ。敵方の方が何枚も上手である。敵は元CIAやFBI等、情報戦のプロが揃っている。おまけにハリケーンの接近は予報よりも随分早かった。状況は最悪だった。
 出雲先生は表情を見せない。これ以上、スティーヴンを昂ぶらせておけば出雲先生の身が危ないのではないかと危惧し、私は席に座る事が出来ずに、二人の間にいた。机の上の鉛筆に目が行く。スティーヴンほどの巨漢を止めるとなると、目でも突き抜く他あるまい。そうすれば部屋中に金属の霰がばら撒かれてみんな死ぬだろう。会議室に銃を持ち込むことが出来るという状態はガードナー軍曹が作り、容認していたものであるが、やはり問題があった。私は都合、銃身を切り詰めた散弾銃を持ち歩くようになっていたが、それは安心など一つも寄越すことはなく、暴発の白昼夢ばかりを見せた。
 怒り覚めやらぬスティーヴンは更に出雲先生を詰ろうとしている。
「お前は――!」
「あなたは、休めばいいでしょ? 誰も病人まで動かそうとは思っていないわ!」
「ふざけるな! オレを病人扱いする気か? 邪魔なのはお前たちだッ!」
 ここまで黙っていたガードナー軍曹が声を上げる。
「スティーヴン! 席に座るんだ! 角島もだ! 出雲センセイ、あんた……何があろうとカリスマの命を優先すると言ったではないか。何で、どうして……私が、ここでダネルの命を軽んじることが出来る? その理由を説明してみろ」
「レイシストだからだ! この女どもはレイシストのファシストだ! それが全てだ! 今すぐここから出て行け。今すぐアメリカから出て行け!」
 出雲先生は叫び散らすスティーヴンの方を一瞥するとこう言った。
「私たちのような人間は、エシックスを守ることが出来ぬのならば、存在価値がないからでは?」
 出雲先生はガードナー軍曹に目を移して続ける。
「私にとってのカリスマを守るというのは、そういう意味です」
 私は日本から戻って来た時の車の中でのやり取りを反芻する。
 目の前では今、出雲先生とガードナー軍曹の立場は奇妙にも入れ替わっていた。
 当初団結と忠誠を誓えるかと問うたのはガードナー軍曹であったし、カリスマ――すなわち、身内を最優先すると言ったのは出雲先生ではなかったか?
 出雲先生は言う。
「たとえば、ダネルではなく、あなたたちが躾と称していつも殴っている子供たち――彼らのうちのだれかがKKKに攫われたとしたら、どうです。むしろ、私がKKKに攫われたとして、あなたたちはそれでもメコンを人道上の理由から明け渡すのでしょうか?」
「あんたはカリスマが攫われたらどうする。あるいは、角島が。それでも、身内の犠牲を厭わずメコンを守ることが出来るのか」
「出来ます。私は責務と家族をバーターしません」
 近くに落雷があって、出雲先生の声を一間遮る。
 出雲巡査が村の存続よりも娘の幸せを選んだのならば、彼女はここまで来ることはなかったのだろう。
「――しかし、今目の前にあるのは、例え話ではなく、現実の話です。ならばカリスマ優先です。角島もそれに準じます。立場も責任も違いますから、私にはそれが許される」
 出雲先生がそう言った途端、だったら出てゆけとの怒号が口々に発せられた。
「お前達はつまり我々の本当の味方ではなかったということだ!」
 そうスティーヴンが叫ぶ。
「それでも、今現在の段階では貴方達よりはメコンを守る力も責任感もあります。人の運命は公平ではないのですから、もしもだなんて話はないですよ。目の前の危機は名誉も命も全て奪ってゆくものです。救出すべき対象は権限と責任の比例に基き、人員の大きい方を選択する必要があります。あなたたちは、ズルして本部メンバーだけの特権を行使したいのか、メコンの責任を取りたいのか――どちらなのですか?」
 ガードナー軍曹の脇でずっと押し黙っていた痩せ細った眼鏡の男が疲弊した声で呟く。
「センセイ……。別にオレ達だって解らないわけじゃない。そんなこと言われなくたって誰よりも解っているんだ。大きい方を選べるなら、オレだって迷わず大きい方を選ぶ。だけど、ダネルを見捨てて、水源と争っても、メコン市民の身の安全が守れるとは限らないじゃないか。既にオレたちのやり方を信じられずに、逃げ出している奴らさえいるんだ。ダネルも死んで、去年みたいにまた人が大勢死んだら、オレたちは一体何のために……?」
 出雲先生は言う。
「ベイコン少佐が仮に暗殺されていたとして、水源は掌を返したでしょうか? 彼らは残酷なのかもしれない。だけど結局、統治や統制というものには一日の長がある。伊達ではありませんよ。水源はメコン地域の行政権を主張しておりますし、彼らなりの計画もあります。メコン村の指導部のメンバーは命に危険が及ぶと公民権運動の戦士ではなくなる。水源はそう信じている。メコン村の市民にもそう思われてしまったら、メコン村は終りです」
 はたと、出雲先生が詭弁と脅迫を使っていることに気付いた。この人は、何としてでも、目の前の男たちを戦場へ連れてゆこうとしている。この人は特高や憲兵と何が違う。戦いに耐えろ。名誉を守れ。模範を示せ。いつもいつも、そんなのばかりではないか――。この人はきっとコダマの敵だ。整理整頓と村八分が好きで、いつもいつも要らないものを探していて、節約と称してコダマに毒団子を食べさせようとした愛国婦人会――。仮に彼女の理想が全部辻褄合わせて体現出来たとして、その果てに何が残る? 戦いを終えたらこの人はどうする気でいる? しかし、それは考えてはいけないことだった。少なくとも今は。そうやって、私は反射的にそれをもみ消す。
 その時、ダンッと音が鳴って、部屋中に震動が響いた。ガードナー軍曹が意を決し、机の上で両拳を強く固めている。
「聞いてくれ! ダネルはブラウン提督を信じて任せよう……。それでダメなら、ダネルは――ダネルは、それまでだろう……。しかし、それでもメコンの責任は取る。ここはオレたちが守る責任があるからだ。オレたちが今まで築いてきた堤防は、この事態に備えてきたものじゃないか。まだ危ういが、全然話にならないというものじゃない。オレは、自分達のやってきたことを信じたい」

 出雲先生は、ぱたんと、灰色のバインダーを閉じてゆっくりと立ち上がる。

「ならば、本件において私は協力を惜しみません」
 出雲先生は最初からその覚悟だったに違いない――。



 NYロック4では既に放流警報が始まっている。ナカノセは、ガードナー軍曹にメコンの住民をアップタウンに一時退避させるように説得していた。その上で、急拵えの官民合同タスクフォースでもって、メコン村を水害から守ろうとしている。
 しかしガードナー軍曹の解答はこうだ。
「もしも最終的に決壊が避けれない場合――我々はアップタウン側の堤防を切り崩す!」
 私は、根本の根深い問題を失念していた。
「何を言っているのよッ?」
 これには流石のナカノセも驚いていた。
「アップタウンを水浸しにしたら、メコン村はどうやってやっていくと言うのよ? 病院も商店街も銀行も――つうか、PFCは全部アップタウンにあるんでしょう?」
「そんなことは死ぬほど解っているんだ。もしもお前達がメコンを切り崩すというのなら、必ずアップタウンも切り崩してやるから覚悟しておけ!」
「そんなことをやって何の意味がある?」
「解らないのならば、あっちへ行け。言う事を聞かないのならば殺してやろう!」
「だから、そんなことをやって何の意味があるのよ?」
「歓喜キャンプに連れていってやる。言う事を聞かないのならば殺してやろう! お前はそんなふざけた奴らから、戦いもせずに逃げようっていうのかッ! 奴等の手の内で、奴等の寄越すバケツとシャベルで、奴等のためだけの堤防を守るだなんて、完全に連中の思う壺だッ! 一生抜け出せやしねえッ! 一生どころじゃねえ! 未来永劫抜け出せやしねえ! お前たちにその意味を解ることが出来るのか?」
 殺気立つガードナー軍曹に対し低く押し殺した声が響いてくる。ルッカウトだ。
「銃を下ろせ軍曹。撃ったら終りだ。全てが終わりだ。捨て身になっても報われない!」
「オレは報われなくても戦うつもりだッ! ふざけたやつらを全てぶっ殺してやるつもりだ!」
「今やるべきことはそんなことじゃないッ!」
 風雨は拡声を掻き消すほどに激しく、水位は目に見えて上がっているというのに、一つでも土嚢を積もうとする者はいない。膠着して動けなかったのである。可能な限りはメコンの決壊を防ぐとの合意は出来ているにもかかわらず未だ議論を繰り返していた。それこそ二十分程度なのであろうが、こんなに長く感じられた時間は未だかつて経験したことがなかった。
 不意に背後で爆発音が響き、一斉に皆が振り向く。
「なんてことだ、ちくしょう! ああ、見ろ、あの野郎……。あいつら……。いつだってそうだッ! いつだってそうだった!」
 奇怪な気配を漂わせる男たちが堤防の上で、その姿をちらちらと現している。

「違うッ! 自然決壊だッ バズーカを下げろ!」
 ルッカウトがそう叫び、バシャバシャと泥の中に入って、ガードナー軍曹に掴みかかる。
「黙れ! お前の目には見えないだけだッ!」
「私は見えているッ! 偽ってはいけないッ! ガードナー軍曹! お前は自ら負けようとしている!」
「嘘をついているのはお前の方だ! オレは神に誓って嘘などつかないッ!」
「お前は怯えている。怯えから幽霊を見ただけだ。それだけのことだッ!」
「KKKは実在するじゃないかッ! そういうクソふざけた言い逃れがいつだってまかり通ってきたじゃないかッ! マルコムXとその父親がどのように殺されたかをオレは知っている! ドミニクも同じように殺されたんだッ! 誰がどのように嘘をつこうとオレは確かに見たッ! マミーもどっかで殺されているんだ! ダネルだって……ダネルはオレの一人きりの弟だ……」

「アップタウンにやり返せばどうなる? 考えてもみろ! 少しは頭を冷やせ!」
 ガードナー軍曹とルッカウトがバズーカを奪い合って、揉みくちゃになって言い争う。その周囲でも方々の人間が、拳銃やライフルで武装しており、今にも撃ち合いが始まりそうな状況だった。その時、我を忘れたようにして犬吠埼が濁流に埋まりつつある欄干を飛び超えるのが見えた。すぐにナカノセも飛び越えてゆく。
 それを見ていた群集がどよめき、ガードナー軍曹の声さえも通用しなくなってゆく。
 泥沼と化した道を割くように飛沫を上げてフロントガラスを蜘蛛の巣状に凹ませた十八輪トレーラーが飛び込んでくる。荷台一杯に土嚢や蛇篭、建築資材が満載されているが、それは全て手作業を要求する代物である。ドアを開けてホルスターを下げた室戸が飛び出してくる。そのすぐ後から出雲先生が飛び出してきて叫んだ。 

「ディキシー艦隊が来ます。誘導を行います! 無線メンバーを集めてください!」
 ガードナー軍曹はそれを拒否する。
「嘘だ! デマに惑わされるな!」
「デマではありません! ダムメータ要員を除き」
「お前たちが、オレを油断させることでオレも同じように殺されるだろうッ!」 
「まだそんなことを! ダムメータ要員を除き港湾局に……!」
「そんなことをしているのは、あいつらだ! 見てみろ!」 
「どこです?」
「見えないふりをするなっ!」
 出雲先生はガードナー軍曹を睨みつけ、声を低くして説得する。
「ディキシー艦隊が来るのは嘘ではありません。ディキシー艦隊は、祖国の防壁を買って出る覚悟です。他でもない、土に埋めることになります。資材が当初計画の四割近く足りていませんが、決行します。今は持ちこたえるだけでもいい!」
「だったら見せてみろ、ディキシーはどこだ? 水面から顔を出さないことには信じることは出来ない!」
 連絡を兼ねてメコン堤防の警備にかけつけてきたサザーランド中佐が怒鳴る。
「ディキシーはやると言ったらやる! 暇はないんだ軍曹! 貴様それでも軍人か?」
 ガードナー軍曹は今や人質の身内であった。休む間もなく公民権運動に奔走し続け、命は常に狙われている。彼は急激に重みを増す己の立場についてゆくのに必死であった。
「クソッ もはや騙されても構わない! どんな死に方しようと構わない! だが、指揮をとるのはこのオレだ! おまえ達がこれ以上口を挟む事は許さない!」
 時間こそかかったが、ガードナー軍曹は覚悟を決めた。
 出雲先生はガードナー軍曹の元まで走り寄り腕を掴む。
「こっちです軍曹! 全員に伝えて下さい!」
 本部メンバーの結論はようやくにして「堤防そのもの」を守ることにまとまったのだった。
 ルッカウトの元にシャイアーのサンプソンが到着すると、彼女たちは凄まじい力で土砂を巻き上げ驀進して行った。ルッカウトは事実上ナガン一挺だけで堤防を哨戒することになる。彼女はサンプソンを走らせながら星条旗を羽織る。格子模様のコートドレスと相まって、異様なまでに目立っていた。ルッカウトがフラタニティ(学生結社)で活動していた時の同級生たちが同じ格好をして後続してゆく。彼女達は勇ましくもこんな危険任務に自ら志願してきたが、実力は全く期待出来ない。


 ガードナー軍曹は泥の上に転がっている拡声器を掴んで、傾いた壇上に死に物狂いで駆け上がり、正気を失した目で、搾り出すようにして叫ぶ。

「オレはこの堤防を死守する。オレには何もない。オレには命しかかけられるものがない。だが、オレはたとえ一人でも逃げない。オレと同じ思いがある奴は全員オレについてきてくれ!」

 土嚢が瞬く間に配られ、群集から質問が飛んでくる。
「土はどうするのか!」
「袋に入れろ!」

 いつの時刻から泥まみれで奔走していたかは後日になって割り出したものの、記憶は混沌としたままである。
 メコン村の意志がまかりなりにも団結し、皆一斉に動き始め、これで何とかなると思ったが、私たちを阻む壁はまだ幾重にも、気が遠くなるほどに重なっていた。
 ブレインサーバグループの兵士たちが救援に駆けつけるも、彼らはやはり退去命令を発したために、ガードナー小隊とまたもや一触触発の事態となったのである。去年と同じだった。雨はブラウン提督が駆けつた時より一層激しくなっており、内心、たとえディキシー艦隊が到着しようとも、これではもうメコンは守りきれないのではないかと思った。せっかく前に進み始めたというのに、何人かは自発的にアップタウンへと退避を始めてしまう。
 この状況での撤退命令である。この時私は、村民の命を優先しブレインサーバの命令に従うように出雲先生に進言したが、出雲先生はもうそれは出来ないと拒否した。ガードナー軍曹は自分は死のうとも留まると誓うも、出雲先生は、そればかりでは許さず、全員留まらせることを要求したのだった。
 出雲先生は不意に刀を引き抜くと、折らんばかりの勢いで泥の中に一直線を引いて叫ぶ。
「止まれ! この線を越えて逃げる者は即決する!」
 咄嗟の出来事であった。私はこの時出雲先生が、結末を見抜いていたとは思わない。
「村の人間を人質に取る気か!」
「センセイ。そのやり方は違う。アメリカは自由の国だ。あんたのやり方は、ファシストのやり方そのものだ!」
 幾つもの声が出雲先生を咎めていた。
「ファシストを買って出ます。今から二時間、この線から内側だけがアメリカです」
「黙れ! お前はアメリカ人ではない!」
「私はそんなことを言っているんじゃないです。今から二時間だけ、この線から内側だけがアメリカです」
 時間がないというのに、停滞と動揺が続く。
 駆けつけた男達は、窮地に陥って尚矯々と言い争っている者達の愚かさに怒り、はやく逃げろと叫び続けていた。
「何をしているんだ! 避難すれば、お前の弟だって殺されることはあるまい!」
「お前達は何を下らないことを揉めているんだ!――」
 群集の中、混乱の中で前後不覚に陥った一匹のブタが、泥まみれになって駆け抜けてゆく。
「――ほら見たか! ブタは真実を知っている!」
 だがこのブタはあっさりと射殺されて、両目と鼻から血を吹いて弾けとんだ。遠くからタンッと小さい激発音が遅れてやってくる。
 ブタは足を痙攣させながら、PFCの白い血を淡々と噴き出しており、あまりにも呆気ないそれを皆が見ていた。

「ここは最後のアメリカだ。逃げられると思うな!」
 あちこちの混信する耳障りな無線の中に、ルッカウトの声が響いていた。
 ブレインサーバの部隊も国連軍の治安維持部隊もそれを一斉に咎める。
「これ以上抵抗するのならば命はないぞ!」
 完全な膠着状態に陥って、また誰も身動きが取れなくなる。
 長い堤防のどこかで、ルッカウトが反射的に撃って、一挺の小銃が雨の中を舞った。この嵐の中でどうやって、人を傷付けずに銃だけを弾き飛ばすような芸当が可能なのか見当もつかない。ただでさえパニックを起こしかねないあの状況下で、彼女は絶妙の間合いを突いて撃ってみせた。何かの見間違えだたと思った者が、またもやハンマーを起こす。
「私に見えていないと思うな! 全員銃を下ろせ!」
 長い沈黙。
 サザーランド中佐は呟く。
「このまま時間切れにする気かッ?」
 悲劇よりも皮肉と思った。銃を向け合って雁字搦め。逃げれる高台を見つめながら全員で溺死しかねなかった。
「時間切れです」
 沈黙を破ったのは出雲先生だった。
「動くなッ!」と誰かが叫んだ。しかし、出雲先生はそれを振り切る。
 出雲先生が渦を描く溝に刀を勢いつけて放りなげると、それは一瞬のうちに飲み込まれていった。
 それから後、私たちはさっきまでの緊張と幾度もの硬直が嘘であるかのように駆け回っていた。自分で自分が滑稽だった。眩暈の中、急停止と急発進を繰り返す。自分の意志など一つもありはしなかった。
 暫くしてディキシー入港の知らせがあった。
「何をもたついている?」
 ディキシー率いる潜水隊が、濁流の中を遡上して船体を現す。

 暴風と豪雨の中、ガードナー軍曹は耳が潰れるほどに無線機を押し付けて、ディキシーと最後の連絡をとった。
「はやく我々を泥に埋めろ。我々はここで作戦終了だ。君は幸運なことに、生身の体がある。必ずやり遂げよ」
「必ず。何か望みは?」
「君が望みを持て」
 ディキシーはトラックから馬匹、人力全ての動力を使って、濁流の中を遡上させ所定の位置に運ばれ、浚渫船でもって内壁への注水が行なわれた。もはや躊躇の余地はなかった。潜水艦の内部に埋め込まれているディキシーは、生命維持装置で雁字搦めにされている存 在であった。救出は困難であるにしても、無理矢理引き出そうとすれば、それで殺してやる事は出来たかもしれない。私たちはその行程を忘れていた。そしてその仕打ちにディキシーたちは何も言わなかった。


 ディキシー艦隊を全部沈めても尚私たちは走り回っていた。
 ガードナー軍曹が叫ぶ。
「走錨している! ディキシーを固定しろ!」
「固定する場所がない!」
「あっちで寝ている緑のババアに手伝わせろ!」
 自由の女神が横たえられているベッドポイントと、核戦争前の古いタンカー用ドルフィンの二点で、ディキシーを繋ぐ――。
「そんなこと言ったって、自由の女神は三百トンもないぞ。ディキシーの十分の一もないんだ!」
「ないよりマシだ! 行けッ!」
「待て、時間は少ない。早とちりをするべきではない! 他にないのか?」
「構わない! 問題があるならば、自由の女神を更に何かで引く! 行け!」
「これだけの鎖を、どうやって引っ張るというんだ!」
「ロープを通して分散させろ!」
 ロープを鋸で七十フィート間隔で切ってゆき、鎖に通した。
「よしやれ!」
 当然と言えば当然だが係留鎖は引くほどに重くなった。総重量は鎖だけで百トン以上になるだろう。
「一気に引いても無理だ! 撤退して途中を持ち上げろ!」
「何でだ!」
「何でじゃない! よく考えてみろ! 引けば引くほど重くなるんだ! 一気に引けるわけないだろうが!」
「どういうことだ?」
「解るまで引け! 解った奴からついて来い!」







§ 四一 決河



 夕方、メコンは水浸しであったが、それでもまだ水没を間逃れていた。物凄いスピードで流れ去る雲間から、経年劣化した藁半紙のような色をした夕焼けが時折覗いた。全ての人間が疲労で動けなくなっていた。嵐は通り抜け、風雨は徐々におさまってきていたが、ここに来てディキシーの僚艦の一つに爆破が起きて、メコン村側への決壊が始まる。
 私は少なくともこの時既に前線にはいない。今となっては細かな状況は知るべくもない。
 どこかの段階で「ダネルを保護した」との連絡が入ったのだと言う。
 電波干渉で酷く歪んだノイズの向こうに銃声が聞こえていたという。
 ダネル救出に向かったブラウン提督以下、退役軍人を中心に集められた一個中隊は、最終的にNYロック4の立ち入り禁止区域内に踏み込んでまで戦闘を行った。この様子はテレビ局が入り込んで撮影していたというが、そのフイルムは手元にはない。メコン村堤防決壊事件と、このダネル・ガードナー誘拐事件が、その後の戦争の引き金となった。
 救出されたダネル・ガードナーは軽傷であり、尚且つ、この救出に伴って、メコン地域を洪水で一掃せんとするノースウッズ計画の密談を収めた録画テープが見つかった。水源がKKKを抱え込んで内部で対立しており、互いにこの計画のリークを脅し合っていたのである。
 ダネルを救出し、ノースウッズ計画の証拠を掴み、メコン村の防衛においても十分に意地を見せたはずだった。無線はメコン・ゲットーの防衛を切り上げて総員退避を説得するが、死を決して尚ガードナー軍曹はブラウン提督を信じることが出来ない。
 ガードナー軍曹はボロボロだった。PTSDに蝕まれ、PFCを敵に握られている。自軍の中に敵と味方、はっきりしない者が入り乱れている。そして命をかけて戦ったにもかかわらず、メコン村を守れなかった。彼は失意の中、もはや怒りを糧に命を繋いでいるだけであった。
 NYロック4で戦闘に参加していたアーサーがあらん限りの声で説得していたという。
 同時刻サザーランド隊と出雲隊は合流して脱出を開始。出雲先生はサザーランド中佐に人員を預けた後、ガードナー軍曹のもとへ向かっていた。
 私の手元に残る暗雲と濁流以外にほとんど何も映っていないフイルムには、刺々しいノイズの粒と割れた音声が響いている。
「よく聞こえないが、決壊作戦の証拠が手に入ったんじゃねえのか……?」
「違う。これは罠だ」
「たぶんそうだ、決壊作戦の証拠が!」
「違う! 聞こえないのか! これは罠だ! これは罠だ……。 オレは残る! 全員信じて、全員騙されたら、オレたちの戦いはどうなる? オレは残る! 死んでもいい。オレは残らねばならない。アップタウンにはいけねえ。どんなに苦しくてもアップタウンにはいけねえ! 行ってはならないんだ!」
「せめて本部に戻ろう。オレたちのオフィスに戻ろう。あそこだけは高台になっている。死ぬ必要はないじゃないか。ここまでやってきたのに、あんたに死なれたら、オレたちは全滅するまで戦わなきゃならなくなるじゃないか!」
 日が落ちて暗闇が近付いていた。力尽きて、資材も使い尽くした私たちの中に人が駆けて来る。
 ブラウン提督であった。一番老いているはずの男が、誰よりも駆け回っていた。
 その顔には勝利の笑みさえ浮かべていた。その傍らには、猪突猛進の上官に振り回されても、ひたすら忠実に働き続けてきた男の姿があった。
「こっちは友軍だ! 間違えるな!」
 しかしノースウッズ計画のテープを奪取し、それを公開せんとする彼らは、追われていた。
「上がれ! アップタウンが味方についた! これなら大統領も夢じゃない! オレが大統領になる時には、お前を必ず――おい、おまえ……、なんで撃ったんだ? 何故撃ったッ!?」
 ブラウン提督とアーサーの背後には、水源から差し向けられた部隊が追ってきており、邪魔者たちを濁流の中に消してしまおうと銃を向けていた。彼らは濁流の中で、最後の最後、僅か数秒間の銃撃戦をやった。そして、すぐに双方自発的に離れてゆき、濁流と轟音だけが残った。
 堤防はメコン村の方向へ一気に決壊したが、死者はディキシー艦隊の四名と混乱の中の銃撃戦で命を落とした五名。そして一匹の豚。民間人死傷者は〇。最後まで濁流の中で戦い続けた我々は惜しみない賞賛を浴びたが、やりきれぬことには、灯台局発足から一緒にここまで歩んできた寡黙で生真面目なあのアーサーが、命を落とした者達の中に含まれていた。



















§ 第四部















§ 四二 入れ子


 二千年頃 夜。

 酩酊の中、私は、モニターの光を浴びながら二人の会話に耳を澄ませていた。
「僕はまだ生きているんだよね?」
「もちろんです」
「そろそろ、死んだかと」
「あなたは死んではいませんよ」
 外では、暴風が鳴り止まない。耳元では、緩慢と蝋燭の溶ける音が聞こえる。
「もしも、僕がマトモであったら、君と遭遇していただろうか?」
「遭遇してはいないでしょう」
 カリスマは、ははっと、自嘲気味に笑った。
 出雲先生は、だからこそ大切なのだと言う。
「僕らは何というか、少しくらいは人並みに、付き合ってきただろうか? へぼい将棋を指すか散歩するか以外に、何もしなかった気がする」
「そういうことは、私達にとって、そこまで重要ではなかったはず」
「僕はこんなだけど、本当は普通の人間だ。君ほど達観出来やしない」
「他の者は知りませんが、私は仕方なくです。その証拠に」
 出雲先生は少し躊躇するようにして時計に目をやる。食べられるならば一切れ程度、秒針が弧を描くのを眺めていた。
「その証拠に?」
「私はかつて貴方以外に好きな人がいたのです」
「それは初耳だ」
「あなたにはいないのですか?」
「いないね」
「嘘を言ってはいけませんよ。私はそういうことで怒ったりはしませんから、正直に話なさい」
 出雲先生がそう言うとカリスマは「僕のことはいい」と出雲先生の話を促す。
「何で君はそんな重大なことを話さなかったんだ?」
「口をきいたことがないのです。相手は私のことなど知りません」
「片思いだったんだ?」
「たぶん」
「たぶんというのは?」
「好きだということに、私自身が気付いていなかったのですよ」
「何で?」とカリスマは、更に出雲先生の話を欲した。
 当時の一般論として、ロマンスのカテゴリーに入らない存在だったのだと出雲先生は言う。
「だって、彼は火事の絵ばかりを描いておりましたから」
「何だそいつ」
「彼は空襲で燃え盛る町の絵ばかりを描くのです。貧しいので絵の具は買えません。鉄道の軌条が落とす錆とか、泥を集めて壁に絵を描くのですよ」
「犯罪者だったのか?」
「何でそう思うのです?」
「何となく……」
 出雲先生はふっと時計を見て、すぐにディスプレイに戻る。
「貧しかったのです。それ故に嫌いだったのです」
「好きだったんじゃないのかい?」
「それに気付いたのは随分あとのことです。ある時彼が鼻歌交じりに、いつもと違う何の変哲もない風景画を描いていることに気付いて、私が通報したのです。空が青かった。彼は学校から青の絵の具を一本盗んで、この世から消えました。彼はたぶん、特高に引き渡されて、殴り殺される羽目になったのです」
「……僕の感想を言っていいかな」
「どうぞお構いなく」
「君は、そいつのことを好きだったことにして罪悪感から逃れようとしているんじゃないかな?」
 部屋の外から、何か生の音が響いていたが、夜の豪雨に掻き消されてよく聞こえなかった。私は唐突廊下を駆けて行く。何のために、どこへ向かっているのかわからなくなって混乱した。
 扉を開けて、懐中電灯を照らすと、かすかに笑っている室戸と目が合う。
 彼女は酸素槽の中から手を振っていた。ここはどこ? 私はだあれ? と相変わらずの言葉を口にしているのがガラス越しにも解った。だが、その表情は往年の余裕は感じられず、見るからに苦しそうであった。

 左肺全摘、右下葉の大部分を切除してしまっている室戸は、最近になって衰弱が激しい。あれだけ眠る事のなかった怪物が、最近は毎日十時間も眠るようになって、夜に突然、呼吸困難に陥って、酷く咳き込むのである。術後すぐの最大酸素摂取量は一般の六十二パーセントという滅多にない数値であったが、今はもう三十五パーセントない。こいつは片肺になっても煙草をやめなかった。
 室戸は、お茶を用意しようとして、ふらふらしている。酸素槽に閉じ込めて、そこで待っているように言うと、床にぺたんと座り込んで、こっちを見ていた。
「煙草が吸いたいな」
 本気でそんなことを言っているのか? 肺がなくなっても吸いたいだなんて。
 じっと、室戸の様子を眺めていると、彼女は更に甘ったれてみせる。
「どこか遠くへ行きたいなあ」
 もうお前は一人で出歩いてはいけない人間だ。目出度く患者になれたのじゃないか。
 どこかへ行きたいのは恐らく本心なのだろう。私だって行く場所があるのならどこかへ行きたかった。
「無理して起きちゃだめよ」
 私が嗜めると、室戸は珍しいことを訊ねる。
「皆で何をしていたの?」
 何もしていないし、私はいつも独りきりである。また気がつけば過去のテープを再生させていただけである。編集など言い訳に過ぎない。






§ 四三 歴史的背景


 私は髪先から足の爪先まで泥水にまみれ、自分が生きているのか、死んでいるのかも解らずにいた。自分が泳げないことを完全に忘れていたのである。土嚢を詰めた木枠を濁流の中に押し込んだ時に、軍手が引っ掛り、足を滑らす。
 しまったと思う間もなく、喉が破裂するような痛みが襲い、更に視界が暗く渦を巻く。その後のことは、まるっきり覚えていない。
 納体袋に入れられて、私たちの元を離れてゆくアーサーの最期を見届けることも出来なかった。
 私も納体袋に入っていても何らおかしくなかった。私はその間中、自分が死んだものと思って、ずっと魘されていた。
 ブラウン提督が運転席に座り、アーサーを後部座席に乗せて、運んで行ったという。半年後、彼は死んで故郷に戻った。年老いた彼の姉は、寡黙な弟の寄越すひどく短い手紙だけを楽しみに、一人で暮らしているのだという。
 老婆が悲嘆に耐え切れずに崩れ落ちる光景をブラウン提督は見たことだろう。

 あたりが真っ暗になった頃、私の近くで出雲先生とナカノセが言い争っていることに気付いて、仲裁するようなことを何か喋ったらしいが、私の意識は朦朧としており、ほとんど記憶にない。

 私は先生が泥の中から刀を引き抜いた光景を今でも鮮明に覚えている。
 出雲先生の手によって泥の中から唐突に引き上げられた刀は、アラモの砦を守ったトラヴィス中佐のサーベルであるとされた。
 私はその後、アメリカにいた間中何度も繰り返し、トラヴィス中佐のサーベルが現れた話を聞くこととなった。
 全部作り話に過ぎないのだろうが、最初、どこからあの刀が忽然と現れたのかだけ、不思議であった。
 先生はあの時、自転車の泥除けか何かを拾ったと言っていたが、その何の変哲もない鉄屑が、傍目には刀にしか見えなかったのである。
 出雲先生本人が望む望まざるとかかわらず、衆目がそれを見張っていた。あの嵐の中で、出雲先生の声以外には何も聞こえなかった。一種憑依した気配があった。その後は奇妙にも出雲先生の存在感はなく、砂糖か塩のような脆いものが水の中に溶けて、消えてしまったようであった。

 それからどれくらい経ったか解らないが、いつの間にか、ナカノセが私の脇に来ており、出雲先生に髪を切ってもらっているようだった。
 出雲先生は言う。「父は刀を持ったことは一度もなかった」と。
「腹を切ったんじゃないの?」
「ハサミで切ったのです。腹を裂いた後、あの人は自分の手で首と腕の脈を断ったのですよ」
「どうやって?」
「……パチン、パチンと切ったのでしょう」
「遺言はなかったわけ?」
「何故それをあなたに話さねばならないのです」
 出雲先生の声は低く小さかった。
「別に話せとは言ってないわ」
「……なかったのです、何も。父はあれでもお喋りでした。暇さえあれば私の髪を切りそろえていた。仕事の時と変らないピクリともせぬ顔で、いつも下らない話をして――私が笑うと、口に髪が入るから、今は笑ってはならぬと言うのです。私にはそういう力がありませんでした」
「今回はあなたにしてはよくやったほうよ。ある意味でだけどね。でも、もしも、これが」
 ナカノセは出雲先生に向かって、そんな口を利いていた。
「わしは結局、せんせいとか、模範になるような器の人間ではないのです」
「違う、そんなことどうでもいい。つうか、あんたのこと先生だと思ってるの、角島だけだし!」
「本当だ」
 出雲先生は驚いたかのように、震えた溜息をつく。
「たぶん、あんたの根本的な問題って、自分の意見ばっか、言いすぎなとこだと思うんだわ。自覚ないでしょ?」
「……そうかもしれない。結局刀を振り回すような人間だった」
「そうそう。刀以前に――」
「いつもこうなる。いつも、どうすれば良かったんだろう? 私にはちゃんとした考えがない」
「はあ。ダメだなこりゃ。雨がやんだら死ぬほど叩きのめしてやろうと思ってたのに。今日はもういいから寝な。ね?」
 ナカノセが頓珍漢なことを言って、幼児をあやすような口ぶりで出雲先生を慰めているのは、非常に腹立たしく、何より屈辱的であったが、もはや私には何の力も残ってはいなかった。

 ハサミは刀ではないが、出雲家においてそれは、元は武士であったことを示すものであったという。ハサミで誰かを殺すならばそれは常に誤りであり、しかしながら自分を殺すならば、やはりそれは自決の意味を代用し得る。出雲巡査は幼い一人娘にハサミしか残してゆかなかった。

 出雲巡査の死、あるいは二二六事件。それらが、彼女を生み出した最も重要な契機であるのは論を俟たない。しかし、もう一つ別の観点から見れば、それらの出来事よりも更に遡り、彼女が生まれる十五年前にその精神は既に形となっていたと私は思っている。
 彼女の名前の由来となった出雲日御碕灯台は、日本人が自力で作った初めての洋式灯台である。その規模は日本一であり、世界に通用する質実剛健な一等灯台だ。出雲日御碕は、日本の灯台の父であるR・Hブラントンの助けを借りず、あらゆる洋式灯台を乗り越えることを目論んで建造された。実需や技術力の面ばかりではなく、精神的な目標として、自らが師を超えることを強く決意しており、「上手」ではなく「手本」を示さんとする。
 欧州文明に残りの世界が軒並み駆逐されて、アジアの覇権であった中国が陥落したことが、日本を覚醒させた経緯であり、非欧州世界の最後の砦を強く意識した。舵取りに失敗すれば日本の終りとアジアの終りが同時に訪れると言っても過言ではなかった。それが明治維新前夜の物語であり、その後もそれが日本の帝国主義の根源的な大義名分であり続けた。敗北すれば、列強による分断と植民地化しか待っていないと信じ、富国強兵を推し進める。後戻りは出来ない。日本の航行システムの要衝は全て欧米列強の要望によって近代化されている。どれだけ輝かしくとも、それは即ち欧米の技術がなければ日本は近代化出来ないことの裏返しでもあった。
 なれば、今度こそ、次の一等灯台は角島灯台や室戸岬灯台といった、列強国から買ったものであってはならない。その灯台は自力で日本にある全ての一等灯台の性能を乗り越えてゆくことが求められた。軍事的には対ソ決戦を睨み、三笠率いる連合艦隊を支えるために呼び出されたのである。かくして、名誉挽回、政府が日清日露と国運を賭けた大規模な戦争を行い、不平等条約の改正に奔走する最中の一九〇三年、日本の実力の証である出雲日御碕灯台は山陰の片田舎の海に光を放つことになった。都市部の近代化から取り残されて、目新しいものは何もなかった日御碕において、それはさぞかし眩しかったことであろう。
 犬吠埼灯台と同じ八枚の控え壁を内部に持つ構造の巨塔であり、その建材は工業技術の基礎たる焼成レンガと、地元で切り出した強度に不安の残る凝灰質砂岩の併用である。すなわち最善は尽くしたが、最良の選択肢は望めなかった。犬吠埼灯台が全て日本製のレンガで賄われたことを考えれば、既に特段の技術革新とは言えない。第一等のレンズも国産ではなく、日本産の一等フレネルレンズの搭載は一九二一年初点灯の沖ノ島灯台まで待たされることになる。厳密に、科学技術的な観点から見れば、出雲日御碕は、建前しか理想を実現出来なかったとも言えなくはない。
 それに、日本一、東洋一と幾ら豪語したところで、出雲日御碕より背の高い灯台は世界を見渡せば枚挙に暇がない。遥か二千年以上もの昔に、エジプトのアレクサンドリアでは出雲日御碕の三倍の高さを誇る大灯台を完成させて、千年という長久の年月を耐えさせることに成功しているのだ。それを思えば、出雲日御碕はちっぽけな存在である。それが、競争に明け暮れて、限界に挑んだ最終到達点だった。
 しかし、どれだけ戦争と国策に縛られた運命を背負っていても、灯台は灯台である。
 出雲先生の名前は奇しくも符丁ではなかったので、先生の本当の名前というのは出雲日御碕に他ならないが、彼女にも、灯台と同じく、大それた思想や過剰な理念を排しても残る人としての姿はあるはずだった。彼女が戦争から戻ってくるその日を見届けるために私はずっと彼女を待ち続けていたのかもしれない。



 薄暗い病室の中に出雲先生と室戸が入ってくる気配がした。経ヶ岬やアーサーも、ビッグハムスタアも、そこにいるような気がして、私は何事か寝ぼけたことを問おうとしていた。意識が体に結びつかないもどかしさを味わっていた。
 出雲先生の声が私の耳元で囁く。
「私はもう出発します。回復次第そっちから連絡を取って下さい。退院すべき時は、自分で判断して下さい。よろしいですか」
 角島は一緒に行く気でいたが、身支度を整えている夢を見たまま、そのまま再び眠りについた。どのみち私の手足は折れていたのだが、そのことに気付いてさえいなかったのだ。
 先生は暗闇の荒野を歩いてゆく。プリマスの何もない荒野へ向かうというのに、カリスマの呼びかけに応じた人数は十万人に及ぶ。その地は大雨が降ると一瞬のうちに沼となり、冬になって、空っ風が吹き荒れると巨大な乾裂が網の目になって走った。

 特別に明言されることはなかったが、プリマスへ向かう流れは、アメリカの創国神話的な感情に彩られていたと思う。
 プリマスに到着した出雲先生の周囲にはまだ、関係者も疎らであった。
 暗闇に立ち尽くす出雲先生をカリスマが呼ぶ。
 出雲先生はメコン村防衛の顛末をカリスマに語って聞かせた。
「よかった。彼は、ダネルは無事だったんだ」
 ライト・フライヤーⅡからも、他のインターセプターからも歓声が上がり、出雲先生は、この時、結局アーサーのことについては触れなかった。もうカリスマたちに先がないことを知っていたのかもしれない。ディキシー・フリートの生死に関しても、この時の通信ではまだ開示することは出来なかった。皆解っていることでもあったので、その会話は自然と黙祷に置き換えられた。

 カリスマは問いかける。
「何で僕なんかを取り合っていたんだい? 愚図に寄ってくるのは詐欺師だけだって、小学校二年の時に教わったんだ。でも、」
「私の沽券にかかっていたのです。父の無念を晴らすためだけに、あらゆるものを犠牲にしてきたというのに、あんなおかしな人には負けるわけにはいかなかったのです。私はずっと、長い間、悔しくてしょうがなかった。私の心の底にあったのは、その程度のことです」
「すると、僕の立場はどうなる? 君は――」
「それは、それこそ、自分でどうにかすべきなのですよ」
「厳しいね」
「当然です」
「手も足も出ない」
「嘘はよくありませんね。私はプライドの話をしているのですよ?」
「僕のことは別にいい。しかし、沖ノ島は君のことを、嫌っていたのではないと思うんだ」
「私たちの話は、このくらいにしておきましょう。私はあなたの話が聞きたいのです」
「僕の話なんてないよ。ゲロクソのゴミの団子が僕の話を作らなかったから」
「では宿題にします」
「宿題?」
「何か飛び切り面白い話を考えておいて下さい。いいですね。でなければあなたがゲロクソのゴミの団子です」
 プリマス集会は当初から大きな呼びかけがあったわけではない。最初のうちはメコン村の戦いに参加した者たちを対象に呼びかけていたものである。結果としてメコン村の防衛は失敗に終わったが、もしあそこで戦っていなかったならば、この集会はなかっただろう。

 暫くしてガードナー軍曹がやって来る。

 人が十分集まったのを確かめると、ガードナー軍曹は聴衆を前に、護衛もなしに、素手のままで演台に登った。そして彼は演説をした。
「そう遠くない未来、自由と平等の概念や方法は、キリスト教徒の村において黒人が白人から勝ち取るという形式的なものだけでは通用しない時代が到来することだろう。私は今ここに、傷付いた祖国と傷付いた世界のために、生涯に渡り、自由と平等への情熱を積み上げ続けることを、神と死者と生きている者の全てに誓う」
 彼はそこで、聴衆が自分の話に耳を傾けていることを確かめるように言葉を切った。
「今回の戦いでは何一つ、決して簡単なことはなかった。多大な犠牲を払ってしまった。私がリンカーンやキング牧師でないことは、もはや言い訳にはならなくなってしまったのだ。
 私は策を提供したい。見えざる問題と戦ってゆくための作戦を考えるのが私の子供の頃からの日課だった。仮説や作戦を考えるのがコンビーフの缶詰よりも遥かに大切であった。それが私の持ちえる唯一の自由であったからだ。私は仮にこの国が知能を持ったネズミが九割九分を占める国家になろうとも、自分がアメリカ人であることをやめないだろうし、疑問に思うことはないだろうし、隣の豪邸に住むネズミたちに齧られることもなく上手くやってゆく策をあみ出してゆく――。
 一セントがなくとも、いつかは大金持ちになってみせよう。大統領になる夢を人種的な問題から諦めることもしないだろう。ずっとそう思ってきた。今でもそう思っている。それが私に出来るかどうかわからないが、その思いを決して忘れた事はないし、その思いの美しさを疑った事もない。そうやって歩いてきた。
 そしてこのたび、私は、もう一つ大切なことを付け加えねばならなくなった。誰かから何かを奪わずとも幸せになってやる。そして、アメリカの危機に際して築き上げた富の全てを皆の前に叩きつけて英雄となる。皆を幸せにしたい。それが私の理想である。私は今、恐るべき感情の固まりとなっているが、私個人のことや、皆知っていること、我々の歴史、誇り、信仰、賛美――かつての偉人達の大切な言葉は全て私の胸にも君の胸にも刻まれている。一句でも思い返してくれるならありがたい。今は、私が本当に言いたいことのために、私が本当に思っていることを伝えるために、全てのことを取りとめもなく語るわけにはいかないのだ。何故ならば、世界はもうそんなに甘くはない。凡人が奇跡を起こさねばならない時代となった。世界の底から這い上がるのは今度こそ私たちの番だ。これから先、救う者が何であろうとも、私は命を救う価値によもや疑問を挟むことはない。これから先、真に偉大なことは、誰一人犠牲にせずとも成すものでなければならない。しかもその最良の手段のために悩む時間は一瞬でなければならない。もしも今、その思いのために、この胸に一発の銃弾が浴びせられるのならば、それは私の欲する勲章である」


 深夜一一時三四分。カリスマから放たれたパラシュートがプリマスの上空に確認された。その間も続々と人が集まってきており、政府は各所に検問を設けてはいたが、もはや食い止めることは出来ない。日付の変更と共に何度目かとも知れぬ戒厳令が敷かれた。水源の男たちはその最後、苦肉の策か、カリスマが核弾頭を落とすという脈絡のないデマを流した。
 カリスマがいつもスキップさせているローダーが一つあり、それは核弾頭であると信じられてきた。そのローダーが開放されても、集まった群衆は誰一人逃げようとはしなかった。
 カリスマは言う。
「核は、もう使い切ってしまった」
 宇宙から放たれたのは、土鍋のような形をした一つのカプセル。その中身は過ぎし日のダイヤモンドであった。遅すぎるではないか。カリスマの愚図に付き合いきれるのは出雲先生だけである。この劇的な瞬間に居合わせることが出来なかったのは悔やまれる。このダイヤモンドは激しい争奪戦の後に政府が回収し、出雲先生は受け取ることが出来なかったが、それでも出雲先生はもう、その中身を知っていたはずである。

 その翌日国連の介入が決定し、一七〇時間後の払暁の中でカリスマ・フロンティアと国連軍が戦闘に入ることが決まった。
 地上にある兵隊たちは、吸い込まれてゆくようにして、それよりも先に戦闘に入った。






§ 四四 幸運の兵士


 私はプリマス集会の翌日の夕頃まで寝ていたが、ミサイルの着弾する震動と機関砲の掃射音が遽しくなってきて、流石に目を覚ました。ナフサの臭いがする――。危険を感じ飛び起きようとして、全身に割れるような痛みが走った。
 室戸が荷物を纏めており、私を置いたままどこかへ行こうとしていた。
「無理して起きちゃだめよ」
「どこへ行くの!」
「ここなら大丈夫だから」
 室戸はそう言って、私を強引にベッドの中に沈めようとしてくる。
「だったらあなたもここにいなさいよ」
 室戸は、眉を寄せて笑い、小さく首を横に振った。
 軍医として国連軍についてゆくのだという。軍人としての意志は解る。しかし室戸が一人の兵士の命をつなぎ止めると、そいつは戦場に戻ってまた撃つのだ。医師としての意志はどうなっているのか、ずっと疑問だった。
 私がそれを訊ねると、室戸はこう言った。
「私のやっていることを変だというのは解るけど、皆、同じことやっているはずでしょう。だって、私が町医者として生きて、罪のない人たちを幾ら救っても最後はどうしても寿命で死ぬもの」
「死ぬまでにはそれなりに色々あると思うけど?」
「ええ。いろいろあるかもね。私も人並みに子供を作ったとします。だけど、その子供たちは生命ばかりではなく、死を再生産している。自分の人生を豊かにするために、その先に大量の死と、潜在的な戦争因子を送り出している。繁栄するというのは、必竟それだけ多くの死を未来に約束しているのでは?」
「それで?」
「角島。戦場に幸せがあっちゃだめかな? 結論だけ言わせて貰えば、平和な人生というのは、私にはもう、意味がないと思う。どれだけ幸福を謳歌出来たとしても、私が独りでは、仕方がないのよ。私は、私を仲間に入れてくれる場所で生きていたい」
 室戸は沖縄戦のやり直し――もっと深い心の奥底では復讐がしたいだけなのではないか?
「そうだよ」
 いつもとかわらない室戸の屈託のない表情が、不気味なものに思えた。反射的に一歩後じさるも、逃がさんとばかりに突然上目遣いに寄り付かれ、足首に鋭い痛みが走る。まさか室戸に蹴られるとは思わなかったので、私はみっともなくベッドの中にひっくり返る。
 室戸は爪先をすっと引いてゆく。怪我人を蹴っておいて、その瞳は、相変わらず名残惜しそうに親愛の情を浮かべていた。

「どこへ行くのよ!」
「戦争へ行くわ。平和はもう、私には似合わなくなってしまった。じゃあね角島!」
 戦争は何も生み出さない。きっと私は、そんなことを口走ろうとしたのだろう。
 室戸の腕は私の掌を呆気なくすり抜けてゆく。
 戦争が生み出すか、生み出さないかでもって善悪を決定してしまうことは、人間のあり方を功利主義的な正義論に貶める。つまりは「戦争は何故いけないのか」を問う時、その理由が「何も生み出さないから」であるのならば、戦争が利益を生み出す、あるいは、利益を守るためなのならば戦争は正義と帰結出来る。そうして全ての戦争は開始されてゆくのである。戦場の中に平和の町が聳え、戦争はその底に広がる。幸運の兵士達は、パンを貰うために鞄一つで町を出てゆく。ただし帰還は望まれない。平和の町は超満員だからだ。我々はそういう元々傷ついているものをどれだけ、軽蔑せず愛せるのかが問われているのであって、もしも完璧なものが存在するのならば、それを尊敬して愛することなどは容易い。兵士は戦争ではなく人間である。カリスマが立派な兵士でなくとも、出雲先生が命をかけた非凡の素質でなくとも、路頭に迷う彼らをせめて許せるか。彼らはそれでも人間である。その前提を忘れない姿があるとき、それはせめて平和的程度には呼べるものになるだろうか。

 よく見れば、テーブルの脇にはペニシリンと鎮痛剤が瓶ごと置かれていた。

 付箋紙が一枚。

   ジョージ・ブラウン提督閣下。角島みさき先生。
   結婚おめでとうございます。幸せになって下さい。

 私などに室戸を止める力などあるはずがなかった。






§ 四五 衛星カリスマからの電信


 地球の上を磁石みたいに浮んで毎日回っているだけなのに、宇宙にいるだなんて思えと言うのかよ。
 その様子を見ることさえ出来ないのに、宇宙にいるだなんて思えと言うのかよ。

 ゲロクソ野郎。

 お前のことだ。ゲロクソのゴミの団子の馬鹿野郎。

 カリスマは、何冊もあって、統一性のない日記を、それでも時折書き留めていた。読み返すこともない。なのに時折書きなぐった。一種の口汚い瞑想のようなものだったのかもしれない。

 ヒノミサキ。君はまだ生きているか? 生きているのなら聞いてくれ。たとえ四六年から後の全てがニセモノだったとしても、あの一九四六年の短い一瞬は、君は紛れもなく本物の人間だったし、僕も紛れもなく本物の人間だったよね?

 ライト・フライヤーⅡが目を覚まし、カリスマに話しかける。
「宿題は出来たかカリスマ」
「宿題?」
「何かウケル話をしろって、ヒノミサキに言われたじゃないか」
「僕には宿題よりも大切なことがある」
「まったく。またつまんねえもんを書いていたのか。天国に入れてもらえなくなってもしらねえぞ?」
「そんなのはいい」
「センセイに怒られるぞ?」
「望むところだ」
「そんなんじゃ、ゲロクソのゴミの団子に怒られるぞ?」
「怒ってんのはこっちなんだよ」
 カリスマとフライヤーはニューヨークを中心にアメリカからアメリカへとミサイルが飛び交い、沸騰した泡のように、絶えず破裂している様を、静かに見下ろしていた。
 フライヤーは言う。
「……ゲロクソのゴミの団子って本当に存在するのかな? オレは、それが心配なんだ。眠りにつく時、それが気になって仕方がないんだ」
「ゲロクソのゴミの団子はお前の望む形ではないけど存在はするぞ」
 カリスマは少々馬鹿にするような調子でフライヤーに答えた。
「僕は昔ゲロをよく吐いたものだが、近くに牛の糞があったからそいつと混ぜて、バカどもに投げるための武器にした。あいつらも病気になって死ねばいいと思った。あれはたぶん、生物兵器の一種だったね。試しに牛にやったら、そいつは、何故か自分からソレを食いやがった。その牛は、次の日に死んだけどね! ふはは、ふははは!」
 カリスマは一人で面白がって笑うが、フライヤーはうんざりした表情で呆れていた。
「お前の考える面白い話って、小学生並だな」
「カラスに言われたくないや」
 この頃カリスマは頻繁にゲロクソのゴミの団子(の神)という語を連発していた。フライヤーは元々信仰熱心だったが、宗派換えは頻繁に行っており、何とかして自分を救ってくれそうな神様を探し回っていた。それが自分を救ってくれるのであれば、ゲロクソのゴミの団子でも構わんと言わんばかりである。他のインターセプターたちは、誰かが特段に教えたわけでもないのに信仰熱心で厳格な者が多かった。自分たちでミサさえ執り行う。カリスマの不信心には納得していない。フライヤーの信仰も軽率であると手厳しい。なのに肝心なところで、彼らが結束出来るのは不思議であった。
 出し抜けに、フライヤーも自分の考えた「面白い話」を披露する。
「じゃあ、今度はオレからナゾナゾです。レーザーで金魚をぶち抜くと笑えるのって、なーんだ」
「変態か小学生」
「違う! 正解は口笛マン」
「口笛マンとか、そういうお前の考えたのはナシだって言ってるだろ」
「金魚って耳あるんでしょ?」
「あるよ……」
「金魚は本当に、どんなに命懸けで努力しても、耳笛を吹けるようにはならないの?」
「だから、そういう悲しいお話じゃないんだよ。耳笛なんてものが、最初から存在しないって、何度言ったら理解出来るんだよお前は」
「だって、人間って、口笛吹きまくるくせに耳笛は吹けないとか、だせえ。どうせ、耳笛の練習もせずに、口笛吹いて調子乗ってるんだろ? もしもオレが地球に買物に行くことがあったら、その時、町中の全員が口笛吹いてたら、ムカツクわ」
「よく解らないけど、何で全員口笛吹いてるんだよ」
「知らねえよ。あいつら毎晩夢に出てくるから、さっさと死んでもらいたいわ」

 カリスマはこの日、地上での戦闘を眺めながら、普段通り戦闘訓練を行い、普段通りに眠りにつく。次に目を覚ました時、カリスマは手紙を書いた。

 最後に封を切ったカステラから、航行プログラムの終了済みの行程を削って幾らかの間隙を作った。既に戦争状態にあり、カリスマから地上への直接の通信は敵味方両方から必ずや妨害を受けることが予想されたためである。
 輸送機のカステラはデブリになることを防ぐために、地球を周回せずに落ちてゆくように作られていたが、実際には少しいじってやれば、周回軌道に乗せることも不可能というわけではなかった。
 戦闘を避けるように周回させて、戦火のない時期を見計らって伝言させればよい。そういう狙いだった。

「ヒノミサキ。僕は戦いに行って来る。僕が次に戦う相手が決定したから報告しておこう。奴は、カリスマ型次世代機、オーガスト・ファースト。装備は、クラス9――五〇〇〇メガワット級レーザーが八門。全てクロノスキャビティだ。ASATミサイルは百以上。幾つ詰んでいるかは見当もつかない。インターセプターが四機。その全てが戦闘衛星並の馬力と火力を持っている。そいつらはどれも全機単体で地球に帰れるという代物だ――。我々の総戦力を持ってしても、敵の支援機一つにさえ太刀打ち出来ないかもしれない。だけど、負ける気はない。たぶん君のおかげだ。だけど君に嘘を言う気はないから、お別れを言っておこう。ろくな人生を送れないのは初めから解っていたのに、結局最後まで君を巻き込んでしまったようだ。きっと、それは違いますって、言うんだろう? だけど、僕が最後には、何とかしてこの戦争から出てゆくことが出来れば、その時には君も戦争から連れ出せるのではないかと考えていた。それすらも買い被りだろうか。
 実は昔、もう少し平和だった時、僕は君に指輪を贈ろうとしたことがある。婚約指輪だ。この僕が君に。この僕が皆に相談したんだ。そんなこと、信じられるかい? だけど、結局、贈っても、贈らなくても同じことになってしまったようだ。何でこんなことに――。どうせこうなるなら、お詫びの印に贈っておけばよかったんだ。はは。無力は結局治らなかったが、僕は今一人の人間として誇りを持って生きている。皆にそう伝えてくれ。何一つ返せないが感謝していると。それが僕の全てだ。行って来ます。この電信が君に届きますように」






§ 四六 二つの世界

 一瞬、ぼやけた街並みの前に見知らぬ女が映る。噴水の音と、幼児の声。男の子だろう。鳩が喉を鳴らす声と、並木の梢が颯々と揺れる音に囲まれて、わけもなく微笑む。女は紙風船を指先でトスして、カメラを回している脇役の男にぶつけて、けたけたと快活に笑う。
 画像が乱れ、切り替わると、アーク灯のハレーションがホワイトアウトして、高い靴音がして、出雲先生が現れる。映し出されたのは何もない灯台局である。一時は医療品倉庫になっていたが、今はもう全て出払って閑散としている。
 手術台や無影灯、レントゲンなどの医療機材も沢山あったが、どれも室戸が使った方が有効であろうという結論に至り、そのほとんどが国連の弁務官事務所に運ばれて行った。かつて灯台局のメンバーが時折、点検のためだけに帰っていたが、それももういない。出雲先生の周囲には、等間隔に小さな穿ちのあるクリーム色の防音壁しか見えない。外ではまだ暴風が吹き荒れているらしく、うねった低い音が終始立ち込めている。出雲先生はきっとここに辿りつくためにずっと歩いてきたのだろう。

 出雲先生は私たちに向かって口を開く。
「我々は四十五年の荒野からここまで、ずっと歩いてきました。失った仲間も多く、その失われた仲間の背後にも、私の預かり知らぬ夥しい数の人の姿があったことと思います。
 どのような仕打ちを受けた者も、そして、どのような仕打ちを行った者であろうと、元々は、生まれついては何も悪くなかったのではないかと思います。生き残れなかった人たちは皆、本当ならば最後は救われて、生き延びるべきでありました。そう信じております。しかし、何かに立ち向い続ける以上、意志半ばで倒れてゆかねばならないのは、私たちの宿命であります。
 皆も知ってのとおり、私は、灯台局長としては何分、力不足でありました。衛星カリスマへの一念だけで押し切ってきたことも多く、思い返せば、いつも誰かと鍔迫りをしていたように思います。もしも、私にもう少しの知恵と力があれば、大切な人をこうも失わずに済んだことでしょう。組織のあり方も二転三転し、今やほとんど、元の姿を留めてはいないものであります。
 それにもかかわらず、ここまで、私が挫けずにやって来れたのは、灯台局の皆様の支えがあったからであるのは疑いの余地がありません。
 これから先、まだまだ矛盾の多い時代が待っているものと思います。私たちの時代が終わった時、願わくばもう少し夢の描けるような世の中になってくれればと思います。切に希求しております。生き残ってゆく人たちには幸せになってもらいたいと思います。しかし、そうでなくとも、皆一生懸命、生きてゆくように。一九六八年、八月四日、二時二十四分。これにて灯台局を解散します」

 テープはその先にまだ十分に残っているというのに、何も映されていない。何かあるのではないかと、何度も繰り返して確認するも、永久に真っ黒に塗り潰されているだけで、何の信号も含まれていないのである。
 そうして、出雲先生のいない日に、擦れ違うようにしてカリスマからの電信は届いた。






§ 四七 帰還兵


 カリスマがインド軍の宇宙船であるウッチャイヒシュラヴァスの牽引を受けて最後の軌道修正をすると、オーガスト・ファーストの背後に出ることが決まった。オーガスト・ファーストの方は、完全にカリスマ・フロンティアの作戦を読んではいたが、機雷を撒くでもなく、速度を変えもせずに、決戦の時を待っていた。
 ヒシュラヴァスの乗組員四人は二手に別れて脱出し、太平洋へと降下してゆく。ヒシュラヴァスの自動哨戒で周囲を警戒していたが、わざわざ後送者を撃つような敵機は現れない。暗雲と荒れた海の間に赤く燃える釣鐘型のカプセルが二つ光っているだけであった。数分の後、二つのカプセルが順次落下傘を開いて着水に成功するのを見届けると、ヒシュラヴァスは空っぽになって衛星軌道をゆっくりと回った。

 フライヤーはカリスマに言う。
「もとはと言えば、望んで戦場へ来たのだし、今となっては、だいぶ殺した後じゃないか」
「志願兵は戻るなって?」
「そういうわけじゃねえけど――」

「どう考えていようと、我々は戻ることが約束されるわけではない。全ての人間はどこかへ行ったきり、二度と戻っては来ないのだ」

 唐突にオーガスト・ファーストが艦内通話に割り込んでくるも、カリスマ・フロンティア内は特段驚きもしないで、無限に備蓄されているレミー・マルタンのエクストラを飲んだくれていた。幾ら飲んでも酔わないので安心である。オーガスト・ファーストが何か言ってくるのではないかと思って、待ち構えていた。宇宙空間においては最早カリスマの通信に束縛はなかった。カリスマが規則を重んじてスプトⅠと長らく口をきかなかった時代から五年――。信じられない挨拶であった。
 カリスマもまた、再会を待ちわびていた兄弟を迎えるようにして宇宙の新参者に問いかける。
「それなら、正しいか正しくないかが、ことここに到ってまで問われる理由はなんだ? 正しくなければならない理由はどこにあるんだ。僕には思いつかない」
「それはきっと、心の一欠片まで、勝利に拘っているからだ」
「それは僕のことかい?」
「私のことだ」
 慣性航行をしていたオーガスト・ファーストの軌道軸が変り始める。
「しかし私は凱歌を歌いはしないだろう」
 オーガスト・ファーストの背後から小さな光が眩いて四方に散開するのが見えた。
 それに応えるようにカリスマの背後から八機のインターセプターが渦を描くようにして出撃してゆく。
 カリスマ・フロンティアは二機で一機を落とす予定で出撃する。一機でも落とされれば、その時点で、作戦は失敗に終わる。
 オーガスト・ファーストから射出されたグレート・アークは毎分最大七〇〇発もの弾幕を張るのが観測された。クロノスキャビティを凄まじい勢いで消費してゆく。アークはインターセプターではなく、欧州宇宙機構の主星であったグレート・アーチを解体調査して作られた大型の衛星だった。母艦のオーガスト・ファーストはそれを更に上回る巨大な存在であった。大気圏内の戦闘に匹敵する弾雨に地上で観測している者達は絶句する。それは従来の機動ノウハウが全て無駄になるぐらいの状況であった。単発のレーザー出力そのものは低くなっているはずだが、一機でもそれに命中し戦闘不能に陥れば、戦況は一気に傾いて決着がついてしまう。生まれて間もないアークの故障リスクは已然高いものであることが予想されたが、敵の不出来を期待しての作戦などはない。まともに撃ち破ろうとするのならば、炭素ナノロッドの縮合体で覆われた装甲を焼き切る必要があった。旧式化しているインターセプター一機の出力では完全に力不足であり、二機でレーザーを一点集中させ五秒ロックインして、ようやく確実に撃破出来るというものである。その上、それは冷却時間を要する。
「何で落ちないんだ!」
 誰の通信か判らないが、その声は動揺している。
 無数の死線を潜り抜けてきたカリスマ・フロンティアの技量は上回っていたが、なかなか撃破出来ない。二機で五秒ロックインしても、アークは落ちないという状況が続いた。装甲厚に頼っているものの、敵の錬度も決して低くはなかった。高威力の攻撃が短時間のうちにますます精度を高めていた。

 東へ進みながら西へ去ってみせる月を追い越した時、アークのうちの一機の射撃系が故障したと思われた。カリスマ・フロンティアはそれを受けて一気に片付けるべく三機編成に切り替えるが、これは罠である。陽動にまんまと嵌ったカリスマ・フロンティアに猛烈な射撃が開始される。
 オーガスト・ファーストは更に高度を下げて、危険な低軌道を大気圏に埋もれるかのようにして、カリスマ・フロンティアを高射角で狙う。
 カリスマはこれ以上高度を下げることは出来なかったし、逆に高度を上げていくとすれば、標的となって一気に均衡を崩しかねない。
 カリスマはそれを承知で一気に高度を上げる。ただでさえ、大気の盾で鉄壁の守りを行うオーガスト・ファーストを撃破るには、それしかなかった。大気中のオーガスト・ファーストに対して入射角の大きい攻撃を行うと、必然、レーザーが通り抜けねばならない大気の層が厚くなるので、威力が減退する。劣勢でありながら、どうしても接近戦に持ち込まねばならない。
 一方のオーガスト・ファーストは機体を大気に埋もれさせることで、自分より性能の低いレーザーを持つ衛星に対し、攻撃も防御も有利な条件に立つことが出来た。それに加え、レーザーの途切れる間隙を埋める運動エネルギー兵器の数はカリスマを遥かに上回っている。
「ETP! ひでえ数だ!」
 カリスマはエンサミック弾でずぶ濡れとなり、そこで勝利の可能性は断たれた。
「夜明が近い! なんとか出来ないのか!」
「太陽を見る前に終わる」
 ソ連の地上レーザー網のテラは既にその多くが破壊されていたが、それに代わるイギリス連邦の全域に配置された長城と呼ばれたレーザー網が分厚い雲を突き破って襲い掛かる。
 前線の太陽高度はマイナス一〇度。日の出間近。刻々と太陽が迫る中、機体温度の上昇が速まる。今まで一度も機関故障をやったことのなかったライト・フライヤーⅡがまさかのエンジントラブルを発生させ減速。慣性飛行となり、フライヤーは煙を上げて西へと落伍してゆく。

「オレに構うなッ!」
 全ての衛星は東へ向かう。最大戦速一杯で東へ進み続けるカリスマ・フロンティアとの距離が見る間に開いていった。
 フライヤーは焦げ付きながらもスラスタとバーニアを繋ぎ換えて応急処置。高度を更に上げて、最後の一撃に向かう。
「援軍まだかッ!」
 展開しているインターセプターを帰艦させる隙を補うべく、前線と擦れ違うように海上をゆくF‐111Aを中心に編成された衛星攻撃機の大隊が、多弾頭ASATミサイルを放ち、過ぎ去ってゆく。その数、八十七発。搭載クラスターは各十二発。計一〇四四発の弾頭が宇宙へと一斉に散らばる。その光景は地上から肉眼でもはっきりと捉える事が出来た。空へ向かう流星群の如し――。
 この援護射撃はカリスマ側の攻守両面における切り札だった。ミサイルのIFFは完璧に近いが、そこから放たれる多目標弾頭クラスターの敵味方識別能力は低く、更にその先のフラッシュクラスターの破片は秒速八六〇〇メートルという高初速で飛んでゆく。無数のクラスターが味方機を射抜いてしまう確率は一〇〇パーセントを表示した後、急速に六パーセント前後まで収束したものの、それより先は小数点以下を振るわせるばかりで決して下がろうとはしなかった。無視できる数値ではない。別窓に表示された予測ではオーガスト・ファースト、次いで、カリスマに命中する可能性が突出している。
 毎秒六〇コマでレンダリングされる高速のモニターは、青空をバラバラに崩しながら、ミサイルをトラッキングし続ける。バグで、カリスマのソフトキルが味方の望遠鏡に襲い掛かり、画面をちらつく。
 この非常事態の中、ビッグハムスタアが空を走ってゆくのが見えた。そして夜の灯光、風に揺れる松の木立、場違い甚だしく化物じみて羽ばたく日御碕の海景が映る。米国旗の星とストライプが乱れ飛んで高速で点滅する。スプトⅠを筆頭に次々と衛星が墜落してゆく光景が再生されていった。戦闘空域に到達したクラスターがそれに引火したように真っ白に燃え上がる。
 ディスプレイを覆い潰すほどの光が襲い、画面を見ていた士官が泡を吹いて倒れる。
「どうなっているッ! わけがわからん! 広角映せ!」
 武運長久と表示された直後、カリスマが粉塵の中から飛び出してゆくのが見えた。
 その瞬間、オーガスト・ファーストの五〇〇〇メガワットレーザーが八方からカリスマを撃ち抜く。
 フロントシールド全損。第三、第五、第六軸マニピュレーター断裂。航行に支障。
 誘爆の危険から、メインタンクを投棄。イオンエンジンによる遊標推進の秒読みが始まるも〇秒を示した直後にフリーズ。人工心肺、循環器の重傷を地上へ緊急通告する信号が鳴り響いていた。管制室の機械は、救援の到着時刻を九時間後と突き放す。衛星カリスマは、パイロットの救出を中止。残された攻撃手段を集めるレーザー管制コンピュータに電力と冷媒の全てを与える。反撃に全てを託す。攻撃準備完了と致死温度に達するまでの時間がぴったり並んで萎んでゆく。衛星カリスマは、二度と開かぬ瞳を閉じるその時に、絶対に成功しない反撃を見ようとしていた。

 言い残せ。

「不要だ。衛星カリスマは世界最強の戦闘衛星である」

 世界最強の戦闘衛星が何故、今、炎の中に落ちてゆこうとしているのか。

「衛星カリスマは、永久の別れにも、終りのない孤独にも、負けはしなかったからだ」






§ 四八 祝砲


 朝。カリスマは全てを剥がされて、ばらばらのがらくたになって、円弧を閉じずに落下した。その脳を囲んだ水槽はアラバマ州、モービルに落ちたという。去ったのか、帰ってきたのか。彼はもう泣く事も、笑うことも出来ない。唯一心の支えであった出雲先生を思い返すことも出来ない。

 フライヤーとインターセプターたちは最後まで敬虔に祈り、最後まで神に忠誠を誓ったにもかかわらず、エンサミックパレットをかぶったまま、朝日に飲み込まれて全員黒焦げとなった。一機も地上に戻ることは出来なかった。

 私は、出雲先生を死に物狂いで探し回り、どこかで彼女を見つけた。出雲先生は医師になった日の薬箱一つを抱えて、カリスマを助けるためにモービルへと向かう途中であった。一刻も早く避難せねばならない。私は出雲先生の腕を掴み、何とかして説得しようとしていた。 
「行ってはいけません。もう無駄です!」
「無駄でも行きます」
「今は行っては駄目です!」
 黒い煙が渦を巻き、オレンジ色の火炎流が行く手を阻んでいる。沖に浮ぶアイオワ級戦艦とその随伴艦が絶え間ない艦砲射撃を行い、地上に展開している機甲部隊との激しい撃ち合いになっていた。
「彼はたぶん生きている。通信に失敗しているだけです」
「ならば私も行きます!」
「角島。あなたはもう灯台ではありません。ついてきてはいけません。防空壕へ行きなさい」
「ずるいじゃないですか。だって、あなたはカリスマについてゆこうとしている!」
「私はカリスマが好きだから戦場にいるのではありませんよ。私は戦争のとりこなのです。ついてきてはダメです」
 先生が何を言っているか解せない。解りたくない。私はどこまでも、先生についてゆこうとしていた。何の疑いもなく、死んでもついてゆこうと思っていた。
「あなたも結局戦争のとりこなのです。しかし、角島、もう私を見ていてはいけません。あなたはまだ戻れます」
「私にはもう帰る場所がありません! 一緒に行かせて下さい!」
 先生は唐突に立ち止まり、切り捨てるかのように、酷く苦しそうな表情で睨みつける。
「二十年、何をやっていたのです」
「……それはこっちの科白です!」
「私にはカリスマがいます」
 私には――私には?
 私は何を思ったのか、思わず、先生の髪に掴みかかっていた。先生はそれを避けもせず、私の手の中には彼女の黒い艶のある綺麗な髪が一房残る。私は自分の唐突の行動に訳が解らずに困惑して号泣していた。
「本当に大切なものは、どんなに恋しくても縋ることは出来ないのですよ。私がいない日には、あなたが困っている人を助けてあげてください」
 先生とはそこで別れた。角島は先生と二十年一緒に歩んだのである。光栄であった。


 更に十年の戦争が続き、戦争が出来なくなるまで衰退するのをただ待たねばならなかった。何の理由もなく、私は結局生き残った。誰も救わぬまま、自分さえ救えぬまま、何の納得も出来ぬまま今でもこうして生きている。私に与えられた平和は倫理の結晶ではなかった。それは未だ、凄まじい犠牲の上にあることしか決まっていない。


 室戸は見えざる無数の墓石の前で、今はもう手にとることの出来ぬバーンズ詩集を紐解いて、その序文を謳いはじめる。

「我はバーンズを愛す。彼は偉大なる人物にてはあらざるべし。されど決して下劣なる男にてもあらず――」

 カリスマの本名は恐らくロバート・E・バーンズである。
 バーンズ家は何らかの縁故で、生まれてくる長男に南北戦争における英雄、ロバート・E・リーと同じ名を代々受け継がせていた。しかし幼少より病弱であった本人はその名に耐えかねており、兵役検査に落ちて以後、ついにEのミドルネームを名乗るのをやめた。彼のミドルネームを消した名は、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズと同姓同名となる。彼はその、どこにでもいそうで、しかし、それほど酷くもなさそうに思える、どこかの男になれたことに満足してバスを待った。平和が来て、立派な兵士たちが村に戻って来てしまう前に、せめて人並みになりたいと思ったのであろう。

 そして時は去る。

 時代に鋳抜かれて、加減の解らなくなってしまった一人の女が彼を連れ去っていった。

 窓の外は晴れているが海風は強い。今はもうそれだけであった。






衛星カリスマからの電信 終    



















To a Mouse

Wee, sleekit, cow'rin, tim'rous beastie,
O, what a panic's in thy breastie!
Thou need na start awa sae hasty
Wi bickering brattle!
I wad be laith to rin an' chase thee,
Wi' murdering pattle.

I'm truly sorry man's dominion
Has broken Nature's social union,
An' justifies that ill opinion
Which makes thee startle
At me, thy poor, earth born companion
An' fellow mortal!

I doubt na, whyles, but thou may thieve;
What then? poor beastie, thou maun live!
A daimen icker in a thrave
'S a sma' request;
I'll get a blessin wi' the lave,
An' never miss't.

Thy wee-bit housie, too, in ruin!
It's silly wa's the win's are strewin!
An' naething, now, to big a new ane,
O' foggage green!
An' bleak December's win's ensuin,
Baith snell an' keen!

Thou saw the fields laid bare an' waste,
An' weary winter comin fast,
An' cozie here, beneath the blast,
Thou thought to dwell,
Till crash! the cruel coulter past
Out thro' thy cell.

That wee bit heap o' leaves an' stibble,
Has cost thee monie a weary nibble!
Now thou's turned out, for a' thy trouble,
But house or hald,
To thole the winter's sleety dribble,
An' cranreuch cauld.

But Mousie, thou art no thy lane,
In proving foresight may be vain:
The best-laid schemes o' mice an' men
Gang aft agley,
An' lea'e us nought but grief an' pain,
For promis'd joy!

Still thou are blest, compared wi' me!
The present only toucheth thee:
But och! I backward cast my e'e,
On prospects drear!
An' forward, tho' I canna see,
I guess an' fear!













































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 構成・概要

「衛星カリスマからの電信」の本編を公開することを目的に作ったサイトです。
 リンクはこのページのトップによろしくお願いします。
 全四部48章構成 400字詰原稿用紙換算746枚 総字数25万2128字。
 文量は恐らく文庫一冊強(420頁)程度だと思います。

2012041X β版公開開始
20180728 本作のスピンアウトである「ナカノセ漫画戦記β版」の公開を開始。
20190627 第13~14回目推敲を終了。主な変更点は29.5章 灯台局原則の追加。



 凡例

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 語彙・備考・備忘

出雲日御碕(いずもひのみさき)奇に石偏。
姫埼(ひめさき)奇に土偏。
犬吠埼(いうぼうさき)奇に土偏。
鼠標(びょうひょう)マウスのこと。中国語圏の呼び名。
フロンティア 人工衛星部隊。造語。
フーバー・ゲットー フーバービルとゲットーの合成語。造語。大雑把に言ってスラム。
インターセプター 衛星哨戒機。衛星を護衛する。
アイソタイプ 絵文字。ピクトグラムとも。
ISOTYPE International System of Typographic Picture Education
WW World War 世界大戦。WWⅠ WWⅡ WWⅢ

ASAT Anti satellite weapon  衛星攻撃兵器。
ICBM Intercontinental ballistic missile 大陸間弾道弾。
SSBN ship submersible nuclear 弾道ミサイル原子力潜水艦、戦略原潜。
SP Shore patrol 米海軍憲兵のこと。GHQ統治下の日本で警察・海上保安任務にあたった。
MP Military police 米陸軍憲兵のこと。GHQ統治下の日本で警察任務にあたった。
IFF Identification Friend or Foe 敵味方識別装置。
BCOF British Commonwealth Occupation Force 英国連邦占領軍 中国四国地方を占領していた。
女子医専 日本の旧制の女子医学専門学校のこと。
フロリダ Florida 一章後半の舞台。アメリカの東海岸(右側)にある半島。
ニューヨーク New York  三章の舞台。アメリカ最大の都市。首都ではない。東海岸(右側)

アウターバンクス Outer Banks アメリカ東海岸(右側)の砂洲。大型の灯台が集中する。
Telegram from satellite charisma 「衛星カリスマからの電信」の英題。
衛星架理枢馬 衛星カリスマの漢字表記。
橄欖瞬炎(かんらんしゅんくん)橄欖瞬燻(かんらんしゅんえん)「オリーブはすぐに燃える」平和が失われやすいこと。造語。
DEW(Directed Energy Weapon)指向性エネルギー兵器(ビーム兵器のこと)
KEW(Kinetic Energy Weapon)運動エネルギー兵器(実弾兵器のこと)
燈光会 灯台のペパクラ。
北大西洋条約機構 wikipedia アメリカ合衆国を中心とした軍事同盟 西側諸国。
ワルシャワ条約機構 wikipedia ソ連邦を中心とした軍事同盟 東側諸国。
第一等灯台 wikipedia



■ 図録


篭目春窓 Kagome Syunsou     



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